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キ域_08

 老人ホームには2台の車で向かうことになった。
 福部と筒井が同乗し、里穂子が個別で乗る形だ。流石に知り合ったばかりの男性2人と密閉空間にいるのは気が引ける。福部もすぐにそれを察したのか、なにも言ってこなかった。
 ホームは姉の家があった場所よりもさらに山際に存在する。
 神社のそばを通り過ぎると、相変わらず周囲が暗くなる感覚に襲われる。
 もう3度目だったが、どうにも慣れない感覚だった。今までも「なんだか暗い場所」には幾度か遭遇したことがある。ただここはその地域一帯が暗くなる。こんなに広範囲に暗さを覚える場所は、ここ以外には知らなかった。
 姉の家の前を通り過ぎ、さらに奥へ進んでいく。老人ホームは山の斜面のすぐそばにある建物だ。
 土砂崩れでも来たら巻き込まれてしまうのではなかろうか。
 実際、山姥を退治したという大岩があった神社は、もともと施設の建っていた場所にあり、土砂崩れで壊れたのだと聞いている。
 そんな場所に老人ホームを建てるなんて。
 よりによって有事の際に自力で逃げることが難しい人ばかりの場所なのだ。だが恐らく、珍しくもない事なのだろう。
 里穂子の両親は、老後も自宅で暮らしたいと言っていた。そのためには誰かが介護をする必要がある。おそらくその頃には里穂子も四十代か五十代になっていることだろう。その時期に介護のために会社を辞めるという選択肢は、それまでのキャリアをすべて失い、かつ再就職では以前のような待遇はとうてい望めないことを表している。介護は何年かかるか分からないために、育児休暇のようなシステムは使えない。
 何故、ああも気安く、子供の人生を棒に振らせるような選択肢を選べるのか。
 里穂子には理解できなかった。いい大学に行き、いい会社に就職しろと言っておいて、ちょうどよく脂ののった頃合いに、それを放棄しろとさも当然の顔で言う。
 冗談じゃないわ、と里穂子は思う。
 故に、両親の介護が必要になった時には、本人がいくら嫌がろうともホームに預けることになるだろう。ただ、そのための資金がない。両親は自宅で過ごすつもりで、たいして貯金をしていない。となれば、里穂子の給料と両親の年金からでは選べる場所は限られる。
 そんな時に候補になるのが、今向かっているような場所なのだろう。立地が悪いけれど安いところ。
 その条件を求めているのは里穂子のような者たちだ。
 だから、この立地に対してあれこれと文句をいう権利などないだろう。
 ぐるぐる思考がループする。考えたくもない未来の話。里穂子だって願わくば親には快適な老後を送って欲しいと思っている。だがそれには先立つものが足りないのだ。佑衣子があんな状態になってしまった今では、余計に先行きは暗かった。
 ため息を吐きながら進んでいると、いつの間にか老人ホームに辿り着いたようだった。前を行く福部の車が駐車場へ入っていく。後に続いて車を止めると、パチンっと両手で頬を叩いてひとまず気持ちを切り替える。
 今、大事なのは筒井の行方不明になった娘の安否だ。
 それに、ここでは姉の病状を回復するためのヒントが得られるかもしれない。
 そのためにはしっかりしなくては。
 しっかりして、里穂子。あなたは大丈夫。ちゃんと頑張れる。
 そう自分に言い聞かせて車を降りる。初夏の日差しは眩しいはずなのに、外の景色はサングラスをかけた視界のように、やはりぼんやりと暗かった。





 「そうは言ってもねぇ、面会は基本的にご家族の方のみで、事前に予約を頂いているんですよ」

 受付の女性は、突然の来訪者に対して迷惑だという態度を微塵も隠そうともしなかった。あるいは、常日頃から不機嫌に過ごしているのかもしれない。要件を告げる前から、女性は舌打ちでもしそうな表情だった。

