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子泣き神社
はじめての一人旅をN県にしたのは、会社帰りに観光ポスターに見たからだ。
とにかく一人になりたかった。それは、投げ槍な気持ちというよりも、すがすがしい気持ちの方が大きかった。
十年付き合っていた恋人と別れることになったのは、浮気をしただとか、転勤になっただとか、そんなドラマチックな理由ではない。どちらかと言えば、理由らしい理由が見つからない。同じくらい、付き合い続ける理由が見つからなくなったのだ。
だから私たちはけじめを付ける事にした。
お互い、もうすぐ三十歳になる。結婚して子供を作って。そんな恋愛をするならば、ここで別れてそれぞれが別の相手を探す時だった。
別れる瞬間まで続いて寂しさは、いざ別れたあとには不思議なほどあっさりと消え去った。それは、学校を卒業するのによく似ている。卒業式の日の感傷は、そう長くは続かない。
それでも、様々なことを最初からやり直すには気分転換が必要だった。
運転免許はもっていない。
だから、駅まで送迎に来てくれるペンションを選んだ。そばには湖があり、自然公園もある。一人でのんびりと過ごすには丁度良い場所だ。
ペンションのオーナーは40代ほどの夫婦で、何年か前に脱サラをしてペンション経営をはじめたらしい。そういえば、元の恋人もいつか脱サラして農業をやりたいとか、離島に住まいたいとか、そんな事を言っていた。私にはよく分からない感覚だ。きっとそんな感覚のずれがたまっていって、いつの間にか互いに魅力を感じなくなってしまっていたのだろう。それに気が付けたことは、むしろ幸運だったのだ。
現地でまず驚いたのは、観光客があまりいないことだった。
このあたりは冬場のスキー客が多いらしく、それ以外のシーズンは比較的すいているらしい。
もったいない、と素直に思う。
自然は豊かだし、都会からのアクセスも良好だ。
もっと沢山の人が訪れてもよいだろう。
そう思う反面で、客が少ないのは有難かった。人の目を気にしなくてすむのは気楽だし、リフトやレストランでいちいち待たされることもない。
一人である故に、すべての時間を自分の気分次第で過ごせるのは快適だ。
食事処を選ぶ時も相手の好みをきにしなくても良かったし、頼むメニューもだいたい同じくらいの値段にしようだとか、そんな気遣いをしなくていい。
ふと見えた神社にふらふらと参拝したって構わないし、ベンチに座って空を眺めて過ごしたって構わない。
心地よい。
そう思っていた私の気分を曇らせてくれたのは、ペンションのオーナーの言葉だった。
「宜しかったら今日の晩御飯は、別グループの方と同じテーブルで過ごされませんか?」
自然公園を見てまわってペンションに戻った時の事だった。
言われている意味が分からずに私は首を横に傾ける。
「ええと、……テーブルが空いていないということですか?」
「いえ、そうではないんですよ。今日はお客様ともう一組しか泊まっていないのでテーブルが十分空いています」
ますます訳が分からずに、オーナーの顔を見詰め返す。
「もう一組のお客様が東京からいらした男性三人組なんです。お歳も近いようですし、その方が楽しいんじゃないかと思いまして」
楽しい気持ちに水をさされた気分だった。
その方が楽しいとは一体どういう意味なのか。女の一人旅はつまらなそうに見えているならば心外だ。まして、男性客と過ごした方が楽しめるなんて、いったいどういう神経をしているのか。
私が黙り込むと、オーナーは困り顔になる。
まるで「折角、提案をしてあげたのに、何を迷っているんだろう」という表情だ。
「……静かに過ごしたいので」
本当は文句を言ってやりたい所だったが、無難な言葉しか出て来ない。
「そうでしたか? 男性客の皆さんは毎年うちで一泊されてから、山向こうの街の合コンに参加されるそうで、とても明るくて楽しい方々ですよ。気が変わったら遠慮なく言って下さいね」
オーナーは微塵も悪気などないという笑顔を向けてくる。
女は男のサポートがあってこそ人生を楽しめると、心からそう思っているようだった。
最早、返事さえ返すのも億劫で、「はぁ」とため息のように頷いた。部屋に向かって階段を登りながら、しばらくは悶々とした気分が抜けなかった。
ディナータイムは確かにつまらない時間だった。
