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雨の夜には

 「ミワ、起きて。起きなさい」

 ふいに声をかけられて、身体をゆらゆさと揺すられる。
 ハっと目を覚ますと、母さんが覗き込んでいた。

 「起きたわね。出かけるからすぐに着替えて」

 絶対に寝直しちゃ駄目よ、と念を押してから母さんが足早に部屋から出ていく。
 私はしばし呆然としていたが、兎にも角にも着替えなければいけないらしいと立ち上がった。
 驚いて目を覚ましたせいで心臓が早鐘を打っている。時計を見れば、もうじき夜中の12時だ。
 こんな時間に起こされるなんて一体なにがあったのだろう。
 ミワはまだ小学3年生だ。小学生の間は、夜9時には寝なさいと言われている。それはクラスメイトの平均からして随分と早い時間だったが、親のいうことは絶対だ。
 だから、こんな時間に起きることは滅多にない。
 あるとすれば年に一度、大晦日の時だけだ。
 明日着る予定だった服はベッドのそばに出してある。それに急いで袖を通すと居間に向かって歩いていく。
 父さんも母さんもバタバタと慌ただしく動いていた。

 「充電器も持って。現金は降ろしてあったっけ? 他に足りないものはないかしら」
 「病院のそばにコンビニがあっただろ」
 「あったけど、なかなかに遠かったわよ。歩いて10分以上かかったじゃない」
 「その時は俺が行ってくるよ」

 二人の会話を聞きながら、ミワは所在なげにソファに座る。
 きっと多分。よくないことがあったんだろう。こんな夜中に出かけるなんて。それも行く先は病院らしい。
 と、なれば。何となく想像がついてきた。
 お爺ちゃんだ。
 お爺ちゃんは2ヶ月ほど前から遠くの病院に入院していて、最近はかなり具合が悪いらしい。
 だからこんな時間に出かけるのは、容態が悪化したからなのだろう。
 大人しくソファに座っていると、母さんはようやくミワがいることに気付いたらしい。

 「着替えたわね。念のために上着も持ってきて」
 「分かった」

 ゲーム機も持っていっていい?
 そう聞きたかったけれど、流石に聞くのをためらわれた。
 多分そういうのは、不謹慎だとか、そういう風にいうのだと思う。
 とはいえ、あまり長く待たされると父さんはスマートフォンのゲームを弄り始めることがあったりする。だから、その時には、母さんか父さん、どちらかのスマートフォンを貸して欲しいと強請ればいい。
 もっとも、この様子だと、聞き出せる雰囲気ではないかもしれないけれど。

 上着を持って居間に戻ると、父さんはすでに車を出しに駐車場へ向かっていた。
 母さんと一緒に玄関を出ると、家の前に見慣れた車が走ってくる。
 夜の空気だ。
 家から一歩出て、私は思わず立ち止まった。
 こんな時間に外に出るのは、大晦日の後に行く初詣の時くらいだったから、禁忌を犯しているようで怖気づく。
 真っ暗で、得体の知れない闇の時間。
 それが街をすっぽりと覆っている。
 
 「ほら、行くわよ」

 母さんに促されて、ミワは逃げるように車の中に駆け込んだ。



 お爺ちゃんの病院はかなり遠い。
 ミワは詳しいことは分からないけれど、都内の病院だとどうやらとても高いそうだ。
 だから、病院に行くまでは車で一時間以上もかかってしまう。
 父さんは落ち着かない様子で、赤信号で止められるたびにハンドルを指で叩いている。幸いにして時間が遅いせいか道は混んではいなかった。だが深夜でも走っている車はかなりいる。昼間よりもトラックの割合が多いだろうか。
 深夜に外に出ることのないミワにとっては、こんなに沢山起きている人がいることが。それも働いている人がいることが、何だかとても不思議だった。
 そうして、お爺ちゃんのいる病院に着くころにはぽつぽつと雨が降り始めた。
 「涙雨かな」だなんて父さんが言って、母さんが「縁起でもない」と眉をしかめる。
 病院の駐車場はがらがらだった。
 以前にも一度だけお見舞いに訪れたことがある。
 その時は正面ドアから入ったが、時間が遅いせいか今日は裏にある緊急出入り口から入っていく。
 一階ロビーはほとんど灯りが消えていて、ミワはその暗さに立ちすくんだ。光っているのは非常口の緑の灯りと、エレベーターホールにある灯りだけだ。
 真っ暗な広い空間に、ロビーの長椅子の輪郭がうっすら浮かびあがっている。人のいない待合所はその静かさが異様だった。誰もいない筈なのに、ざわめきの気配だけが残っている。音はないのに誰かがそこにいるような、そんな奇妙な感覚だ。
 エレベーターに乗り込んで4階に向かう。
 この病院はとても古い。母さんが言うには今から30年ほど前の、昭和に建てられたものらしい。
 多分、都会でも同じくらい古い病院はあるけれど、多くの病院は少しずつ改修してそれなりに近代的になっている。けれどこの病院は、ほとんど昔のままに違いない。
 どこもかしこもとても古い旅館みたいで、エレベーターも一台きりだ。そのエレベーターもベッドが一台ぎりぎり入るくらいの大きさで、動くと大きな音をたてながらどこか不安定に揺れている。
 4階につくと、そこはロビーよりは明るかった。廊下のところどころに灯りがついていたし、ナースステーションは煌々と明るさを放っている。
 それでも廊下の先は真っ暗で、暗闇に吸い込まれてしまいそうだ。
 母さんと父さんが看護師と話しをしている間、ミワは母さんの服の裾を掴んでいた。そうでないと、ふいに迷子になってしまうんじゃないだろうかと、不安になってしまうのだ。
 お爺ちゃんの病室は、廊下の端の個室だった。
 病室は明かりがともっており、お爺ちゃんはベッドの上でいくつもの機械に囲まれている。
 この間、お見舞いに来た時は点滴が一つだけだったが、今は呼吸器や心電図など、たくさんの機械がついていた。

