
お山の参道
新幹線に乗るのはどれくらいぶりのことだろうか。
下町で生まれ育ち故郷らしい故郷もない。計画をたてて旅行にいく趣味もない自分には、ほとんど縁のないものだった。
そんな私が朝五時に起きて新幹線に乗っている。それも連絡不能になった同僚を探しに行くというとんでもない目的のためだった。
「須藤くん、君ってたしか橘さんと同期だったよね。そこそこ仲が良いって聞いたけど」
昨日のこと。
ふいに部長に突然呼び出され、開口一番に尋ねられた。
「橘さんがねぇ、持って帰っちゃったんだよ。赤ファイルの顧客名簿」
田崎部長はでっぷりとたくわえた腹の肉をぽんぽんと叩きながら大きくため息を吐き出した。
取引先からひそかにアザラシ部長と呼ばれており、首の所在が分からないほど肥満している。だがつぶらな瞳と、どこか憎めない困り顔がコミカルで、何よりも、けっして声を荒げることがないため社員からの人気は高かった。
「赤ファイルをですか?」
聞き直すと、田崎部長は短い首をさらにすくめてみせる。
わが社では、紙ベースの資料はその重要度や機密性で分類し、ファイルの色を変えて保管している。その中でも赤ファイルは厳重に保管されており、毎日、朝と夕方にすべてのファイルが揃っているかのチェックリストがあるほどだ。社内からの持ち出しはもちろんのこと、食堂や応接室などセキュリティレベルが低い場所への持ち込みも禁止されている。
「貸し出し記録の最後の名前が橘さんでね。しかもねぇ、ファイルを持ち出したあとに無断で退社してるんだよ。で、昨日今日とも無断欠勤」
「それは……」
私は思わず絶句した。
それはさすがにまずいだろう。だがもしも外部に情報を流すつもりでやったならば、あまりにも稚拙すぎる。
「ファイルを持ち出した後で突然具合が悪くなって早退したとかではないんですか?」
「だったらいいんだけどね。いや、よくはないけど。でもね、あの子、社員寮に住んでるでしょ? で、どうも帰宅してないみたいでね。会社を出たあとにふらっといなくなっちゃってるんだよ」
「でもあいつは、そんなに無責任なやつじゃ」
「そうだね。だから大ごとにしたくなくてね。けど、電話しても繋がらない。実家で何かあったのかかけてみたけど、どうもねぇ何ていうか話が噛み合わなくて」
「橘は両親が離婚したあとに、祖父母の家で暮らしていたと聞いています。なので、恐らくはかなりご高齢なのでは、と」
「なるほどねぇ」
部長はますます困り顔になってうなだれる。
「困ったなぁ。タイミングが悪くってね、来週の月曜日に外部監査が入るでしょ?」
「そうですね。あの、おそらくなのですが、……やはり橘は実家に帰ったんじゃないかと思います」
「そうなの?」
「はい。数日前に『ようやく見つかった』とメッセージが来たんです。彼女はとある狛犬をずっと探していたんですよ。それを見つけたので、いてもたってもいられなくなって帰ったのではないかと」
橘は、自分が知っている女性の中でも特に飾り気のない人だった。化粧は必要最低限、髪を染めることもない。入社して3年が過ぎた今でもリクルートスーツを着まわしており、アクセサリーを身に着けることもない。
そんな彼女の唯一にして最大の趣味は山に登ることだった。
休日となればあちこちの山に出かけて行く。自分からしてみれば別世界の住人だ。
そんな彼女がとくにご執心だったのが、実家の裏の山にあるという大岩の狛犬のことだった。
――山の上に大きな狛犬があるんだよ。
実家のあたりは火山ばっかりでさ。それであちこちにびっくりするほどでかい火山岩が残ってる。それでね、うちの裏にある山の頂上付近にもでかいのがあってね。まるで獣が大きく口をあけたような形をしてるんだ。
でね、もう一個、どっかにある筈なんだよ。口を閉じた大岩が。
だけどどんどん過疎化してて、廃村になった場所も増えててね。どこにあるか分からなくなっちゃってさ。
噂によると30年以上前に頂上から転がり落ちて、それで見つからなくなったらしくてね。
帰郷のたびに探してみてるんだけど、これがどうしても見つからない。
最近は地図と睨めっこしてどこに転がったかって考えてばっかりだよ。
でもいつか必ず見つけてみせる。そうじゃないと山の神様も寂しいだろうしね。
