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とこよみ籤

 正月の朝だ、と言ってもほとんど実感はわかなかった。
 スマートフォンを眺め、そこに表示された「1月1日」の文字を見ながら「年が明けたんだなぁ」とぼんやりと思う。
 ただ、それだけのことだった。
 未婚で、一人暮らしの男の正月なんておおよそそんなものではなかろうか。
 当たり前だが、年が明けてもそれは昨日と連続した時間であり、年越しを堺にして何かが大きく変わるような事はない。
 年末ジャンボなんかが当たれば話は別だろうけれども。
 確か今回は7億だか、8億だかそんな途方もない数字が並んでいた。あんなお金が手に入ったらどうするだろうか。とうてい有意義に使える気がしなかった。欲しくないと言えばウソになるが、自分は大金を得るのには値しないように思えるのだ。

 めでたさも中くらいなりおらが春

 確か小林一茶の句のはずだ。それを聞いたのは一体いつだかも覚えていない。
 人に説明できるほど意味を理解出来ているかも自信がない。
 ただなんとなく、それが自分にぴったりに思えたことだけは覚えている。
 随分と昔の筈なのに。おそらくは中学生か、それくらいの時のことだろう。
 そんな夢の途上にいた時でさえ、自分は大成しないと思っていた。
 悲観的だった訳ではない。むしろ逆だ。とても気楽に生きていた。分をわきまえて日々の小さな幸せで十分に満足する。そうしていた方が楽なのだと、子供のころから思っていた。
 覇気のない子供だったが、親からも教師からも好かれていた。適度にさぼることはあるものの、基本的には聞き分けがよく問題行動を起こさない。
 多分、反抗期らしきものもなかった筈だ。

 お前の生き方ってぼやけてんな。

 そう言って来たのは、大学生の頃のバイトの先輩だった人だ。
 飲みの席で言われたけれど、とくに傷つきもしなかった。
 だって自分は気楽だし。
 ぼやけてると言ってきた先輩の生き方は確かに尖っていて、その分だけいつもあちこちでぶつかって、とても生き辛そうだった。実際あの人は就職した後も苦労して、どんどんすり減っていった結果、去年自殺したらしい。
 それを聞いた時もとくに何も思わなかった。
 いやどうだろう。少しくらいは思うところがあっただろうか。
 僕のことを否定した癖に、手本にならずにさっさと逝ってしまうなんて。薄情な奴だなんて身勝手に思った記憶もある。
 だが所詮は、人生において出会う人間のほとんどはNPCのようなものだ。それぞれに血が通って、あれこれ悩んで生きているだなんて気にかけて過ごすこともない。
 先輩のことも今日の今日まで忘れていた。

 そんな自分であっても元旦となれば、少しばかり思うところもある。
 いつもよりちょっとだけ姿勢を正したほうがいいんじゃないか。何か特別なことをしたほうがいいんじゃないか。らしくもなくそんな感情が沸いてくる。
 昨日と何も変わらないのに。
 そう思う自分もいるのに、とっくにしぼんだ向上心に似た何かが、ちょいちょいと袖口を引いてくる。
 去年までの正月は実家に戻って家族と一緒に過ごしていた。
 だから何も努力しなくても、正月らしさを満喫し、家族総出で初詣にも出かけていった。
 今年も当然そのつもりだったが、直前になって父がインフルエンザになったのだ。

 「今年は帰って来ても構ってやれないよ」

 母にそう言われて驚いた。そもそも構ってもらっているという自覚がなかったのだ。
 だが言われてみれば、実家に戻れば何もせずともご飯は三食出てくるし、風呂や布団の用意もしてもらえる。確かに構って貰っていた。
 ああ、そうか。自分は甘えていたんだなぁと感慨深く思ったものの、かと言って正月に戻れないからと言って寂しいと思うほどでもない。実家はそう遠い距離じゃない。なにせ二駅しか離れていない場所だった。散歩がてら尋ねていけるほどの距離だ。

