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白く漂うもの

 「おお、こりゃまた絶景だねぇ」

 ユミコの新居は広大な墓地に面したマンションだった。
 ベランダから一望できる墓石の軍団はまるでミニチュアの摩天楼で、そこにもう一つ都市があるかのようで面白い。

 「キミちゃんはそう言ってくれるけどね」

 ユミコは苦笑しながらマグカップを片手にベランダに出てきた。
 手渡されたカップには美味しそうなココアが湯気をたてている。有難く受け取って一口すすれば、芳醇なカカオの甘さに思わず笑みが浮かんでくる。ココアは凄い。きっと幸せの魔法がかかっている。

 「なんで? お墓怖い~って言う人っているの?」
 「結構いるよ。怖いっていうか、嫌な顔をされるっていうのかな。うちの母親もそうだった。一目みて『それだからアンタは恋人と長続きしないのよ』って言われたし」
 「まぁ確かにこれが森林公園とかだったらもっといいかもとは思うけどさ。そしたら朝からご老人たちがお喋りしたり、夜は騒ぐやつがいたりしてうるさいと思うし。家賃も少し安かったりする?」
 「うん。都会で駅から10分にしては大分安いよ」
 「だよねー。私はぜんぜんありだって思うけど」
 
 私の言葉にユミコは肩をすくめてみせる。

 「そうだよね。私もそう思ったんだけど。想像してたより嫌がる人が多くて」
 「そうなの?」
 「ヨウコにも墓地も隣なんて信じられないって言われたし、田所先輩って知ってたっけ。大学時代の知り合いで、まぁちょっといい雰囲気かなって思ってたやつなんだけどさ。あいつも引っ越し祝いに遊びに来て、窓の外を見てそそくさ帰っちゃったの。しかも帰り際に『部屋に男呼びたいならもうちょっと考えた方がいい』とか言ってくれちゃって」
 「なんか嫌な感じ」
 「うん。私もそれ聞いて冷めちゃった。自分が苦手だって言うならいいけど、『男』とか随分とでかい括りで話すんだなって思ってさ。それって先輩が怖くて嫌だって話を遠回しに言ってるだけじゃないのって。しかも言うに事欠いて『部屋の男呼ぶ』って。そんな下品なアドバイスを先輩面で言われると思わないじゃない?」
 「もういっそリトマス試験紙だと思えばいいんじゃない? 極端な拒絶反応を見せる人とか、人格否定やセクハラ発言するやつが選別出来てラッキーって」
 「あいかわらずキミちゃんは強いなぁ」

 あはは、と私が笑うとユミコもようやく笑顔を見せた。

 「でも実際、どうなの? なんかそういうオカルトじみたことってあったりするの?」
 「ないない、って言いたいところなんだけど」

 ユミコの表情がまた曇る。
 だがこの質問はどこかのタイミングでしなくてはならないものだった。
 だってユミコは明らかに顔色が悪かった。それにここ数か月で随分と痩せてしまったように見えるのだ。それはこのマンションに引っ越してきた時期と一致する。だから私はできるだけ無邪気に接しながらも、なんとか話を聞き出したいと思っていた。

 「……取りあえず、中に入ろうか。ちょっと寒くなってきたし」
 「そうだね」

 私もそれには同意した。確かにココアの入ったカップも少しずつ冷たくなっている。もうすぐ四月になるとはいえ、まだまだ外気は寒かった。もう一度、眼下に広がる墓地を見渡してから、私はユミコの背中を追いかけた。

 「たいしたことじゃないんだけどね、たまにお線香の匂いがするんだよね」
 「お線香?」
 「うん。それだけ。幽霊が出るとか、そういうんじゃないの。たまにね、どこからともなくお線香の匂いが漂ってきて、それで部屋中探しまわってみてもどこから流れて来るのか分からないの。窓はしまってるし、換気扇でもなさそうだし。最初の頃はお婆ちゃんの家の匂いみたいだなぁって思ってたんだけど、段々気になるようになっちゃって」
 「なるほど」

