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恵比寿さま

 「日本海って暗い気がするの。太平洋の海が青なら、日本海は黒って感じ」

 以前付き合っていた女は、ずけずけとものを言う人だった。
 ミノルの故郷へ連れていった時、そんな風に言われてムッとしたものだった。だが久しぶりに帰郷し、車窓の風景を眺めていれば、確かに日本海は暗かった。
 暗く、そして荒々しい。
 冬ともなればどここかしこもすっかり雪に覆われ、白黒写真の中にいるかのようだった。
 今、車の助手席には誰もいない。
 彼女とは去年の春に別れて、それ以来、誰とも付き合っていなかった。
 その事も気分が重い原因の1つであるのだろう。

 「孫の顔が遠のいたわ」

 母がため息まじりに言う姿が目に浮かぶ。
 出来れば帰りたくなかったのだ。だが、祖父が亡くなったのだから仕方ない。
 そうだ、それこそが陰鬱とした気分の際たる理由であるのだろう。




 ミノルの故郷はとても小さな漁村だった。
 人口は100人ほど。恐らくあと数十年の間に地図からなくなってしまうような、そんな辺鄙な村だった。
 国道こそあるものの、最寄り駅などありはしない。新幹線から電車に乗り換えて1時間、そこからさらに車を走らせ2時間はかかるような場所なのだ。
 陸の孤島。
 そう呼ぶのにこれほど相応しい場所もないだろう。
 そのためか、故郷には奇妙な風習が残っている。
 お通夜の晩には、その家の一番年少の者が故人と同じ部屋で休み、「寝ずの番」を任される。ミノルが帰郷したのも、「寝ずの番」をするためだった。
 「寝ずの番」という風習自体は、日本のあちこちに残っている。
 だが、故郷の「寝ずの番」はその理由が特殊なのだ。

 『海に連れていかれないように』

 そのために番をするのだと、幼い頃から何度も言い聞かされてきた。
 それが奇妙な習わしであると気付いたのは、都会に出て働き始めた後だった。
 連れて行かれる。
 その表現が奇妙なのだ。
 それだけではない。通夜の晩は村中の家が雨戸を固く閉ざして、夜は誰も出歩かない。窓の外を覗き見ることさえ禁忌だった。
 子供の頃は通夜の晩がひどく恐ろしいものだった。夜中にトイレに起きた時など、曇りガラスの小窓が怖くて堪らなかったのだ。
 子供は想像力がたくましい。あの頃のミノルは、窓の外を這いずりまわる何かの音や、薄気味悪い息遣いが聞こえていた。今思えば、それらはすべて想像の産物だと分かるのだが、あの頃の自分には想像の世界も現実と大差なかったのだ。
 恐怖とは何かと問われれば、生への渇望だとミノルは答えることだろう。
 ミノルは怖がりな子供だった。
 大人になっても臆病で、真っ暗なアパートに帰るたびに、ありもしない人影に怯えていた。
 だが、ここ数年間、いわゆるブラックと言われる企業に入り、身も心もすり減らしてしまってからは、嘘のように恐怖心が消えたのだ。
 心が死ねば恐怖も消える。
 実に単純な話だった。




 ようやく辿り着いた故郷は白い雪に覆われて、あまりにも寒々しい光景だった。
 空はどんよりと曇り、真っ黒な海は得たいの知れぬ生き物のように蠢いている。わずか30戸ほどの家々はどれも貧しく、知らぬ者が車で通りかかったならば、廃村だと勘違いすることもあるだろう。
 それくらいに、村は寂れて、廃れていた。
 日が傾きはじめた頃合いであったから、周囲は薄暗く、なおさらに寒々しさを引き立てる。

 「お帰りなさい。なんだか随分、久しぶりって感じだねぇ」

 家の前では、母がコートも羽織らずに待っていた。
 夕方までには着く筈だと、あらかじめ連絡はしておいた。だから到着時間は分からなかった筈なのに、わざわざ出迎えてくれたらしい。