いつだったか、酒の席で熱心に語っていたのを覚えている。それ以来、社内食堂で顔をあわせると「狛犬は見つかったか?」と尋ねるのが挨拶のようになり、橘も橘で私の顔を見るたびに狛犬探しの近況を報告するようになったのだ。
『ようやく見つかった。はやく会いに行きたい』
それが三日前、橘から届いたメッセージだった。
見た時に、すぐに狛犬のことだと気が付いた。
とはいえ、彼女の故郷はかなり遠い場所にある。暮れの休暇を利用するのだろうと思っていたが、まさか帰ってしまったのだろうか。
「須藤くん、申し訳ないんだけどね、橘さんの実家まで様子を見に行ってくれないかい? 遠いのは分かってる。明日明後日と出張ということにするからさ。もちろん出張費も出すよう経理部に話を通しておく」
「分かりました。では、明日朝一番の新幹線で行って来ます」
突然のことだったが、断る理由はとくにない。急ぎの仕事はほとんど片付いている状態だ。
そういう経緯で、私は新幹線に乗っている。
駅を出た時にはまだ薄暗かった空が少しずつ朝焼けに染まっていく。ぼんやりと窓の外を眺めながら、なんとも言えない非現実感を味わっていた。
同僚たちのほとんどはまだベッドの中だろう。
二つ隣の席の笹井は家が県をまたいでいるから、そろそろ家を出る頃合いか。
そして彼らがいつもどおり会社で席に座って仕事をする時間に、自分は見ず知らずの山奥に向かうことになる。どうにも不思議な気分だった。
橘の家は新幹線から私鉄に乗り換え、さらにバスに乗って2時間も山道を進んだ先にある。
本当にこんな山奥に家があるのだろうか。幾度もカーブを曲がりながら進む道は、そんな気持ちに襲われる。不安になったころに数十件が軒を連ねた村が現れ、かと思えば予想外に大きな町が現れることもある。いったいどのように生活をしているのだろうか。都会暮らしに慣れた自分にはまったく想像がつかなかった。
だがなによりも山だった。
青々と茂った木々がどこまでも続いているのを見ていると、逃げ出したい気持ちになってくる。
あまりにも強い生命力。圧倒的な緑の軍勢。
山はあれほどに生命力に満ち溢れているというのに、そこに人間の居場所はない。あの緑に深く踏み込んでしまったら、生きて帰ることは出来ないだろう。それが恐ろしくて仕方ない。
山は人が踏み入れるには、ひどく恐ろしい場所なのだ。
橘はなぜ山に入っていくのだろう。一人きりで野宿をすることもあるのだと笑いながら話していた。自分にはとうてい信じられない行動だ。
ひたすらに緑の中を走り続け、ようやく目的の場所に辿り着いたころには昼をとっくに回っていた。
錆びついたトタン屋根がついた小さなバス停は、小学校の頃にあったウサギ小屋を思わせる。中にあるベンチは長年、住人たちが使い続けてきたのが一目でわかるほど、座面がすり減っていた。
バス停の目の前にある通り沿いには何軒かの家が並んでいる。さらに山に向かうなだらかな斜面に田畑が作られ、その中にもいくつかの家が点在していた。目を凝らせば山に入る入口には赤い鳥居があるようだ。
なにもない場所だ。当然のことコンビニもなく、個人経営の雑貨屋が一軒だけバス通り沿いに建っている。
「参ったな」
最初に出たのはなんとも間抜けな一言だった。
橘はメールやSNS主体の現代においても、毎年のように年賀状を送ってきた。だから住所は知っている。それを頼りに辿り着いたは良いものの、あまりにも場違いに思えてきた。
余所者という言葉が身に染みる。
一体全体、あの男は何をしにきたんだろうか。ここの住人たちが見れば、間違いなくそう思うことだろう。
今すぐ逃げ帰りたい。だが、次のバスまではまだ4時間以上もあるのだから、それまでの時間をこのバス停でただじっと座って待っているのも苦痛だった。
仕方ない。これは仕事だ。
なんとか割り切って歩き出す。
村はまさに山間という言葉がぴったりの場所だった。
四方を山に囲まれており、目に入る色のほとんどが緑ばかり。家々はみな古く、おそらく昭和からずっとあるのだろう。縁側があり、どの家もそれぞれが畑を持っている。
バス通りから外れて、鳥居に向かう道の途中に橘と書かれた家があった。