 「構って貰わなくても大丈夫だよ。それより、手伝いに行こうか?」

 そう言ってみたけれど断られた。
 「アンタまでうつったらどうするの? どうせ予防接種もしてないんでよ?」と言われ、まさにその通りなので引き下がった。
 仕方ない。まぁいいじゃないか。いつもより気楽に過ごせるぞ。
 そんな風に思っていたのに、いざ正月を向かえると気楽さがじわじわと染みてくる。
 せめて初詣くらいは出かけよう。
 そう思って家を出た頃には太陽も高くのぼり、ぽかぽかとあたたかな日和になっていた。




 正月の都会は人が少ない。
 繁華街となれば話は別だが、こと住宅地においては驚くほどに静かになる。国道に出ても車はまばらで、本当にここが都会なのかと思ってしまう。
 長くまっすぐのびた道路に人っこ一人見当たらない。
 それはとても不思議な光景だ。
 こんな風になるのは正月くらいで、そのたびに田舎に帰る人の多さに驚かされる。
 商店街もほとんどがシャッターをおろしているから尚のこと、街は映画で見る終末世界の様相だ。
 空気は冷たいが、真っ白な日差しは暖かい。
 ぼんやりと思い出すのは、随分と昔の正月だ。
 こんな風にまっすぐのびた道を親族みんなで歩いていた。祖父母は歩く速度が遅いから、遅れて最後尾になっていき、一方で中学生くらいだった従兄妹たちははしゃぎながら先頭をぐんぐんと歩いていく。
 高校に入ったころから従兄妹たちは来なくなり、祖父母は自分が社会人になった年に亡くなった。
 神社で毎年のようにずらりと並んで受けていたお祓いも年々人が減っていき、去年は両親と自分の三人きりになっていた。
 人生、そんなもんだなと思うけれど、こうして節目の日に思いだすと少し寂しい気持ちにもなる。
 あれは幸せの光景というものだったのか。当時はなんとも思わなかったが、こうして思い出してみると、きらきら輝いていたようにも思えるのだ。
 ああ、嫌だな。
 正月からこんな気分になるもんじゃない。
 そういえば年が明けたのに両親にメッセージを送るのをすっかり忘れていた。
 友人からも新年のメッセージが届いているころだろう。
 そう思ってスマートフォンを見てみると、そこでようやく圏外になっているのに気が付いた。

 いつからだろう。

 朝起きて、日付を見たのは覚えている。
 その時もメッセージは何も届いていなかったから、もしかしてすでに圏外になっていたのかも知れなかった。
 正月早々ついてない。
 この地域がそうなのか、キャリアの回線ごとパンクしているのか、それすらも電波がないから分からない。
 