 「母さん、いつから外で待ってたの?」

 驚いて車から出て母の元へ駆け寄った。両手で肩に触れてみれば、身体は氷のように冷えている。

 「さぁ、よく覚えてないけどねぇ。アンタに久しぶりに会えると思ったら嬉しくって」

 すっかり冷え切っていると言うのに、母は何てことない顔だった。

 「そうね。でも寒くなって来たかも知れないわね。ほら、早く家に入って。今夜はアンタが食べると思って沢山ご馳走を作ったのよ」
 「ありがとう。でも、そんなに食べられないよ。最近は食欲があまりないんだ」
 「なに言ってんの。アンタはまだ若いんだからしっかり食べないと」

 母に連れられて家に入ると、そこには村の男衆が集まっていた。
 田舎特有の大机を囲んで、ご馳走に箸をつけながらちみちみと酒を飲んでいる。
 母の言う通り、机の上の料理はどれも豪華なものだった。鯛やサザエ、アワビやイカ、蟹や海老と様々な海産物が煮つけや刺身、磯焼や天ぷらになって並んでいる。その量たるや、机からはみ出しそうなほどだった。

 「ちょっと、大丈夫なの? あんなに沢山」

 この村は決して裕福とは言い難い。心配して声を潜めながら尋ねると、母はからりと笑って見せた。

 「ああ、平気だよ。あれはねぇ、みんなここの漁港でとれたんだ。最近じゃずっとあんな調子でね。隣街のでっかい漁港じゃずっと不漁続きだって言うけど、こっちは見ての通りよ」
 「そうなの? それなら良かったけど」

 ミノルと目があった老人が、軽く手をあげて会釈する。
 漁師特有の日に焼けた皺だらけの顔は、古い日本家屋の蛍光灯の下で見るとまるで木乃伊のようだった。
 見知った人はいるだろうか。集まった人たちを見回せば、子供の頃に遊んで貰った近所のケンタ兄さんや、村で唯一の百貨店を営むサト爺さんの顔がある。
 それにまじって、思いもよらぬ顔を見かけて、ミノルは思わずぎょっとした。

 「……ねぇ、母さん。一番左端に座ってたのって、境さんとこのお爺さんじゃない?」

 荷物を下ろすべく自室へ向かい、その途中で母に気になったことを問いかけた。
 ミノルの自室は二階にある。ギシギシと軋む階段は電球の1つもないせいでこの時間ともなれば真っ暗だ。子供の頃は、真夜中にトイレに降りるときなどは恐ろしさに震えたものだった。

 「ああ、そうだったかしらねぇ。誰がどこに座ってるかなんてよく見てなかったから」
 「いや、どこに座ってたかじゃなくってさ。境さんのところのお爺さんって、俺が中学の時に亡くなったよね」
 「そうだったっけ?」
 「そうだよ。投網用のローラーに挟まれて、……それで、境さんのお婆ちゃんが半狂乱になって」

 あれは酷い事故だった。
 投網を巻き取るためのローラーの操作を誤って、網に絡まってしまったのだ。そのまま、網は巻き取られ、全身をぎゅうぎゅうに締め上げられて圧死した。あまりにも縄が食い込んで、肉が裂けてしまった箇所まであったという。
 漁村では、漁に纏わる事故がよく起こる。
 だが、あの事故はミノルが覚えている中でも、一番悲惨なものだった。

 「そんなこともあったっけねぇ。でもね、最近はみんな帰って来るようになったから」
 「帰ってくる?」

 真っ暗な階段を登り切り、部屋の戸をあければ少しばかり明るくなった。
 日の名残りが、水平線を僅かばかりに染めている。その明かりが、部屋に差し込んでいるようだ。とはいえ、部屋はほとんど真っ暗と言ってもおかしくない。
 それなにの母は、電気もつけずに襖をあけ、今晩使うための布団を敷き始めた。

 「ねぇ、まさか、電灯外しちゃったの?」

 ミノルの部屋は随分長く使われていないままだった。だからいっそ、電灯を外したのかと思ったのだ。

 「ああ、やだ。言われてみれば真っ暗ね。大丈夫、外してないわよ」
 「なら良かった」

 電灯は、都会では滅多にみなくなった昭和レトロと言われるタイプの蛍光灯だ。四角い木の飾り枠にすりガラスがはめ込まれ、中には円形の電球が入っている。灯りをつけるために電球の紐を引っ張ったのは、いったいどれくらいぶりだろうか。
 ここはずっと変わらない。
 きっと、昭和の時代からずっと取り残されている。
 そう思いながら窓の外を眺めると、そこに見覚えがないものが建っていることに気が付いた。