 「以前は郷土資料館によく顔を出していらしたと聞いています。そこの職員さんはたまに会いに来ていらしたんですよね」
 「それはまぁそうですけど。その方はちゃんと予約してくれてましたよ」
 「突然の訪問になってしまったことはお詫び申し上げます。ご迷惑をおかけしていることは心苦しいのですが、なんとか面会させて頂くことは出来ないでしょうか」

 福部は物腰低く対応しながら、愛想のよい笑みを浮かべている。
 里穂子と筒井は、その様子を静かに見守っていた。福部のような手合いは、女性にはそこそこ受けが良い。実際、受付の女性は福部に頭を下げられてまんざらでもない顔になっている。ここは下手に里穂子が口を出そうものならば、臍を曲げられてしまう可能性もあるだろう。

 「どうしたのー、天野さん」

 平行線だったところに顔を出したのは、施設内の巡回から戻ってきた中年の男性だった。40代後半で、ぽっこりと腹が突き出している。

 「ああ、磯村さん。なんかねぇ、この人達が梅田さんに会いたいって押しかけてきて」
 「梅田さんって、4階のヨネさん?」
 「ええ、そうです。なんか取材をしたいとかで」

 恐らくは施設の責任者なのだろう。福部はすばやく名刺を取り出し、磯村へと差し出した。

 「お忙しいところ突然お邪魔してしまってすいません。こちら会社の名刺ですが、ここに来ましたのは個人的な用事もありまして。実は、そこにいる筒井の娘が昨日から行方不明になってしまったんです。この地域では時々そういった事故があるという話を聞きまして、その中で梅田さんだけが唯一生存者を発見したとお伺いいたしました。それで、藁にもすがる思いで訪ねてきた次第です」
 「娘さんが? 何歳なの?」
 「5歳です」

 磯村の問いかけに、今まで黙っていた筒井が呻くように声を吐く。

 「5歳って。アンタこんな所に来てる場合じゃないでしょう」
 「警察には、通報してすでに動いて貰ってるんです。でも、いなくなったのが家の中で。ちょっと目を離した隙だったし、玄関の鍵もしまってたんです。まるで神隠しにでもあったみたいで、何の手がかりもなくって」
 「そりゃあ、辛いねぇ」

 磯村も眉を寄せ苦渋の表情になる。

 「本当はね、ご家族の方から電話して貰って、それで事前に予約して貰うことになってるんですよ。でもまぁ、梅田さんはあのお年でも矍鑠(かくしゃく)としているからね。ちょっとご本人に聞いてきてみるから、それで駄目だったら諦めてね」
 「分かりました。ありがとうございます」

 福部が深々と頭を下げ、筒井と里穂子もそれに倣う。

 「あ、もう1つお聞きしたいのですが。この近所に、昔あった遭難事件の慰霊碑があるとお伺いしたのですが、場所をご存じでしたら教えて頂けませんか?」
 「いいけど、見に行ってどうするの?」
 「こうなったら神頼みもしたいといったところでして。いえ、神頼みとは違うかも知れませんが、どこかで迷子になっているなら、どうか守ってやって下さいとお願いに行こうかと」
 「なるほどねぇ。慰霊碑だったら駐車場の奥のところにあるよ。誰もお世話する余裕がなくって、すっかり雑草だらけになっちゃってるけどね。僕は梅田さんのところに行って来るから、その間に見てきてみるといい」
 「ありがとうございます」

 突き出した腹をさすりながら、筒井がエレベーターに向かっていく。
 その後ろ姿を見送ってから、あらためて受付の天野と言われた女性にも頭をさげるとひとまずは玄関から外に出た。





 「福部先輩、ありがとうっす」
 「ん? なんだ?」

 慰霊碑を探しながら駐車場に歩きだすと、筒井が小走りになって福部に並ぶ。

 「いや、自分だけだったら、うまく説明できなくて、面会して貰えなかったと思って」
 「気にすんな。これも仕事の延長だし、俺も責任を感じてるんだ」
 「それは先輩のせいじゃないっすよ。企画を出してきたのは社長って話だし、それでまさかこんな事になるなんて、誰も思わないっす」
 「そうは言ってもな。お前はそれだけじゃ割り切れんだろ」
 「それはその通りっす。けど、少なくとも先輩のことは恨んでないっす」