だがそれは、一人きりだったからではなく、件の男性三人組があまりにも騒がしいからだった。
大衆居酒屋ならばまだ分かる。だが、わざわざ山の中のペンションに泊まりにきて大騒ぎする客を好ましいと思う人は少ないだろう。
私がもし女性の一人客じゃなかったら。彼らももう少し気を遣おうとしただろうか。そんな事を考えてしまうと、余計に空しい気持ちになってくる。
早々に食事を終えて部屋に戻ろうと階段を登ったところで、ふいに声をかけられた。
「あの、すいませんでした」
ふり返る男性客の中の一人が立っていた。
「真司のヤツ、うるさかったですよね。明日、半年ぶりに彼女に会えるからってはしゃいじゃって」
「え? 合コンに来たんじゃないんですか?」
思わず、素の声で聞き返すと、男はきょとんとした顔になる。
「え? 合コン?」
「ここのオーナーさんが、そう言ってたから」
私の言葉に、男は「あはは」と声をあげて笑う。
「誤解です。この山向こうあたりに天体観測基地があるんですよ。真司の彼女がそこに務めてて、会いに行くのに同行したんです。確かに職員の人たちと食事する約束はしたけど、男性職員もいるし、とてもじゃないけど合コンなんて感じじゃないですよ」
なるほど、と私は頷いた。
あのオーナーは女性だけでなく、男性に対しても何かと曲解をするらしい。
「天体観測基地って、この辺はそんなに星が見えるんですか?」
誤解がとけた事が伝わったのか、男は安堵した顔になる。
「このペンションのそばからでも綺麗に見えるらしいですよ。15分ほど歩いたところに星見の広場って言われてる場所があるらしくって。俺たちは後で見に行こうかって話してたんですけど、良かったら一緒にどうですか?」
私はしばし悩んだが、結局頷くことにした。
綺麗な星空が見られれば、夕ご飯のもやもやも相殺されることだろう。はじめての一人旅がつまらなかったなんて思いたくない。
「それじゃあ、8時くらいになったら行きましょう。準備が出来たら部屋をノックしますね」
男はにこやかに言うと、一階の食堂に戻っていった。
星見の広場に向かう道は、ペンション前の道路を少し進み、森へと入る小道を進んでいくらしい。
小道は予想よりはるかに暗かった。灯り一つない。ペンションで借りた懐中電灯がなかったら、とてもじゃないが歩いていくのは無理だろう。
なにせ、森と道の境目が分からないほどに暗いのだ。
ずっと都会に住んでいると夜の暗さを忘れてしまう。都会ならば、ほとんど街灯がない道でも、空自体がいつも明るさを保っており、何も見えないほど暗いなんてことはありえない。
だが目の前の小道は。
月や星の灯りも届かない。森に囲まれた細道は、漆黒の闇で満ちていた。
「うわ、これはちょっと怖いな」
先ほど声をかけてくれた人は、名前を太一というらしい。太一は真っ暗な道に向かって懐中電灯のあかりを向けながら、驚いた声をあげている。
「本当に暗いですね……」
灯りが闇にすいこまれていく。
そんな風に思えてくる。
懐中電灯はかなり光量のあるものだったが、それでも道の先に向けてみると、幾重にも降りる闇のベールにさえぎらる。
訪れたのが自分一人だったならば、この入口ですっかり怖気づいて逃げ帰っていただろう。
恐る恐る歩き出すと、道はすぐにアスファルトから砂利にかわり、道路沿いの街灯もあっという間に見えなくなる。
試しに森に向かってライトを向けても、ほとんど先が見渡せない。
本物の闇とはこんなにも暗いものなのか。それは恐怖という本能を呼び起こす。
砂利を踏む音だけが響いている。道路を時折走っていたトラックの走行音も森の中ではほとんど聞こえなくなっている。
この真っ暗闇の中を15分歩くなど、一人ならば気が狂ってしまいそうだ。
そう思いながら歩いてしばらく進めば道が二股に別れている場所に辿り着く。そこには木製の案内板がたっていた。
『←星見の広場 子泣き神社→』
書かれた文字に、ふと背筋が寒くなる。一体どんな神社かは分からないが、名前から察するに水子の霊でも祀っていそうで恐ろしい。
男性陣も同じようなことを思ったのだろうか。
しばしの沈黙がおりたあと、まるで見なかった事のようにして星見の広場に向かって歩き出す。
幸いにして、そこから5分ほど歩いたところでふいに視界が広がった。森の終わりは唐突で、そこには小さな広場にベンチがいくつか置かれている。