 「ねえ、母さん。あそこの堤防のところ、あんな社あったっけ?」

 日が落ちたせいで、それはシルエットでしか分からない。
 だがそこには、以前はなかった筈の社おぼしきものが建っている。

 「ああ、あれね。ほら、津村さんのところのケンタ君。あの子が岬の向こう側の浜で恵比寿さんを拾ってね。流木だとか、仏像だとか、龍涎香だなんて言った人もいたけどね。ありゃ、それよりもずっと珍しいもんだった。だからああして社を作ってお祀りしてるんだよ。
 それ以来、うちはずっと豊漁で、あっちに行ったもんも帰ってきた。本当にいいこと続きだよ」
 「ちょっとちょっと、冗談でしょ? 久しぶりに帰って来たからって揶揄わないでよ」

 ミノルが笑い飛ばそうとしても、母は本当だと言って譲らない。
 久しぶりに実家に戻ると親がおかしくなっていた。そんなことはよく耳にする話だった。だがまさか、自分の家族がおかしくなるなどとは、まったく想像しなかった。
 まいったな。
 帰って来なければよかったな。
 ミノルはスピリチュアルなものは信じない。もし世の中にそんなものがあるならば。幽霊や呪いが本当に存在するならば。
 ミノルが勤めていたあの会社の上役は、とっくに呪われて、惨たらしく死んでいることだろう。ミノルが知っている範囲でも、5人以上が鬱病になって退職し、2人が自殺未遂を起こしている。
 だというのに、人の生き血を啜るような経営者たちは今日ものうのうと生きている。
 だから呪いなどありはしない。それがミノルの持論だった。




 
 夕飯はじつに美味だった。
 刺身も煮魚も都会で食べるものとは比べものにならないくらい魚自体の味が濃い。身もしっかりと脂が乗り、それでいて引き締まっていて、いくらでもするすると食べられる。
 このところの食欲不振がまるで嘘のようだった。
 夕飯をあらかた食べ終わると、ミノルはケンタの隣へ移動する。
 嘘だと笑い飛ばしたものの、やはり母の話は気にかかる。
 ならば直接、ケンタから聞くのが一番だろう。

 「ケンタさん、浜辺で何か拾ったんだって?」

 ミノルが尋ねると、ケンタは昔と変わらぬ人懐こい笑顔を向けてきた。

 「なんだよ。前みたいにケンタ兄ちゃんて呼んでくれないのか?」
 「だって俺、もうじき三十だよ?」
 「いいじゃないか。いくつになったってミノルは俺にとっちゃ可愛い弟だ」
 「……じゃあ、ケンタ兄ちゃん。さっきお袋から聞いたんだ。ケンタ兄が浜辺で何か拾って、それを社で祀ってるって」
 「ああ、ありゃあね、多分隕石だよ」

 予想外の答えに、ミノルは目を丸くする。

 「隕石?」
 「ああ。去年だったかな。岬の方に流れ星が落ちるのを見たんだよ。それで翌朝見にいったら、浜にあいつが打ち上げられてた。拾ってみると暖かくて、妙な恵比寿さんだって思ったよ。それで、村に持ち帰った」

 恵比寿さんというのは、浜に打ち上げられた変わった石や流木などのことを言う。
 海から来たお客様として、社などで祀られるのはさほど珍しくはないことだ。

 「そしたら村の連中が有難がって、みんなで撫でまわしてさ。そんで、最初は誰だっけな。確か、津川の爺さんが痛風がなくなったって言い出したんだ。最初はみんな半信半疑だったけどさ。三井の婆さんも酷い腰痛だったのに、しゃんっと腰が伸びて、食欲も出て来たって言い出して。こりゃ、本当に有難い恵比寿様だってことになったんだよ」
 「それって、なんだっけ。プラセボ効果みたいなやつじゃないの?」
 「最初は俺もそんな風に疑ったよ。けどな、皆が元気になっただけじゃない。あの恵比寿さんを祀って以来、この村はずっと豊漁だ。それに、最近じゃみんなが帰って来るようになったんだ。ここはまるで天国だよ」
 「帰ってくる、って?」