 ああ、やっぱり、かなり具合が悪いんだ。

 母さんが枕元で呼びかけても、お爺ちゃんが動く気配はない。
 ただシューシューという呼吸音と、心電図の電子音が響いている。
 ミワはどうしていいか分からなくて、ベッドから少し離れた場所に立っていた。母さんは涙ぐんでいて、父さんがその肩を支えている。そこにミワの入る余地はない。
 何となく、視線を窓の外に向けてみる。
 お爺ちゃんの個室には大きな窓があり、その先は広いルーフになっていた。
 今は真夜中だからよく見えないが、以前に昼間来た時には洗濯物が干してあり、その先には遠くまで平野が広がっているのが見えていた。天気のいい日は富士山だって見えるらしい。
 窓の外は雨だった。
 病院の看板の明かりがあるせいか、ルーフもわずかに明るかった。
 窓に近づいてみれば、外は本降りの雨になっていて、雨音が強く響いている。

 「ミワ、お母さん達ちょっとロビーまで降りて電話してくるからここで待ってて」
 「え?」
 「誰かいないとお爺ちゃんも寂しいだろうから宜しくね」

 驚いてふり返ったが、母さんと父さんは足早に病室から出て行くところだった。
 待って、と言いかけて伸ばした手はむなしく宙を掻く。
 どうしよう。ミワはまたも途方にくれた。宜しくねと言われたって何をすればいいんだろう。
 仕方なくベッドのそばにあったパイプ椅子に腰をおろす。けれど、起きる気配のないお爺ちゃんに、話しかける言葉は見つからない。
 困ったなと思いながら、ふと時計を見て気が付いた。
 深夜二時だ。
 丑三つ時と呼ばれるその時間が、ミワは怖くて仕方ない。
 偶然、夜中に目を覚ました時。それが深夜二時だった時には、ベッドから出るのが怖かった。たとえどんなにトイレに行きたい時だって、その時間はどうしたって怖いのだ。
 そんな恐ろしい時間に、古い病院の個室に一人きりでいる。
 その事に気が付くと、足元から悪寒が這い上がってくるような、そんな恐怖に襲われた。

 駄目だ、怖い。こんなところに一人でなんていられない。

 椅子から立ち上がって病室からそっと顔を出す。
 先には暗い廊下が伸びていた。両親と一緒に廊下を歩いて来た時には、ナースステーションはもっとずっと近くにあった気がしたが、今はあの明るい場所に辿り着くなんてとても無理だと思えるほど、遠く遠くに見えてしまう。

 どうしよう、どうしよう。

 心臓が前よりも早くなる。何とかしなくちゃと思うけれど、ミワが出来ることなんてほとんどない。
 仕方ない。
 大人しく待っているしかないだろう。
 ベッドの横にあるパイプ椅子に戻ったけれど、やはりどうしたって落ち着かない。廊下も窓の外もあまりに暗く、ミワにとって未知の空間だ。ピッピッと響く心電図と、シューシューと音をたてる呼吸器が余計に不安をかきたてる。
 早く帰ってきて。
 そう思いながら、椅子の上で膝を抱えようとした時だった。

 誰かいる。

 ミワは窓の外の、その小さな人影に気が付いた。
 こんな時間にいったい何をしているのか。それに人影はミワとほとんど同じくらいの大きさだ。
 窓に近づいて、暗闇にじっと目を凝らす。
 それは女の子のようだった。
 傘もささずに、大雨の中をひたひたと裸足で歩いている。それに何故だか水着姿だった。
 途端に、ぞっと背筋が寒くなる。
 そう言えば、以前にお見舞いに来た時にお爺ちゃんが言っていた。