 なんだ、その程度なのか。だったらそこまで心配することもないだろうか。
 私は改めて室内を見回した。引っ越しをしてから数か月ほどたっている筈だから、部屋はほどよく生活感が漂ってくる頃合いだ。家具はあるべき場所に収まって、日用品の置き場所もだいたい固定になっていく。物が散らかってしまったり、捨てるのに悩むような粗大ごみが部屋のすみに放置されることもない。
 ユミコらしい落ち着いた部屋。
 それでも目を凝らしてみてみると、部屋の四隅にはうっすら埃が見えている。これは綺麗好きなユミコには珍しいことだったし、ましてや来客がある時に掃除機をかけていないのはらしくない。
 新しい環境に慣れていないならばいいけれど、その線香の匂いとやらで疲れてしまっているならば、気にかけてあげた方がいいだろうか。
 深く突っ込んで聞くべきか、もうしばらく様子を見るべきか。
 私が決めかねている間に、ユミコは夕ご飯の支度をすべくキッチンへと立ち去った。
 今日の晩御飯は、この部屋でユミコと一緒に食べることになっていた。だからデパ地下で美味しそうなお惣菜をあれこれ買って来た。こういう機会でもない限り、自分のためだけにお惣菜を買い込むのは気が引ける。特別な週末や、とびきり仕事が忙しかった時などは自分へのご褒美として買い込むこともあるけれど、どうも私は貧乏性であるようだ。一定額より値段を超えると、懐の寒さが気になって素直に楽しめなくなってしまう。
 でもこんな風に友人と一緒に過ごす夜は。
 お喋りが弾んでお酒も入れば、お金のことはふわふわとどこかへ飛んでいく。

 「手伝うことある~?」

 キッチンに声を投げると「お客様は待ってて」と声が帰ってくる。
 手持無沙汰になった私がしばらくスマートフォンを弄りながら待っていると、ユミコはお惣菜を大皿に盛りつけて戻ってきた。何度か行き来して、ワインやビール、それにデザートまですべて用意してしまえば楽しい夕食のはじまりだ。
 ふと窓の外をみれば、いつの間にか陽が落ちて外は真っ暗になっている。
 なるほど、墓地は街頭がほぼないために、この時間ともなれば少しばかり不気味だった。
 まぁいい。気にしないでおこう。私が気にしているのとユミコに知れてしまったら、彼女も楽しめなくなるだろう。

 「それじゃあ、乾杯」と私はグラスを持ち上げる。「何に乾杯しようか。引っ越し祝い?」
 「それは結構前だよ?」
 「いいじゃんいいじゃん、私だったら一年中いつだってお誕生日祝いして貰っても構わないもん」
 「じゃあ、引っ越しに乾杯?」
 「引っ越しと静かな隣人たちに乾杯!」

 カンっと軽やかな音をたててワイングラスをあわせると、二人で声をあげて笑いあった。




 空になったボトルに、すべて食べつくしたお惣菜。
 楽しい時間はあっと言うまに過ぎていく。時計をみれば11時をとうに回っており、そろそろ帰り支度をしなければいけない時間になっていた。

 「やばい。話こんじゃった。ごめんね、片付け手伝うよ」

 私が立ち上がると、ユミコは「いいよいいよ」と首を振る。

 「大皿に盛ったから案外と洗い物は少ないから大丈夫。明日の朝にまわしたって今の時期なら平気だし」
 「え、じゃあせめて台所に運ぶのは手伝わせて」

 確かに洗い物は少ないけれど、小皿やグラスを数にいれれば何往復か分はあるだろう。流石にすべて投げ出して帰るのは気が引ける。

 「それじゃあ、お願いしちゃおうかな」
 「任せて」

 さっと立ち上がって皿やグラスを持ち上げる。そうしてキッチンへ向かったところで、ふと私はその匂いに気が付いた。

 「……あれ?」

 線香の匂いだ。
 普段だったらとくに気にしないだろう。お香でも焚いているのだろうとでも思うに違いない。
 けれどついさっきのユミコの話を聞いたあとでは、その匂いはやけに気になった。思わずその場で立ち止まる。ふり返ると、ユミコも神妙な顔つきになっていた。

 「ねぇ、さっき話してた線香の匂いって」
 「キミちゃんも分かる?」
 「うん、分かるよ」
 「良かった。私が神経質になってて幻聴みたいに、匂いがしている気がしてるだけかも思ってた」

 ひとまずシンクに洗い物を置いてから改めて室内をみまわした。
 窓はあいていなかったし、換気扇も今は回っていなかった。

 「部屋の中、ぐるっと回って見てきてもいい?」
 「うん。そうしてくれると嬉しい」

 回ると言ってもキッチンとダイニング、それに寝室しかないのだからほとんど時間はかからない。念のためにユニットバスも覗いてみたが、匂いの原因は見当たらない。

 「確かに、どこから漂ってきてるのか分からないね」
 「そうなんだよね。でも、それだけと言えばそれだけだから、怖がるほどのものかどうか微妙だし」
 「これくらいだと不動産や管理人に聞いてみるのも悩むレベルだよね」