星灯りのお陰で、懐中電灯のあかりを消してもぼんやりと周囲が見えている。
「おおー、凄いな」
暗さに目が慣れれば、夜空の星々がゆっくりと浮かび上がってくる。確かに美しい星空だった。満天の夜空という言葉は、こんな空のためにあるのだろう。むしろ星が多すぎて見慣れた星座を探すのも一苦労になっている。
それぞれが別のベンチに腰を下ろし、しばしの間はただ星空を眺めていた。いっそこの場所で一晩過ごせたらどんなに気分がいいだろうか。そんな風に思えてくる。
「……そろそろ帰りましょうか」
太一が声をかけてきたのは、20分ほど経った頃のことだった。夏とはいえ夜は思いのほか涼しく、じっとしていれば首筋が冷えてくる。確かにそろそろペンションに戻った方が良さそうだ。
「そうですね」
私が頷いて立ち上がると、四人で連れだってもと来た道を歩き出す。
帰り道は往々にして行きよりも短く感じるものだ。
実際、神社への分かれ道に辿り着くまでには、ほとんど時間がかかっていないように感じたほどだ。このまま進めばもうじき国道に出るだろう。
行きよりも暗闇を歩くのにも慣れてきて、皆の足取りも軽やかだ。
「あれ?」
声をあげたのは真司だった。懐中電灯で照らし出された丸い明かりには木製の案内板がうつしだされる。
『←星見の広場 子泣き神社→』
それはつい先ほど、通り過ぎたはずの場所だった。
「おかしいな」
「きっと分かれ道がいくつかあったんだよ」
そんな風に話ながら歩き始める。ところがもう少し進んだところで、再び案内板が現れた。
これはおかしいのではなかろうか。皆、口には出さないが、込み上げる嫌な予感に空気が重くなっていく。
「地図アプリで見てみたらどうだ?」
そう言ってアプリをひらいてみたが、あいにくと電波は圏外だ。
「取りあえずもう少し進んでみよう」
きっと何かの間違いだ。そう思いながら先ほどより早足で歩き出す。けれどまたしばらくすれば、同じ案内板が現れる。
三度目ともなれば、気のせいだと思うのも難しい。案内板は文字が滲み、ひどく読みにくくなっている。それに一部の木が割れているのだ。
三度見た看板は、どれもまったく同じように文字が滲み欠けていた。そんな偶然があるだろうか。
「……逆走してみるか?」
「そんなこと、何の意味があるんだよ」
真司と太一が真剣に言い合う様子を見つめながら、ふと違和感に気が付いた。
「あの、……もう一人はどこにいったんですか?」
私の言葉に、二人は慌てて周囲を見回した。そうなのだ。先ほどから、一体いつからなのかは分からないが、もう一人いた男の姿が消えている。
「いついなくなった?」
「分からない」
「ったく、何やってんだよ、アイツ、……」
「お~~~~い、恭介~~~~ッ!!!!!!」
その時だった。真っ暗な森がまるで生きているかのようにざわめいた。
おおおおおうううういいい、きょうすけぇええええええ、と声があちこちからこだまする。木々の隙間に大勢の人が立っていて、いっせいに声をあげたかのようなざわめきだ。
「まずいまずい、なんか、まずいって、早く行こうッ!」
「でも恭介が」
「ペンションに戻ってオーナーに助けて貰った方がいい!」
ほとんど駆け足で進む真司を慌てて太一と二人で追いかける。
「待てって、おい、真司、そんなに急ぐなッ」
太一が声をかけても、真司の歩みは止まらない。小さく照らし出された懐中電灯の灯りから、やがて真司の姿が見えなくなる。そうして、しばらく進んでいけば、またあの案内板が現れた。
「どうしよう……」
恐ろしくて震えが止まらない。慣れない砂利道を一生懸命に歩いたせいで、足も疲労がたまっている。
「バラバラになるのはまずい。手を繋いだ方がいいと思うんだけど、いいかな」
「うん、私も、そうしてくれると嬉しい」
そっと手を伸ばして手を繋げば少しばかり安心する。
「もう少しだけ、歩いてみよう。次に案内板があったら、星見の広場に戻ってそこで一晩過そう」
「そうだね」
同意して頷くと、太一はゆっくり歩き出す。森は相変わらずざわついていた。時折、木々の擦れる音が響き、乾いた枝を踏み抜くようなパキパキとした音が聞こえてくる。
怖かった。
自分を取り囲むすべてのものが、恐ろしくて恐ろしくて仕方ない。
道を照らす懐中電灯の光量が、少しづつ確実に減っていく。
