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山頂の観覧席

■30代女性・会社員の証言

 あれは確か秋祭りの少し後の事だったんじゃないかしら。
 その日は仕事がはやく終わったので、駅についた頃にはまだ随分明るかったのを覚えています。まだ日の入りも遅い時期だったし、もうじき9月も終わるのに照りつける西日がとても眩しくて暑かった。
 いつもは帰るころには日が暮れているから日傘なんてものも持っていなくて。だから日差しから逃げるみたいに目を伏せて、足元ばかり見て歩いていました。
 それで、駅から出て国道を超えて。正直屋の先を行ってお稲荷さんを少し過ぎたあたり。あそこまで行くとちょうど山の影に入るから眩しくなくなるでしょう?
 だからようやく顔をあげて。それで、気づいたんです。
 何だあれ、って思いました。
 見慣れた山の上に突然大きな輪っかがあるんですもの。ええ、そうね。観覧車みたいに見えました。
 でもね、あんなところに観覧車なんてある訳ない。
 気味が悪いとは思いませんでした。なんででしょうかね。
 だってあまりにも当たり前の顔でそこにあったから、それが正しいように思えてしまって。
 私はしばらく観覧車を見つめて、そのまま家に帰りました。
 今考えてみると写真の一つでも撮っておけば良かったって思うんですけどね。
 でもあの時は、それほどおかしな事だとは思わなくて。
 あれって一体なんだったんでしょうかね。


■20代男性・大学生の証言

 高校生に入って、わりとすぐの事だったと思うよ。
 高校は隣駅にあるから自転車で通ってた。あそこまで坂道も少ないからそんな大変じゃなかったし。
 まぁ、よそ見して畑に突っ込んだことは何度かあったけど。
 季節はいつだったかな。はっきり覚えてないから、多分暑くも寒くもない時期だったと思う。
 いつも通りの時間に家を出て、堺さんちの横手のあぜ道を自転車をこいで進んでた。
 そしたら、ふいにぬぅっと後ろから何かの影が覆いかぶさってくるような気配がしたんだ。
 びっくりして振り返ったら山向こうにまあるい何かが見えた。
 何だったかはっきりは見なかった。
 だってあんなでっかいもんが山の上にある筈ないからさ。
 びっくりして、必死こいて逃げ出した。
 でも帰るころにはすっかり忘れてたっけな。


■30代女性・主婦の証言

 いつ頃からだったかしら。うちの子がようやくはいはいを始めたころだったと思うわ。
 本当はもっと前だったかもしれない。
 思い出してみると、抱っこしてた時も山の方をじっと見てたことがあったような気がするわ。
 でもはいはいをするようになって、ちょっとずつ意思の疎通が出来るようになって。
 それでね、なんか変だなって思うようになったの。
 あの子、山の方を見て指をさしたり、手を振ったりしていることがあってね。
 一体何が見えてるんだろうって不思議だったの。
 でもね、大したことじゃないって思ってたのよ。
 それなのにお義母さんが。
 うちの子、あの山に向かって手を振るんですよって話した瞬間に血相を変えちゃって。
 絶対にカーテンを閉じておけって言い出してね。
 えらい剣幕でまくしたてる癖に何が見えてるかは教えてくれなくって。
 あれ以来なんとなくお義母さんのことは苦手になっちゃった。
 せめて理由を教えてくれればいいのに。そう思うでしょ?

 



 思ったより集まるもんだな、とカナコは思った。
 カナコが住んでいるは山間の小さな町だ。商業施設よりも畑のが多いから村といった方がいいかもしれない。
 最寄りの駅は無人だったし、大型スーパーは二つ隣の駅まで行く必要がある。
 町の人口は2000人には届かない規模だろう。
 そんな限られた区域であったから、町中の多くが誰かの親族でつながっていたし、知人の知人の知人くらいまで枝葉をのばせば概ね網羅することが出来そうだ。
 だからカナコはこの不思議な観覧車の話を他の誰かから聞けると思わなかったのだ。
 何故って。
 この町では噂が広まるのがとても速い。
 そんな奇妙なものを見かけたら矢のような速度で町中に広まっているだろう。
 まるで噂になっていないから、カナコだけが見たものかと思っていた。
 いや、正確にはカナコの父も確かに見たことがある筈だ。それも詳しくは分からずじまいのままなのだけれども。