 「雨の日には女の子が窓から訪ねてくることがあるんだよ。ちょうぞミワちゃんと同じくらいの年頃だったかな」

 あの時は、「なにそれ、おかしいの」と思ったけれど、それ以上深くは考えなかった。
 でも今、こうして見てみると、それがいかに異様か分かってしまう。
 だってこんな真夜中に、それに雨が降っているのに、ルーフを歩いているなんてありえない。
 だとしたら、あれは何なのか。

 恐る恐る窓から離れて後ずさる。気付かれないように。気付かれないように。
 一歩、二歩とそろりそろりと下がったところで、踵がパイプ椅子を蹴とばした。
 ガタっと響く音は心臓を撃ち抜くかのようだった。
 息がとまる。
 窓越しの女の子が立ち止まる。
 女の子は軋むような動作で顔を向けると、ふいに窓に向かって両手を突き出しながら走ってきた。

 悲鳴はでない。
 音にならない詰まった呼吸音が、かすかに「ヒュ」っと喉から漏れる。
 尻もちをついて、そのまま四つん這いになって慌てて廊下に転がり出た。
 逃げなくちゃ。廊下が真っ暗なんて今は構っていられない。
 だが立ち上がろうとしたところで、足元が滑って派手にその場で転がった。
 濡れている。
 顔をあげれば、廊下はあちこちに大きな水たまりが出来ていた。まるで誰かがバケツで水をまいたようだ。

 ふり返ると、女の子は病室の中に立っていた。
 ぽたぽたと水を滴らせ、裸足で一歩ずつ歩いてくる。

 逃げなくちゃ。
 もつれる足をなんとか言い聞かせて立ち上がる。水濡れの廊下はひどく滑りやすくなっていた。
 数歩歩いて転びそうになり、あるいはバランスを失って手をついて、不格好に逃げていく。
 ナースステーションに辿り着いたが、そこには誰もいなかった。
 明かりはついているけれど、看護師は一人も見当たらない。

 なんで、どうして誰もいないんだろう。 
 お父さんとお母さんは一階のロビーに行くと言っていた。
 ここからエレベーターホールに行って、一階まで降りる。
 そんなの無理だ。無理なのにそれしか選べない。いや、いっそ、明るいこの場所で待っていた方がましだろうか。
 そう思った瞬間、ナースステーションが暗闇につつまれた。
 嘘でしょ? っと泣きたくなる。
 ぴちゃっと頬に水滴が落ちてきた。ぴちゃ、ぴちゃとあちこちで音が響いて、屋内なのにまるで雨みたいにたくさんの水滴がふってくる。
 逃げよう。逃げなくちゃ。逃げて、逃げて。
 自分に必死に言い聞かせる。
 歩いて。お願いだから。ヒックっと嗚咽に喉を鳴らしながら、再び廊下を歩きだす。
 エレベーターホールは遠くない。あと少し。あと少しだ。
 光る文字盤を頼りに辿り着き、降りるボタンを連打する。エレベーターは一階に降りているようだった。
 早く来て。お願いだから。すぐそばには階段があったけれど、そこはぽっかりと穴が空いたように真っ暗だ。とても一人でなんて降りられない。
 しゅるしゅるとエレベーターが上がってくる音がする。
 早く、早く。
 そうして、チンっと音がひびいてドアが開く。
 ミワはその時、さっと背後を振り返った。
 誰もいない。
 水で濡れた暗い廊下があるだけだ。
 その時また、頬に水滴が落ちてきた。
 顔をあげる。天井を見る。
 その瞬間に天井から、青白い顔の少女が笑いながら降ってきた。



 その後のことを、ミワは覚えていなかった。
 お母さんがいうには数日間は高熱を出して寝込んだらしい。
 お爺ちゃんはミワが寝ている間に亡くなったそうだ。葬儀までには熱が下がり、最後のお別れには参加した。

 大分後になってから、お母さんがあの病院で聞いたことを教えてくれた。
 あの辺りで、昔、プールの事故があったそうだ。
 そうしてあの病院に、被害者の女の子が運びこまれた。
 けれど運び込まれたその時点で、とっくに亡くなっていたらしい。

 それ以来、病院では廊下が水浸しになることが、時折起こっていたのだという。
 窓の外に女の子が来ていると話す患者が、今まで何人もいたそうだ。
 事故は有名なものだったが、その子が運ばれてきた病院だと知っている人はあまりいない。
 にもかかわらず、女の子を見かける患者が現れる。
 医者や看護師の間でも、時折、女の子を見てしまう人もいて、ひっそりとお札を貼っているそうだ。

 あの日から、ミワは雨の夜が怖くて仕方ない。
 だって未だに、あの子はミワを訪ねてくる。
 雨がしとしとと降る夜には、窓の外に女の子が現れる。
 雨に濡れて、びしょ濡れになって、ずっと窓の外に立っている。
 いつの日かあの子が、家の中まで入ってくることがないように。
 それを祈るしかできなかった。

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