ここに来るまで誰にもすれ違うことはなく、ともすれば廃村に来てしまったのではないかと不安になる。橘の家もまたひっそり静まりかえっており、ドアベルを鳴らすのに躊躇した。
「なんとかパネルだったらいらんよ」
ふいに声をかけられて思わず飛び上がりそうになる。
ふり返ると、恐らくついさっきまで畑仕事をしていたのだろう。野良着姿の老婆が仏頂面で立っていた。
「あんた、あれだろ? お天道の光でどうとかっていう。うちはそんなもんいらんよ」
さっさと帰りな、と手で追い払われたところで「いえ、違います」とようやく声を絞り出す。
「自分は橘さんの、……橘京子さんの同僚です。彼女が欠勤しているので、もしやこちらに帰っているのではないかとお伺いにあがりました」
「京子の?」
老婆はあいかわらず疑いの色に満ちていたが、それでも門前払いをされずには済みそうだ。
「はい。京子さんとは同期で、親しくさせて頂いておりまして。それで、その、……欠勤する直前に狛犬を見つけたというメッセージを貰ったので、こちらに戻られたのでは、と」
「狛犬? ああ、……虎口のことさね。あの子は昔っからいつもそうさ。山神様のこととなるとまるっきりあたりが見えなくなる。……アンタ、名古屋から来たのかい? わざわざ遠いとこからご苦労なこったね」
「いえ、……それで、その、京子さんは?」
「三日前だったかな。帰ってきたよ。でも荷物をおいてすぐに出て行っちまって。またお山に行ったんじゃないかね」
荷物を置いて。
その言葉に俄然前のめりになったが、肝心の京子は留守だという。どうしようか。思案している間に老婆は家の中へ入っていく。そうして、玄関をあがったところで億劫そうにふり返った。
「いつまでそこに立ってんだい? どうせバスが来るまで行くとこもないだろ。とっとと上がっといで」
「お心遣い、ありがとうございます」
頭を下げると、老婆はのろのろと家の奥へと歩き出す。
田舎の家は、どうしてこんなにも暗いのだろう。老婆の姿はあっという間に闇の中に飲み込まれていくかのようだった。
振り注ぐ陽光と、影の濃い家。
「お邪魔します」
もう一度頭を下げると、恐る恐る家の中へと踏み込んだ。
居間にはさまざまなものが雑然と置かれていた。
どこの土産だか分からない木彫りの人形。タバコの箱を折って作ったオブジェがいくつもあり、折り紙や塗り絵の本が積み上げられて置いてある。恐らくは自宅の庭か、あるいは近所で貰ったであろう蜜柑が籠に盛られていた。
ストーブの上では薬缶がことこと音を立てており、その隣には焼き芋が乗っている。
天井を見上げれば最近では見なくなった大黒柱がどっしりとそびえたっていた。よく見れば身長を刻んだ傷が幾重にもつけられており、ここで過ごした子供たちの気配が今もかすかに残っている。
「京子さんはいつごろ帰って来ますでしょうか」
淹れて貰った茶は最近には珍しく、茶ばしらが何本も浮いていた。
「さてねぇ。あの子は一度山に行くとしばらくは帰ってこないからね」
「昔からそうなんですか?」
尋ねると老婆は肩をすくめる。
「虎口のお岩の話は聞いてるんだろ?」
「ええ、対になった岩がどこかにあるのを探していると。二つの狛犬の間に参道があるはずだと話していましたが」
「ああ、そこまで聞いてるんだったらもう答えは出てるだろう。アンタの言うとおり、あの子は参道を探すために狛犬を探してるんだ」
「それがよく分からないのですが? なぜ狛犬がないと参道の場所が分からないのですか?」
「よそじゃどうかは知らんけどね、こっちじゃそういうもんなんだよ。山神さまへの道ってのは特別なもんなんだ。ちゃんと手順を踏んで行かないとどうしたって辿り着けない」
普段の私ならば訝しがって首を傾げたことだろう。だがあのどこまでも続く緑を見たあとであれば、そこの棲むという神様に会いに行くのがいかに大変なのか想像できる。その大変さを迷信に置き換えて話しているのか、あるいは本当に特別な力が存在するというのだろうか。
「なぜ京子さんはそんなに山神様のもとに行きたいんでしょうか」
私の言葉に、老婆は大きく息を吐く。
「うちの娘は男を見る目がなくってね。ありゃ本当にろくでもない男だった。つまり京子の父親だよ。京子がこっちへ逃げて来たあとも何度も訪ねてきてね。そらぁえらい騒ぎだった。