 まして、新たに引っ越し場所を探すとなれば、二の足を踏むのも当然だ。

 「墓地で誰かが線香をあげてて、それが流れてきてるってのが一番ありえそうだけど」
 「でも、窓はしまってるし。それにこんな時間にお墓参りなんて来る?」
 「そうだよね。でも念のために見てみようか」

 一人だったら確認するにも勇気がいるが、今はユミコと二人だから問題ない。
 寝室の窓をあけてベランダに出てみれば外気は凍り付くほどに冷えており、思わず体が縮こまる。

 「さむッ……! コート着てからくれば良かった」
 「持って来る?」
 「大丈夫。さっと見て何もなかったらすぐ戻るし」

 ユミコは寝室においてあった厚手のカーディガンを着たようだ。
 私は寒さに震えながらも真夜中の墓地に目をこらす。やはりこの時間では墓地はほとんど真っ暗で、墓石の輪郭すらおぼろげだ。
 それでもしばらく眺めていれば、少しずつ暗さに目が慣れる。僅かな月明りと、墓地をかこむ通り沿いの街頭とで、段々と様子が見えてきた。

 「やっぱり誰もいない、よねぇ」
 「誰かがお線香あげてたら光が見えるかなぁ。それともお線香程度じゃ見えないかな」
 「どうだろう。でも外もかすかにお線香の匂いはするよね」

 くんっと匂いを嗅いでみると、冷たい外気が入り込み鼻の奥まで寒くなる。

 「う~ん、やっぱり誰もいないよね」
 「そうだよね。……あれ、ねえ、キミちゃん。あそこ、右奥の方。桜の樹があるのって分かる?」
 「右奥? ああ、うん、分かった。あそこがどうしたの?」

 問いかけてみてから気が付いた。
 樹の後ろに誰かがいる。いや、ちがう。何かがいる。
 最初、私はただひたすらに戸惑った。
 だって桜の樹はこのベランダからはかなり離れた場所にある。それにあたりは暗いのだ。たとえ樹の後ろに誰かが立っていたとして、それが見えるとは思えない。
 だが見える。
 樹の後ろからこちらの様子を伺うように、ちらちらと顔をだす白いものが見えるのだ。

 「なに、あれ。ゴミ袋、とか?」
 「そう、かな。でもなんか、こっちを見てる気がしない?」

 そうなのだ。どうしてか分からないが「見られている」という感覚が背筋をじっとりと這い上がる。
 見られている。目があっている。なぜだかそんな風に感じるのだ。

 「野犬とかじゃないよね」
 「どうだろう、でも、……」

 例えそれが犬だとしても、ここから見えることがおかしいのだ。だがその不自然さを口に出すことが恐ろしくて、私はただ黙り込む。
 そうしていると、白い何かはするりと桜の後ろから抜け出した。
 それでもそれは一体なんであるのか分からない。
 白い、なにか。
 その昔、妖怪図鑑でみたことのある一反木綿に近いだろうか。
 あるいはデフォルメされたシーツお化けのような幽霊にも似て見える。

 「ねぇ、あれ、こっちに来てる?」

 恐る恐る問いかけるユミコの声が震えている。
 
 「ビニール袋が飛ばされてきてる、とか」
 「でも、……」

 それは器用に墓と墓の間をすり抜ける。するりするりっと体をくねらせ、ゆっくりとマンションに向かって滑ってくる。私とユミコは息を飲んで、それの視界から逃れるようにベランダにさっとしゃがみこむ。

 「やばい。絶対、こっちに来てる。部屋に入ろう!」
 「うん、でも、あれって何なの?」
 「分からないけど、でも絶対に良くないものだって」

 良くないもの。
 それは嫌ほど感じている。だが一体全体なんなのか。
 好奇心と、訳の分からないものに対する憤り。そんなものが存在している筈がない。意味不明な現象に脅かされるのが許せない。
 だけれども、私の小さな自尊心はすぐに萎んで、言いようのない不安感がこみあげる。