 まぁいいか。

 多少不便ではあるものの、自分にはほとんど影響がないものだ。
 初詣に向かった場所は、毎年訪れている神社だった。氏神様というのだろうか。
 なんの変哲もない神社で、お正月か夏祭りの時くらいしか混みあうことのないところだ。
 境内に入っていけば、流石にそこは参拝客が並んでいた。思わずほっと息を吐き、自分が不安だったことに気が付いた。ここに来るまで誰にも会わず、電波の通じなかったのだ。
 自分が預かり知らぬところで何かあったのではなかろうか。
 心の片隅ではそんなことを思っていた。
 例えばそう。不発弾が出て来た時にもよく似ている。撤去のために街の一角が封鎖され、しばらく誰も立ち入れなくなる様は、とても異様な光景だ。
 自分が知らぬだけで、撤去作業があったのではなかろうか。うっかり逃げ遅れたのではなかろうか。
 そんなことを考えていた自分が少し恥ずかしい。
 羞恥心をごまかして咳払いをすれば、参拝客の最後尾に加わった。
 列は例年通り、鳥居の外までのびている。本殿につくまでには30分はかかるだろう。多少、面倒に思うもののこれといって予定がある訳でもないので構わない。惜しむらくはスマートフォンが圏外になっていることだったが、何もせずぼんやりと過ごすのも存外に悪くないものなのだ。
 そう思ってゆったりと構えていたが、一行に列が動かない。
 10分経っても一歩すら前に進んでいないことに気が付いて、さすがに変だと思いはじめる。
 なんだろうか。
 これほど待たされていれば誰かが騒ぎ出しそうなものだったが、参拝客の列はなんとも静かなものだった。
 いや、静かすぎる。
 ようやくその事に気が付いた。
 がやがやと雑踏のようなざわめきはあるものの、はっきりと喋っている声はちっとも聞こえてこないのだ。
 見れば目の前に並んでいる老夫婦は、表情こそ穏やかだが一言も会話をしていない。その前にいる若い女性もただぼんやりと立っているだけで、スマートフォンさえ弄っていないのが不自然だ。
 一体なんだ?
 首を傾げながら列からはずれて、本殿の様子を確かめにいく。
 参拝者の列は誰も何も語らない。ただただ静かに立っており、それが次第に不気味な様子に見えてくる。
 今年は屋台も出ていなかった。子供の頃には舞殿で獅子舞が踊り、尺八や琴が奏でられていた事もあったけれど、いつの頃からか舞殿が取り壊され、そんな催しもなくなった。
 かつて舞殿があった場所を見つめながら、最前列まで歩いていく。
 賽銭箱の前にいるのは60代ほどの白髪混じりの男だった。なにやら熱心に祈っている。しばらく様子を見ていたが、その祈りは一向の終わることはないようで、男は微動だにしなかった。
 だがそれよりも不思議なのは、周囲が誰も文句を言わないことだった。
 これだけ長い時間となると、正月だから多目に見ようとはとうてい思えないだろう。だが、誰も何も言わずに待っている。なんだか変だ。何かがおかしい。かといって害意があるわけでもなく、誰も彼もまるで時間に頓着していないように見えるのだ。
 これだけ待たされているのに。
 スマートフォンを取り出し時間を確認しようとして驚いた。
 日付は1月1日であるものの、時間はハイフンになっている。これも電波障害の影響か。だとしたら随分と深刻な事態ではなかろうか。

 今日は帰ろう。

 そう思った。
 こんな変な日は家にこもって動かないのが一番だ。
 だがおみくじだけは引いていこう。それは自分が毎年必ず元日に行っていることで、こればかりは引いておかないと落ち着かない。結果に期待している訳でもなかったが、物心がついてこのかたずっと続けてきているのだ。
 そうだ。さっさとおみくじだけ引いて家に戻ろう。
 幸いにして授与所は空いていた。
 「おみくじ引かせて下さい」と声をかければ、すぐにお御籤筒を渡される。
 ガラガラと振った音がやけに大きく響くのには肝が冷えたが、誰も気にする様子はない。
 出て来た木札を手渡すと、お御籤の紙を渡される。
 受け取った紙を開いてみると、そこには見慣れない文字が並んでいた。

 「え、……、なんだ、これ」

 読めない、わけではない。
 いや、読めないと言っていいのだろうか。

 『イ升レ徒トト摩れ カ加ミノ徒イ ナモ吏テヲ磨ナナ府』

 そんな調子で意味を成さない文字の羅列が続いている。
 気味が悪い。
 文句を言おうかとも思ったが、こんな意味不明なものを渡す相手に何か言うのも怖かった。
 帰ろう。
 お御籤をポケットにぐしゃっと突っ込むと急ぎ足で歩き出す。
 そのまま立ち去ろうとしたところで、ふいに腕を掴まれた。

 「うわっ」

 驚きのあまり声が出る。
 そして、腕を掴んだ相手の顔を見て、さらにもう一度驚いた。

 「え、……せん、ぱい?」

 腕を掴んでいたのは、かつてのバイトの先輩だ。
 ちょうど今朝思い出した相手。自分のことを「ぼやけた人生」だと言った男。そして、去年、自殺した筈の男でもある。

 「ええ、と、……」

 生きてたんですか? と尋ねるのはあまりにも間抜けだろう。
 親しかったわけじゃない。葬式にだって行かなかった。人づてに聞いただけの訃報は、別の人物と勘違いしていたのかも知れなかった。
 僕が困っていると、先輩はお御籤の結び所を指さした。
 なんなんだ。言いたいことがあるならば言えばいいのに、先輩はただお御籤結び所を指している。