 筒井の言葉に、福部は大きくため息を吐く。その背中に、耐えがたい後悔が滲みだしていることは、出会ったばかりの里穂子でも痛いほどによく分かった。
 里穂子には子供がいなかったし、佑衣子のところもまだこれからという所だった。だから、5歳の女の子と言ってもいまいちピンと来なかったが、可愛い盛りなのだろう。そんな子供が忽然と消えてしまうのは、どんなに恐ろしい事だろうか。
 想像もつかないが、きっと耐えがたいほどの苦痛だろう。
 助けてあげたい、と心から思う。本当はもう諦めて帰ってしまっても良かったが、ここまで一緒にやって来たのは、筒井の娘を助けるための手助けがしたいという思いからだ。姉のことは、出来ればなんとかしたかったが、恐らく希望は薄いだろう。

 「ああ、あれじゃないか?」

 福部の声に顔をあげると、草むらの中に石碑らしきものが建っている。季節のせいもあるだろうが、草が伸び放題になっており、そこに石碑があると知らなかったら到底気付くことは出来ないだろう。

 「なんだかちょっと可哀そうっていうか、罰当たりな気がしちゃいますね」

 里穂子は思わずつぶやいた。
 とはいえ、仕方のない事だとも思っている。もうかなり昔の事故のものなのだ。遺族でもない限りは、それを無償で保ち続けるのは難しいことだろう。

 「でも、こいつらが陽菜を攫ったかもしれないんすよ」
 「……うん」

 頷きはしたものの疑問が残る。
 福部は雑草をかき分けて石碑に近づくと、何やら調べているようだった。だがすぐに首をふりながら戻ってくる。

 「駄目だな。文字も掠れててほとんど読めなかった。ここにヒントはなさそうだ」
 「だとすると、梅田っていう婆さんが頼りって事っすね」
 「そうだな。だが90歳は超えてるらしいからな。ちゃんと話が出来るといいんだが」

 連れだってホームの玄関に向かっていくと、ちょうど磯村も4階から戻ってきたところだった。

 「ああ、どうも。お待たせしてます。慰霊碑が見つかりましたか?」
 「ええ、見つかりました。ありがとうございます。それで、その面会は……」
 「はいはい、そうでしたね。梅田さん、お会いするそうですよ。そこに洗面所がありますので、しっかり手洗いと消毒もお願いします。あと、面会中はマスクの着用もお願いしております」
 「分かりました」

 促されてすぐに洗面所へ向かう。備え付けのハンドソープを使って丁寧に洗い、最後に消毒液をよく揉みこむ。マスクは日ごろから持ち歩いていたので、鞄から取り出して身に着けた。

 「ご準備出来ましたか? それじゃあ4階のご案内しますね」
 「4階に? 面会室とかではないんですか?」

 福部が首を傾げると、磯村は肩をすくめてみせる。

 「2人部屋の方は面会室に移動して貰っているんですけどね。梅田さんも本来は2人部屋なんですけど、ここで1番の長寿で、県からもご長寿大賞なんて毎年表彰を貰ってるくらいだから特別に1人でお使い頂いているんですよ」
 「90歳を超えてるとはお伺いしていましたが、そんなにご高齢なんですか?」
 「ええ、確か今年で、110歳だったか。あの人からしちゃ、私なんかでも孫みたいなもんですよ。でもねぇ、そんな歳を感じさせないほど健康でいらっしゃって。まぁ、健康じゃないとあそこまで生きられないといえばそうなんですが」

 エレベーターにのって4階に向かう。降りてすぐの場所は廊下が続いており、浴室や倉庫などがあるようだ。少し進んだところに電子錠のドアが設けてあった。

 「ここは職員用のカードがないと開かないようになっております。お帰りの際には中の職員に声をかけて頂くか、あるいはインターフォンでお知らせください」
 「分かりました」