「ねぇ、太一くん。後ろから誰か来てる気がする。もしかして、太一くんのお友達じゃない?」
背後から足音が聞こえてくる。それに耐えきれず話かけたが、なぜか太一は黙ったまま一言も答えない。
ふと、私は気が付いた。
太一の手はもっと大きい筈だった。もっと逞しく、温かい掌の筈だった。
けれど今は、私の手を引いて歩いているその手は、骨と皮ばかりのように痩せこけて、体温などないかのように冷えている。
違う。
これは彼の手じゃない。
気が付いて振り払おうとすれば、ますますきつく握られた。細枝のような指のどこにそんな力があるのだろう。
恐ろしさに涙が滲みだす。
そうしてまた私は、再び案内板の場所へ戻ってくる。
『←星見の広場 子泣き神社→』
同じ文字。同じ看板。
懐中電灯のあかりはほとんど消えかかっていたけれど、その文字だけは暗闇で浮かびあがっているかのようで読み取れる。
「……分かった、分かったよ。行くから、神社に行けばいいんでしょ?」
本当はその場にしゃがみこんで泣きじゃくってしまいたかった。
でも、そうしたって帰れないことは分かっている。私の言葉に反応したのか、白く細い腕は神社への道へ向かって歩き出した。
もう懐中電灯のあかりはすっかり消えてしまっている。私の手を引く誰かについて歩いていくしかない。
森はざわめき、すすり泣く声が聞こえてくる。木々の合間で、誰かが押し殺した声で泣いている。
お腹が空いた。
寒いよ。
怖い、暗い。
周り中から、悲し気な子供の声が聞こえてくる。
やがて私は、壊れかけの社に辿り着いた。その場所も木々がなく開けているために、僅かな星灯りが届いている。
子供がいた。
たくさんの子供。
痩せ細った子供たちが社の周りに立っている。
いつの間にか手を引いていた誰かはいなかった。恐らく、並んでいる子供たちの誰かがここに導いてきたのだろう。
ぼろきれのような着物を来た子供たちは、うらめしげに私を見詰めながら、すすり泣く声をあげている。
とても小さな社だった。屋根は苔むして崩れ落ち、緑に埋もれかけている。
どうしよう。私はどうしたらいいのだろうか。
ふとその時、私はあることを思い出した。
薄手のパーカーのポケットには自然公園の売店で買ったお菓子がいくつか残っている。星見の広場で食べようと思って持ってきたのだが、星空に見入ってすっかり忘れていたものだ。
「ごめんね。これしかないの」
ポケットからお菓子を取り出して社の前に一つ一つ並べていく。
ごめんね、ごめんねと繰り返し、少しでも飢えが満たされればいいと、願いを籠めた。
すべてのお菓子を並べ終えると、膝をついて手をあわせて目を閉じる。
子供たちが集まってくる気配を感じながら、私はゆっくりと意識を失った。
次に目を覚ましたのはペンションのベッドの中だった。
オーナー曰く、なかなか帰って来なくて心配していたら、四人でふらふらと戻ってきて、一言も口をきかずに部屋に入っていったという。
「びっくりしたよ。みんなして懐中電灯もつけずに歩いてくるからさ。国道でトラックにはねられなくて良かったよ」
朝ご飯を食べながらそんな風に言われたが、まるで覚えていなかった。
オーナーに神社の事を訪ねてみれば、しばしは首を傾げていたが「ああ、そういえば」と思いだしたように語りはじめた。
かつてこのあたりはかなり貧しい土地だったために、飢饉の時などは沢山の子供が山に捨てられていたそうだ。
そんな事を繰り返しているうちに、山に入ると子供のすすり泣く声が聞こえるようになり、子泣き神社がたてられた。
「でもねぇ、あの神社は随分前に崩れ落ちてしまって、今じゃ社に行く道もすっかり分からなくなってる筈だよ。私たちがペンションを始めた十年前ですら、とっくに道はなくなっていたんだけどね」
そんな風に言ってオーナーは軽やかに笑ったが、私たちは誰も笑わなかった。
「ああでも、確かに数年に一度、あの森あたりで遭難者が出るって話は聞いたことがあるよ。私たちも消防団と一緒に何度か捜索に参加したことがあるけどね。やっぱり社は見当たらなかったなぁ」
そうですか、と、私は力なく頷いた。
だが確かに社はあの森の中にある。
小さな社。崩れ落ちた社のそばでは、今も子供たちがお腹をすかせて、ずっと彷徨い続けている。
美味しい朝ご飯に少しばかりの罪悪感が湧き上がる。それでも私に出来るのは、「どうか安らかに」と祈ることくらいのものなのだ。