 確か母もそんなことを言っていた。
 帰ってくる。その響きは、なぜだか腹の底が寒くなる。

 「そのまんまだよ。いなくなっちまった連中が戻って来るんだ。昔はミノルも俺も、誰か死ぬと海に攫われないように寝ずの番をしてただろう? けどあれは間違いだった。海は何も奪いはしない。海はちゃんと帰してくれる」
 「なにそれ、笑えないよケンタ兄ちゃん。それじゃもう、寝ずの番はしてないってこと?」
 「ああ、してないよ」

 問い返しながらも、母から電話がかかって来た日のことを思い出す。
 確かに母はあの時「爺ちゃんが亡くなった」としか言わなかった。寝ずの番をしに来いとは一言も言っていなかったのだ。
 いや、違う。正確には母はこんな風に言っていた。

 「爺ちゃんが亡くなったんだ。アンタ、久しぶりに帰ってこないかい? 爺ちゃんもアンタの顔が見たいだろうから」

 あの時はなんとも思わなかった。
 墓参りに行って「顔を見せに行った」と表現するのと同じものだと思っていた。
 だがもしも、それがそのままの意味だったら?
 本当に爺ちゃんに顔を見せるという意味だったらどうだろう。
 嫌な汗がじわりっと滲みだしてくる。そんなミノルに気付きもせずに、ケンタは話を続けている。

 「昔、うちのじっさまが死んだ時には俺が寝ずの番をして、あん時は心底怖くてさ。夜中には雨戸を叩く音が聞こえて来るしで、何度もチビりかけたんだ。でも、今なら分かる。あれはじっさまが帰ってきて雨戸を叩いてたんだ。まったく薄情な話だよ。前は村中で帰ってきた連中を追い返してたんだ」
 「でも、それって、帰ってきたの、って」

 じっとケンタの顔を見詰めていたせいで、ミノルはその事に気が付いた。
 ケンタは先ほどから一度も瞬きをしていない。
 驚いて周囲を見回した。しばらく皆を見詰めてみても、誰一人として瞬きをしないのだ。

 なにかがおかしい。
 絶対におかしい。

 いつの間にか背中にはびっしょりと汗をかいている。
 逃げた方がいい。そう思うのと同じくらい、気付かないふりをしてやり過ごした方がいいと思う自分も存在する。
 いや、違う。
 怖いのだ。怖くて足がすくんでいる。
 今すぐ立ち上がって逃げたいのに、立ち上がることが叶わない。

 「ああ、そろそろシゲさんが帰ってくる頃合いだ」

 そう言って、老人達が立ち上がる。ケンタもゆっくり腰をあげ、母も台所からやって来た。

 「シゲさん、癌だったんだって?」
 「痛み止めも効かないって苦しんでたからね。でも帰ってくれば一安心だよ」

 良かった、良かったと皆が口々に言い合う中で、ミノルだけが一人座ったままでいた。
 母が襖に手をかける。その先には仏間があり、祖父が眠っている筈だった。
 襖は建付けが悪いのか、開くのにガタガタと音をたてている。それでも何とか襖を開くと、その向こうには大海原とぽっかり浮かぶ大きな月が見えていた。

 「どうして、雨戸が、……」

 雨戸が開いたままになっている。
 この村では、絶対にあり得ないことだった。
 いや、それよりも。そんなことより。
 窓の外からゆっくりと雪道を歩いて来るのは、紛れもなくミノルの祖父なのだ。足取りは淀みなく、しっかりとしており八十歳を越しているとは思えない。
 祖父は、寝巻姿で裸足のまま、雪の上を歩いてくる。
 そうして、家の前までやって来ると、母がガラス戸をあけて、祖父を迎えいれたのだ。

 「お帰りなさい、お父さん」

 きっとそれは、こんな状況でなかったならば、感動的な場面であったに違いない。
 だが今は、ただ恐ろしく悍ましいだけの光景だ。
 いや、もしかして。
 ミノルは唯一の可能性にかけて、必死に声を絞り出す。