 なるほど。そうやって老人たちが勝手に外に出ないようにしているのだろう。放浪癖がある入居者などは、ちょっと目を離した隙にいなくなってしまうこともありそうだ。
 磯村を先頭に自動ドアを潜る。
 そこで思わず里穂子は固まった。

 「え、……?」

 足を止めて絶句する。
 そこは驚くほど光に溢れていた。
 いや、初夏の日差しが刺し込んでいる場所としては、当たり前かもしれないが、この場所ではどこも暗いのだ。だが、ドアの先はグレーのフィルターを取り去ったように穏やかな光で満ちている。
 サンルーム。そんな言葉が浮かぶほどに、廊下には眩しい日差しが刺し込んで、楽園のように温かい。

 「どうしましたか?」

 磯村に声をかけられえ、里穂子はようやく我にかえった。

 「い、いえその、とても明るくて、……良い雰囲気の施設だな、と」
 「それはどうも。そう言って頂けると職員一同喜ばしい限りです」
 「……はい」

 とても明るい。
 でもこの、息が苦しくなるような不安感はなんだろう。心音がいつもより早くなる。でもそれはきっと気のせいだと、自分自身に言い聞かせた。





 梅田の部屋は4階の一番奥だった。
 電子ロックのドアを抜ければ、2人用の部屋が並んでいる。どこもドアは開け放ったままになっており、通りすがりに覗いてみれば、老人たちが楽しそうに過ごしていた。
 テレビを見ている人もいれば、本を読んでいる人もいる。里穂子たちに向かってにこにこと手を振ってくれる人もいた。
 さらに進むと食堂になっており、そこにも何人かの老人たちが座っている。
 車椅子に乗っている人もいたが、多くは椅子に座っていた。
 思った以上に元気そうな老人たちだ。それは正直なところ意外だった。
 老人ホームに預けられるような人たちは、もっと身体が不自由なのかと思っていた。

 「皆さん、思ったよりもずっとお元気そうなんですね」

 里穂子がそう言うと磯村が嬉しそうな顔をする。

 「ええ、そうでしょう。そこはこの施設の自慢でして。環境、でしょうかね。ここは周囲にも緑が多くて、皆さんゆっくり羽を伸ばしてお過ごしになられているんです。それがいいんじゃないかって話しているんですよ」
 「なるほど。それは素晴らしいですね」

 頷きながらも、やはり少しばかり腑に落ちない。
 里穂子の会社の同僚は、祖母を預けるための特別養護老人ホームを探していたが、まったく空きが出ないと嘆いていた。入居するためには介護度や家族の状況、介護年数など複数の項目により優先度が決められ、なおかつ施設側で空きが出なければ預けることが出来ないのだという。
 この施設も、民間の有料老人ホームではなく、公的施設の老人ホームであった筈だ。だが見る限りでは、老人たちは皆元気そうで、中には介護を必要としないのではないかという人もいる。もっとも、人の手を借りずにある程度の生活が出来たとしても、他に身よりがなく全ての家事を一人でこなす事が難しいなど色々と理由はあるのかもしれない。それでも彼らは、とても元気そうだった。
 
 「梅田さん。ヨネさん。お邪魔しますね、磯村です」

 廊下の突き当りまで辿りつくと、まずは磯村が部屋の中に入っていく。

 「ご気分はどうですか? さっきお話した人たちを連れて来ましたが、お部屋にご案内して大丈夫ですか?」
 「いいですよ。お入りになってくださいな」

 中から聞こえてきたのは、柔らかくはっきりとした声だった。
 すぐに磯村が顔を出し「どうぞ中へ」と促してくる。
 梅田ヨネは可動式ベッドに座っていた。上半身部分を起こすことで、椅子のように変えることが出来るタイプのものだ。