 「キミちゃん、はやく!」

 腕を引っ張られるようにして、寝室へと転がりこむと、すぐさまカーテンを閉め切った。

 「やだやだやだ、なにあれ」
 「分からない、あんなの見たことない」

 ガクガクと足が震えている。はっきりと何かを見た訳ではない癖に、恐ろしくて仕方がない。

 「まだいる?」
 「どうだろう、……」
 「入ってこないよね」

 分からない、とユミコは青ざめた顔で首を振る。本当にあれを見たのはユミコも初めてなのだろう。
 ほんの僅か、小指ほどの隙間だけカーテンを薄く開いて覗いてみる。何もいない。だが、それ以上、隙間を開いて確かめるのは恐ろしい。

 「いない、と思う」
 「なにあれ、お化け?」
 「分からないけど、なんか違うと思う」

 私はお化けなんてみたことない。だから絶対に違うなどとは言えないが、でもあれはもっと異質なものだった。
 どうしよう。
 ここから逃げたい。
 けれど、外に出るのは怖かった。
 その時だった。ドンドンドンとドアを叩く音が響いて、私とユミコは飛び上がる。

 「……玄関、だよね」

 涙目のユミコに、私は「たぶん」と頷いた。
 手を取り合って、寄り添って、足音をたてないようにしながら、二人で玄関に向かっていく。開けたくはない。でも、見に行かないのも怖かった。
 ドンドンドンドン、ドンドンドンドン。
 ノック音は続いている。普通だったら、ドアフォンを鳴らしているだろう。
 だがドアの向こうの何者かは執拗のドアをノックする。

 「ちょっとだけ、見てみる」

 好奇心と恐怖がせめぎあう。
 ノックのたびに僅かに揺れるドアに近づいて、そっとドアスコープを覗き込んだ。
 何も見えない。真っ暗だ。
 いや違う。
 そんな筈はない。ドアスコープにぴったりと貼りついた何かがいる。
 それが瞬きをしてようやく、覗き込んでいたのが大きな目玉だと気が付いた。
 ヒっと声にならない悲鳴をあげて慌ててドアから身を引いた。
 見た。見られた。
 ほんの一瞬だったけれど、それは血走った目玉だった。
 血走った眼球。私を見るそれ。途端に胃の中がひっくりかえりそうな気持ち悪さに襲われる。心臓が爆発しそうに痛くなり、どっと冷や汗が噴き出した。
 おかしい。
 体がおかしい。
 恐怖のせいで自由が効かなくなっている。
 あれは駄目だ。見てはいけないモノなのだ。そこにいると知ってはいけない存在だ。

 「キミちゃん、キミちゃん、しっかりして。ねぇ、キミちゃん」

 ユミコが私の肩を掴んで、必死に揺らしながら声をかける。その声は聞こえているのに、うまく体が動かせない。声が出ない。発作のように体が震えてまるで思い通りに動かない。
 駄目、駄目。こんなのは駄目。
 狂ってしまう。
 自分自身が壊れていく感覚に、奈落に落ちるように恐怖する。
 嫌だ、駄目。耳鳴りがする。キィーンと嫌な音が少しずつ大きくなっていく。

 その時だった。

 「おい!!! 何時だと思ってんだッ!!!!!」

 バタンっとドアの開く音が響いて、男の怒声が響きわたる。
 ふはっと、私は息を吐き出した。恐怖で縛られた体が弛緩する。

 「おい、……な、なんだ、お前、おい、何なんだッ!!! おいやめろ、こっちに来るな、やめろやめろッ」

 恐らくは隣に住んでいる男だろう。そういえばユミコから隣人は運動部の大学生だと聞いていた。
 やめろ、寄るなと男の悲鳴が聞こえてくる。
 恐怖に引き攣った悲痛な叫び。でも私もユミコもただただそれを聞いていた。助けることなんて出来なかったし、指一本を動かすことだって怖かった。
 駆けだす音。
 泣き喚く声。
 そして悲鳴。
 長く続く悲鳴はゆっくり落下するように遠ざかり、そして唐突に消え去った。
 後に残る静寂をもって、その夜の恐怖は過ぎ去った。




 ユミコは早々にマンションを引っ越した。
 結局のところ、あの夜に何が起こったのか、あれは一体なんだったのか、何も分からないことばかりだ。だがきっと、あれは知ってはいけないのだ。分からないままにしておいた方がよいものなのだ。
 隣の部屋の大学生は、今も見つからないという。
 マンションの住人たちからは、複数の通報があったそうだが、警察は何も発見することができなかった。
 あれと線香の匂いとの関連性も分からない。
 でももしも、あり得ない場所で線香の匂いを嗅いだなら。
 それはきっと警告だ。
 私たちがもしその一線を気付かずに踏み越えてしまったら、もうきっと戻ってこれないに違いない。

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