 「やめてよ! なんだよ、これ。笑えないよ。いい年した大人がみんなで集まって、こんな悪趣味な冗談で騙そうとするなんてさ。マジで笑えない、ひどすぎるよ!」

 ほら、笑えよ。
 みんなで笑って、冗談だったと言ってくれ。久しぶりに戻ってきたバカ息子を揶揄ってやったのだと、さっさと種明かしをして欲しい。
 だが彼らは、誰一人として笑いはしなかった。
 母は悲しそうな顔をして、ケンタも眉間に皺を寄せている。

 「ミノル。混乱する気持ちは分かるわ。でもね、私たちは恵比寿様をお祀りして変わったの。すべてが良い方向に変わったのよ。だからあなたを呼び寄せたの。あなたも幸せになれるように」

 母の言葉に周囲の老人たちが頷きあう。
 そうだそうだ、恵比寿様は偉大なのだと、皆がそろって繰り返す。

 「だからね、ミノル。あなたも幸せになりましょう? もう都会は疲れたでしょう?」

 母は目の前までやって来ると、そっと手を差し出した。
 働きものの母の手は、いつだってミノルを助けてくれた。
 この手を掴めば、すべてが変わる。あの息苦しい場所から逃げ出せる。
 いいじゃないか。社会人になってから、ずっと辛いだけだった。笑顔もなくし、料理の味も分からなくなり、鏡をのぞけばげっそりと老け込んだ顔がある。
 何度、死のうと思ったか。ここ数年はそのことばかりを考えた。
 それでもずるずると生きていたのは、痛いのが嫌なだけだった。ただでさえ苦しいのに。いつだって心が痛いのに。どうしてこれ以上に苦しまなくちゃ駄目なのか。
 そう思って生き続けて、故に心が死んだのだ。
 だが今、なけなしの理性が悲鳴をあげて訴える。
 流されるな。ここが天国だなんてあり得ない。彼らは悍ましい何かになり果てた。

 「――触らないでッ!!!!」

 パンっと母の手を振り払う。
 その途端に、猛烈な眩暈に襲われた。壁が回る。自分を取り囲む人たちの、顔が崩れて溶けていく。
 腹が焼ける。胃液が喉をせりあがり、一気に吐しゃ物が溢れ出す。
 ミノルは勢いよく胃の中のものを吐き出した。それらは蠢き、のたうち、気色悪い奇声をあげている。
 これがあの、豪勢な食事の正体だ。
 出さなくちゃ。すべて吐き出してしまわないと。
 げえげえと酷い声をあげ、口の中に指を深く突っ込んで、なりふり構わず食べたものを出していく。
 そうして、すべてを出し切った時には、周囲は静かになっていた。

 「……母さん?」

 顔をあげて、ゆっくりとあたりを見回した。
 誰もいない。母も、祖父も、ケンタや老人たちもいなかった。
 いや、そもそも、誰かがいた気配すら見当たらない。
 部屋の中はがらんとして薄っすらと埃が積もっており、長い間、人が住んでいなかったような有様だ。

 「母さん?」

 もう一度声を出して立ち上がる。
 家中を探して回っても、やはり誰もいなかった。
 ああ、と思わず声が漏れる。
 ガクリっとその場にしゃがみ込み、ミノルは肩を震わせた。

 ああ、どうして、あの手をとらなかったのか。
 外の世界が優しかったことなど一度もない。だったら、彼らが何者だっていいじゃないか。
 まやかしでも、全て間違った世界でも、ここに比べたら天国だ。
 なのになぜ、あの手を振り払ってしまったのか。

 「ごめん、ごめんなさい、許して、許して下さい。お願いです。お願いします。どうか、どうか、僕をあの場所に戻して下さい」

 お願いします。
 お願いします。
 声を枯らして泣き崩れ、何度も懇願を繰り返す。
 それでも、世界は正常さを取り戻し、残酷にも夜は明けていく。
 あの悍ましい楽園は、もう二度と見つかることはないのだろう。
 それが世界の、正しい在り方なのだから。


 ミノルは一人、いつまでもいつまでも泣き続けた。

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