 「ええと、その、分かりました。結んで帰れってことですよね」

 そう言うと、掴まれていた腕を離された。
 なんなのだろう。首を傾げながらポケットに突っ込んだお御籤を結びつける。
 まったく意味が分からなかったが、確かにこんな不気味なものを持って帰るのも嫌だった。
 しっかりと結びつけて振り返ると、先輩はほっとした顔をする。
 なんでそんな顔をするんだろう。安堵と、それに、どこか寂し気な微笑みだ。自分の知っている先輩はいつも尖っていて、そんな顔をしてみせる人ではなかったのに。

 「あー、あの、ええと、……今度どっか飲みに行きませんか?」

 声をかけると、先輩は困った顔で首を振る。

 「そうですか。なら、その、まぁ気が向いた時にでも声かけて下さい。自分はたいてい暇してるんで」

 先輩は相変わらず困り顔だ。あるいは呆れているんだろうか。
 また「もっと真面目に生きろ」だとか言われそうだ。
 それ以上困らせるのも気がひけるので、さっさと立ち去ることにする。

 「それじゃあ、その、……また今度」

 手を振ると先輩も困り顔の笑顔のまま、それでも手を振り返す。
 なんだろう。変な感じだ。
 そう思って歩き出し、鳥居をくぐり抜けたところでふいに眩暈に襲われた。
 ぐるりっと視界がまわり、足元の地面がぐにゃぐにゃな感覚に変わっていく。
 ああ、やばい。倒れそうだ。
 手をついた地面が沈みこみ、平衡感覚が溶けていく。
 まずい、やばい、そう思ったところで目が覚めた。




 目に映るのは見慣れた天井。それはまだどこか不安定に揺れている。
 喉が異様に乾いていて、心臓が蒸気機関車のように勢いよく音をたてている。
 身体が熱い。喉が乾いて死にそうだ。
 這う這うの体で這い出したのは居間の炬燵で、どうやら昨晩は酒を飲んで、そのまま炬燵で眠りこけてしまったらしい。
 酷く喉が乾いている。じりじりと這いながら何とかキッチンにたどり着く。シンクに縋りついて、蛇口から出る水にそのまま口をつけてむさぼった。
 まだ心臓は酷い音をたてているし、喉はこんなに乾いているのに全身は汗でびっしょりだ。
 もしかすると、あのまま眠っていたままだったら、不味かったのではなかろうか。喉を潤していれば、そんな実感が沸いてくる。
 正月の朝に炬燵で寝た挙句に脱水症状で倒れるなんて、あまりにも間抜けが過ぎるだろう。
 いや、本当に、かなりまずかったのではなかろうか。
 たっぷりと水を飲み、ようやく息を吐き出した。
 幸いにも、水を飲んだことによって心臓は少しずつ落ち着きを取り戻していたし、汗もゆっくりと引いていく。
 そうすると今度はどんどん身体が冷えて寒くなり、慌ててベッドへ駆け込んだ。
 結果、見事に風邪を引き、インフルエンザの父以上に寝込む羽目になったのは、なんとも情けない話だった。




 結局、あれはなんだったのか。
 初夢というにはやけにリアリティにあふれていて、その一方でどこまでも現実と離れていた。
 後になって確かめてみたところ先輩はやはり亡くなっていたし、自分の夢にわざわざ出てくるなんてあり得そうもない話だ。
 でももしも、自分があの世に片足を突っ込んでいたならば。
 呆れて手を差し伸べてくれるのは、あの先輩ならいかにもやりそうな事だった。
 口が悪く尖っていてすぐに敵を作る人。だけれども、面倒見は良かったし、呆れた顔をしながらも、いつも手を貸してくれていた。
 だったらもっと分かりやすく「いい人」でいれば良かったのに。
 あの人は生きるのがへたくそ過ぎた。自分のぼやけた生き方を少しくらい分けてあげたかった。
 そう、だからせめて、体調がすっかり治ったら。
 カップ酒でも片手に墓参りくらいは行っておこう。飲まないかと声をかけたのは自分なのだ。
 そんな事を思いながら、ベッドの中で大きなくしゃみを一つした。

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