 「ようこそいらっしゃいました。こんな婆さんに会いに来るなんて、物好きな方もいるものねぇ」

 そう言ってヨネはころころと笑う。
 とても上品な老婆だった。流石に齢100歳を超えているせいか、身体は小さく、顔も皺だらけだ。だが、背もたれがあるとはいえ、身体は曲がっていなかったし、声もはっきりしており聞き取りやすい。小花柄のパジャマから突き出した手も、ひどく細く骨と皮ばかりなほどだったが、小刻みに震えているということもない。

 「嬉しいわぁ。長生きし過ぎちゃったせいで、息子たちのが先に逝っちゃってねぇ。昔なじみもみんな『お先にさようなら~』っていなくなっちゃったものだから、訪ねて来る人なんて滅多にいないのよ」
 「滅多に、ということは、たまにはいらっしゃるんですか」

 福部は磯村が用意してくれたパイプ椅子に座りながらにこやかに話し掛けた。

 「そうねぇ。でもいるって言ってもあれよ。お役所仕事で来る人たちばっかりよ。みんな口を揃えて『長生きして下さいね~』なんて言ってくれちゃって、だからねぇ私も『あなたも私より先に死なないようにね』って返してやってるんですよ」

 はははは、と福部が笑う。

 「僕なんかは日ごろから不摂生で、健康診断のたびに医者に怒られてばかりなんで、ヨネさんよりも先に逝ってしまいそうです」

 福部は話やすい雰囲気を作るのが上手かった。職業故か、年の功か、おそらくその両方だろう。ここは福部に任せた方がいいだろうと、里穂子も筒井も「お邪魔します」とだけ声をかけ、そっとパイプ椅子に腰を降ろす。磯村は会釈をすると、部屋を出て仕事に戻っていった。
 ヨネの部屋も陽当たりがよく、とても居心地のよい場所だった。すべり出し窓の外には新緑が一面に広がっている。換気のために、窓は少しだけ開けられており、そこから吹き込んでくる風もまた心地よい。

 「突然お伺いさせて頂いたのはですね、実はここにいる筒井の娘が行方不明になってしまいまして。それで、この地域では昔から子供が神隠しのように消えてしまうという事が多いとお聞きしたんです。その中で、ヨネさんは子供を発見されたことがあると伺ったので、当時の状況をお聞かせ頂ければなと思いまして」
 「ああ、そう。そういうご事情だったのね。そうねぇ、どこから話せばいいかしら。なにせ年寄りなもんだから、大事なところだけぱっとお話するのが難しくてね。それに随分と昔の話だしねぇ」
 「ゆっくりで構いません。事故があったのはどれくらい前の事だったんでしょうか」
 「そうねぇ。あれは、30年くらい前、ううん、もっと前だったわね。悟が、うちの息子がこっちに移り住んで来た頃のことだったわ。子供が出来たのよ。男の子が2人だったわ。それまでは都会に出ていたんだけど、家が手狭になったって言ってね。ちょうど私の旦那が亡くなった直後だったから、『母さんも一人じゃ寂しいだろう』なんて都合のいい事を言って引っ越してきたの。
 私はねぇ、正直嫌だったのよ。だってね、ちっとも寂しくなかったもの。ようやく一人でゆっくり過ごす時間が出来たって喜んでいたところなのよ。それなのにあの子ったら、子供を2人も連れてきて。
 老人はみんな子供が好きだなんてよく言われるけど、あんなのは嘘よ。少なくとも私にとっては違ったわ。だってあの子供たちときたらまるで猿みたいにキィキィ喚きながら四六時中走り回ってばかりなんだもの。せっかく手に入れた安息を奪われたみたいだったわ」

 ヨネは一息ついてベッドサイドにあったお茶を一口飲むと、またゆっくりと語り始めた。
 筒井は早く本題に入ってくれとばかりに貧乏ゆすりをしているが、福部も里穂子もあえて気付かないふりをする。