一軒一軒家を回って『京子を出せー、京子を出せー』ってねぇ。そんな時、あの子は裏山の分社のところに逃げたもんさ。そうすると不思議とあの子は見つからない。山神様が守ってくれてるんだって村のもんは話してたよ。
実際、友達のいなかったあの子はずいぶんと山神様に大事にされていたらしい。だから、ちゃんと会いに行ってお礼がしたいんだろうさ」
「……ずいぶんとご苦労なされたんですね」
橘が父親のことを語ったことは一度もない。だが彼女は男を避けて過ごしていた。着飾ることもなく媚びることもなく、それはきっと、はじめて身近にいた男がとても恐ろしかったからだろう。私はよく、男らしさが足りないと揶揄られて過ごしてきたが、それが橘との関係においてはプラスに働いたのかもしれなかった。
「それで、アンタは何をしに来たんだい? わざわざあの子に会いに来たってわけじゃないだろ?」
思いを馳せていたところを鋭く突かれ、思わず茶を零しそうになる。慌てて口元を拭いながら、私は老婆に向きなおった。
「実は、京子さんが会社の重要資料を持ち帰ってしまっておりまして、……」
「ああ、なるほどね。山神さまのことでいっぱいになって慌てて飛んで帰って来たのか。スーツのままだったし、ろくに荷物もなかった訳だ」
「あの、大丈夫なんでしょうか。山に登る装備はちゃんとあったんですか?」
「こっちにも一式おいてあるからね。……それじゃあ、あの子の荷物を調べたいって話か。そういや、そんな電話がかかって来たね。まったく都会のもんは話が回りくどくてよくないよ」
老婆はやれやれと息を吐くと、部屋の端を指し示した。そこには見覚えのあるビジネスバッグが置かれている。
「ほら、あれだろ。まぁ年頃の娘の鞄を見るなんてのは、あんまり褒められた話しじゃないけどね。急いでるってんなら仕方ない」
「ありがとうございます」
一礼して鞄を引き寄せると、すぐに中身を確認する。老婆の視線が気になったが、ここは仕方ないだろう。
幸いにもファイルはすぐに見つかった。他にも未開封のサンドウィッチが詰め込まれたままになっていた。本当にふいに思い立って会社から飛び出してきたのだろう。
「見つかりました」
「そら良かったね。それじゃあとはバスの時間まで好きにしてな。村ん中を回ってきてもいいけど、まぁ何もないところだからね」
「ここで待たせて頂きます」
外を回るのは気が引ける。
余所者として悪目立ちをするだろうし、何よりもあの圧倒的な緑の軍勢を目の前にすっかり萎縮してしまっていた。こんな事もあろうかと、仕事を持ってきていたのでそれを片付けることにする。
パソコンを開いて画面に向かいあうと、いつもの時間が戻ってきた。
「落石があったってよ」
老婆が声をかけてきたのは、ちょうどそろそろお暇しようかと荷物をまとめはじめた時だった。
「落石、ですか?」
「ここいらじゃたまにあることさね。けどまぁ、せいぜい明日にならんと復帰はせんだろうね」
そこまで言われてようやく私はピンときた。
「それは、帰りのバスが来ないということですか?」
「そうだよ。仕方ないから泊まっていきな」
「……――すいません。お世話になります」
まさかこんな事になろうとは。
幸い明日は金曜日だ。復旧が遅れても土日の間にはなんとか帰ることが出来るだろう。だがこんな山奥で泊まることになるとは、予想外のことだった。
あの山々に囲まれて一夜を過ごす。そう思うと怖気づく。
ひとまずは会社に連絡を入れてから、老婆に手伝いを申し出た。とはいえ、押入から布団をおろすくらいで、出来ることはあまりない。
せめて橘が戻ってきてくれたならば。
願いも空しく日はどんどん落ちていき、青々とした山並みが真っ黒な闇に包まれる。
夜がきた。
山において夜は絶大で、どっと押し寄せる暗闇から逃げるように戸をしめる。
夕食と風呂をすませると、早めに寝床に潜り込んだ。明日、どうしても道が復旧しないならば、近くの町まで歩いて行こうと思ったからだ。起きていても出来ることはなかったし、居間にとどまってずっと老婆と顔を突き合わせて過ごしているのも気がひける。
布団は冷たく、埃と黴の匂いがした。
