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異和観レンズ

「いわかん」

この音を聞いたら誰しもが
「違和感」
を想像すると思います。

でも今日はあえて
「異和観」って当て字させてほしい。


異、そして和

捉え方次第では良い字列であり、
逆に言えば悪い字列にもなり得る。

異文化同士がお互いを認識し合えば、
その空間は和むでしょう。
異文化を背景とする者同士の交流は
自分がしていても、誰かがしていても、
無条件に愛おしいと感じます。

その笑顔は何よりもかわいいです。

私の大好物です。

ではどうしてこのような素敵な意味を
持ち合わせるふたつの文字の組み合わせが
悪い方向へと捉えかねないのでしょう?


みんなは、
自分の習慣を誰かに何か言われたことある?

「背筋が綺麗に伸びているね」
「いつも笑顔で楽しそうだね」

「言葉づかい気をつけた方がいいよ」
「もう少し女の子らしく食べなよ」

私は直近数年間でこんなことを言われた。

要するにどういうことかというと、
自分の習慣を「習慣」と認識させてくれるのは
他の誰でもない、他者ということです。

自分が普通にしていても、
他の人からすれば普通ではないこともある。
習慣からその人の背景を読み取るのは
案外安易なことなのです。

その人が普段どのように過ごしているのか、
その人が普段どのように物を扱っているのか、

良くも悪くも、
その人の「普段」が簡単に窺えてしまう。
自分と違うから、すぐに見つけてしまう。

ほんの些細なことだけで
その人の真髄部分が見えることもある。

ほんの少し、後ろを振り向くだけで
ほんの少し、声をかけるだけで
そこに待つ未来は変わっていくものなのです。

だから、異なりを認識したうえで
その場に和みを持たせるって
実は難しいことだったりする。
気がつくと人って止まらず次から次へと気づくから。


異和観レンズは、
違和感を覚えると同時に発動する。

本音を言うとすごく疲れます。

次から次へと考えがめぐる。
疲れしか覚えない。

私の異和観が誰かの優しさだったり
誰かの気遣いだったり
誰かのあたたかさだったり

そういうものに発動すると心が豊かになる。
豊かになると同時に、
「自分もそうなりたい」と願うようになる。

気をつかう場面が増える。疲れる。

反対に、
私の異和観が誰かの気遣いの欠如
誰かの心のつめたさ
誰かの気配りの行き届かなさ

こういうものに反応しても疲れる。

私だったらこうするのに、
とかそんな安直な考えじゃない。
「この人は何を考えてその行動に至ったの?」
という境地まで行き着いてしまうのです。
どうせ相手は何も考えてないのにね。
考えてたとしても気はつかってないだろうにね。


普段からしている行動に
プラスアルファが加わったとき、
人の気配り力は最大限に発揮される。

誰かと歩くにしても
置いていかないでゆっくり歩くとか、
お菓子が好きな子と一緒にいるときに
ちょっとしたスナックをあげるとか、
誰かと相乗りすることになったら
座る席についてひと声をかけるとか、
自分以外の誰かが一緒に扉の外に行くとき
率先して扉を開けるとか、
普段話さない人が一緒にいる場面で
どのように話を振るかとか、

そういうこと。

気遣いや気配りで誰も100点なんて取れない。
自分中心に生きて悪いこともありません。

ただ、違和感は異和観に目をつけられる。
それは他者に対しても、自分に対しても。


私は、「気をつけて帰ってね」とか
「次の授業がんばってね」とか
そういう気遣いをしてくれる友達が大好き。

でも、私はまだまだ幼くて自己中だから
それに対して「ありがとう」しか言えない。
「あなたも頑張ってね」という言葉が出てこない。

それがずっとずっとコンプレックス。
バイバイする前に心の余裕を持たせて
「じゃあ夜道気をつけて帰るんだよ」って
言える人間になりたい。

「今日もありがとう」なんて、自己中。
相手へもっと気遣える人間になりたい。
言われたら嬉しいのに、
自分ごときがそれで終えてしまうと悔しい。

だから私はいつでも後ろを振り返って
その人と目が合って隣に来てくれるまで
立ち止まっていられるのかもしれない。

立ち止まる暇があるなら
後ろ行って自分が隣にいけよって
そう思う人もいるかと思いますが、
後退りはセオリーに反しているのでナシです。

6/Sep/2024

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