 「それにねぇ、孫のことを悪く言うのも何だけれど、あの子達と来たら本当に性悪だったのよ。私が少し前に心臓の発作で一度入院をしたことがあってね。それを知ってて、物陰からいきなり飛び出してきて驚かすのよ。悟は『子供の悪戯だ』なんて笑っていたけどね。私には悪意があるように思えたわ。だってあの子たちは『ばあばがいなくなったら部屋が貰える』って言ってたのよ?
 だからね、私は家にいるのが嫌になって、出歩くことが多くなった。健康のためにはその方が良かったけれどね。
 郷土資料館に行くようになったのもその頃ね。あそこは誰かしらいたから、お喋りをするには丁度良かったし、誰もいない時はのんびり読書を楽しんだりもしたわ」
 「確かに、あそこで読書をするのは気分が良さそうですね。ロビーにあったソファなんかぴったりだ」

 福部が相槌をうつとヨネは「ふふふふ」と嬉しそうに笑う。

 「思い出すと懐かしいわ。久しぶりに行ってみたくなるわね。今度、磯村さんにお願いしてみようかしら。
 ……ええ、それでねぇ、他にも時期がいい時は山菜採りに山に入ったりもしていたのよ。あの頃も行方不明になる子供はいたけれど、私はすでにいい歳だったからそんな心配はちっともいらない。私以外にも山に入ってる人は結構いたものよ。今の人たちは、あんまり詳しくなくなっちゃったみたいだけどね。
 いつだったかしら。私が山に入ると、あの悪ガキどもが後をつけてきたの。途中で気付いて追い返そうとしたんだけれど、私の言うことなんか聞きやしない。怒ってもへらへら笑うばっかりで道を外れてどんどん山の中に入っていって。
 私もねぇ、最初は追いかけて止めようとしたんだけど、追いかければ追いかけるだけ面白がって逃げていくの。だからもう勝手にすればいいと思って山菜を集めることにしてねぇ。どれくらい経った頃だったかしら。悪ガキの下の子が泣きながらやってきて『お兄ちゃんがいなくなった』って言い出したのよ」
 「まさか、行方不明になった子供というのは、……」
 「ええ、そう。私の孫よ。
 何があったのか、どこでいなくなったのか。聞いても泣くばかりでろくな答えが返ってこない。挙句に『ばあばが山に入るから悪い』だなんて言い出してねぇ。私はもう呆れてものも言えなかったわ。それでもあちこち探し回ったのよ。でもちっとも見つからなかった。そうしたら、下の子が私の背中を何度も叩いて『ばあばのせいだ、ばあばのせいだ』って泣き喚いて。
 あんまりにもうるさいものだから、穴に突き落としてやったのよ」
 「は?」

 福部も、そして筒井と里穂子も、あまりの言葉に唖然とする。

 「あのあたりの山は、ほら、何て言ったかしら? 石灰岩だったかしら。そんなものが多いらしくて、あちこちに洞窟があるのよ。一山超えたところには鍾乳洞なんかもあったりするでしょ? だからね、山の中にも縦穴がいくつもあって、山菜採りに来る人たちの間じゃよく知れたことだった。みんな場所をしっかり覚えて、忘れないように傍にある木に赤い紐をくくったりして目印にしてたのよ。
 でも当然、あの子達は知らなかった。
 本当はね、お兄ちゃんの方も穴に落ちたのよ。あの子ったらまた私を驚かそうと走ってきてね、それで落っこちたの。まったくざまぁないったら。老人一人ならどうとでもなると思っていたのね。
 お兄ちゃんの方は即死だったわ。打ちどころが悪くて、頭がぱっくり割れて。でも弟の方はお兄ちゃんが下敷きになってくれたお陰で死ななかった。せっかくお兄ちゃんに会えて命まで助けて貰ったのに、あの子はまたぎゃんぎゃん泣き喚いてね。
 そうこうしている間に日が暮れ始めて、いつの間にかあたりは随分暗くなってしまった。あの時は私も随分と焦ったわ。でも幸いにも子供たちが落ちた穴に続く横穴を知っていたから、そこに入って一夜を過ごしたの。
 でもねぇ、一日中歩きまわったし、とても疲れてしまっていたし、だからね、私、お兄ちゃんを食べてみたの。仕方なかったのよ。私がいないと弟も連れて帰れないもの。
 お兄ちゃんの肉はとても美味しかった。柔らかくて甘くて、今まで食べた何よりも美味しかった」