なかなか身体が温まらず、縮こまって冷え切った足先を擦り合わせて温める。
眠れない、眠れない。
そう思っているうちに、私はいつの間にか浅い眠りへと落ちていた。
「須藤くん」
どれくらい時間が過ぎただろう。
柔らかな囁き声に目を覚ました。
薄目を開けばあたりは闇に包まれており、朝の気配はまだ遠い。鼻先がツンと痛くなるほどに室内は冷え切っていた。
湿った土の匂い。そして、濃く漂う木々の香り。青臭く、だが甘く、澄んだ香りだ。
「須藤くん」
もう一度声がした。
暗い部屋の中でぼんやりと人の輪郭が見えてくる。
「橘?」
問いかけると、かすかに笑う気配がする。
「ファイル、ごめんね。私、うっかりしちゃって」
「いいよ、別に。いい気晴らしになったし」
なにか変だ。その声は間違いなく橘だったが、本能がそれを否定する。
橘だ。でも橘じゃない。
理由は分からないが、なにかが決定的に違うのだ。
だが不思議と恐ろしさは感じない。穏やかな気配が部屋の中に満ちている。
「須藤くん、私ね、もう会社には戻らない。ごめんねって、お世話になりましたって、みんなに言っておいてくれる?」
「ここに残るのか?」
「うん、私、山の神様と結婚するの。だからね、もう、戻らない」
何を言っているのだろう。
分からない。分からないはずなのに、頭の一部ではそれが絶対的な真実である分かっている。
「お婆ちゃんはどうするんだ? 寂しがるだろ?」
「大丈夫。みんな、一緒に連れていくから」
「え?」
「一緒だから寂しくない。でも須藤くんは戻って。須藤くんは、山神さまのものじゃないから」
それはどういう意味なんだ?
問いかけようとしたところで、ドォンっと低く音が響く。
腹の奥へ響く音。重く空気をふるわせて、きっとそれは太鼓の音だ。
「狛犬を見つけたの。だから参道も見つかった。私たちは山の神様のところに行くの」
ドォンとまた音が鳴る。
窓の外がうっすらとした灯りがともり、橘の輪郭がより明確に浮かびあがる。
緩やかな曲線美。女性的な身体のラインはなだらかに続く丘陵のようで美しい。
先ほどより、土と木の香りが強くなる。まるで深い森の中に迷い込んだかのようだった。
「今までありがとう」
また、笑う気配がした。でも表情は分からない。黒い輪郭はゆっくりと立ち上がって歩き出す。
窓を開けたその先には、黒々とした山々がそびえたっている。
真夜中だ。
だが空は、一つの山の周囲だけがわずかに輝きを帯ている。その山の頂へ向かうようにして点々と灯りが並んでいた。
ドォン、ドォンと音がする。
橘が歩きだし、よく見れば他の家からも、人影が出てきては山へと導かれていく。
「橘!」
呼び止めようとして声をあげると、橘は一度だけふり返った。
薄明りに照らされた橘の身体は苔むして、地肌がむき出しになっている場所もある。
私はそれを見て思い知った。
ああ、本当に。本当に彼女は、戻らない。もう彼女は山神さまのものなのだ。
ドォンと再び音がひびき、山に向かって灯る火がいっそう明るくなっていく。
人々はゆっくりと歩いていき、山の中へ消えていく。
「さようなら」
私がなんとかその一言を絞り出すと、橘は笑って頷いた。
そうして私は、去っていく後ろ姿を見つめていた。
手がかじかみ、身体が冷えきってしまっても、橘が消えたその先をただただずっと見詰めていた。
やがて少しずつ空が白んでいく頃合いには、山の灯も低く響く太鼓の音も、すべてが薄れて消え去った。
翌日、私は少し遅れてきたバスに乗り、喧騒の街に戻っていった。
あの村から人々が消え去ってしまったことは、なぜか誰も話題にしなかった。
同じように橘のことも、誰も不思議に思いはしなかった。
彼女のことを忘れてしまった訳ではない。みんな彼女を覚えている。だが、彼女がここからいなくなった事を疑問に思うことはない。
橘のことを考えると、思考がぼやけて鈍くなる。
幼さの残る笑い声。
押し黙ってじっと見詰めてくる顔。
何かを言いかけて唇を噛む横顔も。
すべてが滲んで歪んで消えていく。
ずっと昔になくしてしまった人のように、彼女の記憶はおぼろげだ。
それでも時折、彼女の気配を感じ取る。
湿った土の優しい匂いと、生命に満ち溢れた木の香り。
曖昧にほどけた輪郭を、深い深い緑の中に思い出す。