 誰も何も言えなかった。
 悪い冗談だ。そう言ってヨネが笑うのを期待したが、ヨネは穏やかな表情のまま淡々と話を続けている。

 「あれは不思議な体験だったわ。朝起きたらいつも痛かった腰の痛みがなくなって、とても体調が良かったの。嬉しくてお兄ちゃんの残りをいっぱい食べたわ。穴に落ちた時に頭を打って沢山血を流したお陰で、ほどよく血抜きもされていたし、お陰で私の服もほとんど汚れなかった。
 弟はなんだか様子がおかしかったわ。身体がすっかり冷え切っていたし、顔もうつろでろくに喋れなくなっていた。意外なことに、憎まれ口さえ叩かなければ可愛い孫に思えてきてね。だからあの子を背負って山を降りて帰ったの。そんな事が出来たのも、お兄ちゃんを食べたお陰だったと思うわ。
 でもねぇ、結局、弟も死んでしまったのよ。身体が冷え切っていたとか、とても可哀そうな事をしたわ。あの子にもちゃんとお兄ちゃんを食べさせてあげれば良かったのね」
 「ふざけるなよッ!!!!」

 ガタンっと椅子を倒しながら立ち上がったのは筒井だった。
 大股でヨネに近づくと、乱暴に胸倉に掴みかかる。

 「ボケてんのか!? 頭おかしいのかよ、婆さん!! 言っていい事と悪い事があるだろうがよッ!!」
 「筒井!!」

 慌てて福部が立ち上がる。止めに入ろうとしたところで、ヨネが大声で笑い出した。
 部屋が暗い。
 唐突にそう思った。
 つい先ほどまで明るかった部屋が、今は夕闇が迫ってきているかのようだった。
 あちこちに黒い影がわだかまり、窓の外の新緑も、いまは得体の知れない生き物の集合体のように不気味に蠢いて見えてくる。

 「おかしい事なんてないじゃない。あの子達が私を食い物にして、私の場所を奪おうとした。だから私があの子達を食い物にしてやった。それだけの事よ」
 「ふざけんなッ! お前がさっさとくたばれば良かったんだよッ!!!!」
 「残念だったわねぇ。昨日のあの子、あなたの娘さんだったのねぇ。とっても美味しく頂いたわ」

 筒井の顔が固まった。
 怒りとも違う。絶望よりも深く、圧倒的な空虚でもって表情がいっさい抜け落ちる。
 対して、ヨネの顔は口の端が切れ上がったかのように、不気味な笑みでつり上がる。その口が、大きく開いた。
 中に並ぶまるで鮫のように先が尖った乱杭歯に、里穂子はヒっと息を飲む。
 ヨネの歯は、筒井の頬に食いついた。
 じくじくと皮膚へ牙が突き刺さり、次の瞬間、肉と筋線維が壊れる音がして、筒井の頬が引き千切れる。
 鮮血が壁に飛び散った。
 筒井は悲鳴をあげようとするも、喉に血液が入り込みげほげほと激しく噎せ返る。その音も、引き千切られむき出しになった歯茎の合間から、血と一緒に漏れていく。
 ヨネは筒井に飛び掛かると、その身体を押し倒して、顔面の肉に食らいつく。
 頬を食いちぎり、鼻をもぎ取り、瞼を剥ぎ取って目玉を啜る。
 悲鳴はない。
 異様な咀嚼音が響き渡り、バタバタと暴れる筒井の足だけが悲鳴のかわりに叫んでいる。
 里穂子も、福部も、何一つ出来ないままだった。
 目の前で起こっている惨状を、呆けた顔で見詰めていた。

 
 

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