 カナコがそれを見たのは小学生の頃だった。
 学校から帰るといつものように縁側からランドセルを投げ込んだ。そのまま出かけようと踵を返した瞬間に、それが目に飛び込んできたのだ。
 山の上にある大きな円。
 観覧車だ、と反射的にそう思った。
 いつだったか家族でドライブに行ったときに遠くの山の狭間に大きな円が現れたのを覚えている。あの時のカナコもたいそう驚いて「あれはなんだ?」と問いかけた。
 「あれは観覧車だ」と父が教えてくれた。
 そして、ドライブの目的地がその観覧車のある遊園地だと聞いてカナコは飛び上がって喜んだ。
 だが実際、はじめて間近で見た観覧車は怖かった。
 巨大な鉄の固まりがそびえたっている様はとても異様だったのだ。見上げてみても観覧車の先端は逆光のせいか真っ黒で、倒れこんでくるのではないかと不安になる。
 その巨大な鉄の固まりがゆっくりゆっくり回っている。
 カナコは怖気づいていた。
 観覧車に乗るのも怖かった。だって観覧車は止まらない。ずっとぐるぐると回っている。その鉄の籠が通り過ぎてしまう前に慌てて乗り込まなくてはいけないのだ。
 まだ幼稚園児だったカナコは短い足を必死に動かし、なんとか籠に飛び込んだ。母さんと父さんはすでに乗り込んだ後だったから、カナコは涙目になっていた。乗り損なったら置いて行かれる。それは迷子になるのと同じくらい怖かったし、そうなったらこの巨大な建造物の下で一人きりで待っていることになる。
 籠に飛び乗ったカナコが思わず泣き出すと両親はとても驚いた。
 まさかそんなに怖かったなどと思いもよらなかったそうだ。
 カナコはしばらくめそめそとしていたが、籠の高度が上がっていくにつれ外の景色の虜になった。
 小さくなっていく地上の人たちはジオラマの人形のようだったし、山と山の間からはるか遠くに広がる大都市や、その先にはかすかに海まで見えた。
 結果的にはじめての観覧車体験は最高の思い出としてカナコの心に刻まれた。
 そんな事があったものだから、ふいに現れた観覧車を見たときも、カナコはまず喜んだ。
 うちの近所にも観覧車が出来たんだ!
 それならきっと観覧車だけでなく、メリーゴーランドやゴンドラなんかも出来たのではなかろうか。
 だがカナコもすぐに違和感に気が付いた。
 昨日までなかった観覧車が一日で出来上がるはずがない。
 ならばあれは何だろう。
 じいっと目を凝らしてみる。
 もしかして観覧車ではないのだろうか。
 でもあんな大きくて丸いものは観覧車以外にあるだろうか。
 なんだろうかとしばらく見つめていたが、やはり正体は分からない。両親に聞こうにも二人とも仕事に出かけているし、祖父母も畑に出ている時間だろう。
 結局カナコはその巨大な輪の正体が分からないまま、友達の家に遊びにいった。
 帰ってきた頃には大きな輪っかは綺麗さっぱり消えていた。
 あれは何だったんだろうか。カナコは夕飯の時に両親にそれを尋ねてみた。
 そうすると、父は笑いながら「ああ、あれは、***だよ」と答えた。それを聞いてカナコも「なぁんだ、***だったのか」と納得した。





 それが、カナコの幼いころの記憶だった。
 なんだか腑に落ちない話だった。なぜあの時のカナコは父から名前を聞いただけで、あっさり納得したのだろうか。
 それになぜ、その名前を覚えていないのか。
 不思議に思って父にもう一度訪ねたが、父はそんな会話をしたこと事態をまるで覚えていなかった。そもそも山の上の観覧車のことも初耳だと言っていた。
 これはどういうことだろうか。
 あの時に見た観覧車は夢の中でのことだったのか。
 子供の頃の出来事が夢の記憶と混同する。そういうことはたまにある。
 だからあれは一から十まで夢の話だったのか。それならばある意味で腑に落ちる。
 無理やりに納得しようとしていたカナコだったが、それは意外な形でひっくり返されることになる。
 まったくの偶然の出来事だった。
 家の近所を歩いていた時に小学生の男の子数人とすれ違った。

 「本当だってばー、見たんだって! お山の上にでっかい観覧車があってさー!」

 一人の男の子が必死で語るのに、周囲の少年たちが「そんな筈ない」と揶揄っている。
 男の子はなおも食い下がろうとするものの、実際、その時点で山には何もないのだから信憑性はゼロだった。話を受け入れて貰えない男の子はくやしさに顔を真っ赤に染めている。
 カナコは思わず立ち止まると、男の子に向かって声をかける。

 「お山の観覧車、君にも見えたの?」

 言ってから、あ、しまったと気が付いた。
 昔と違ってこの辺りもだいぶ家が増えてきた。新しく越してきた人も多くなっており、そんな新参者たちは子供に防犯ベルを持たせている。
 うっかり声をかけたことで不審者だと思われたら大変だ。つい先日も酒屋の配達をしていたおじさんがベルを鳴らされたと嘆いていた。
 しまったなと思ったが、それは杞憂だったようだ。
 カナコが女であることも幸いし、小学生たちは一瞬驚きはしたものの、すぐに話に食いついた。

 「お姉ちゃんも見たの?」
 「それっていつ?」
 「遊園地が出来るの?」

 矢継ぎ早の尋ねられ、逆にカナコが引いてしまう。

 「ええと、お姉ちゃんが子供のころに見たんだよ。君たちと同じくらいのころ。でもね、お姉ちゃんが見た時も次の日になったら消えちゃった。だから蜃気楼だったのかもしれないわ」

 そう答えると、子供たちは今度は蜃気楼とはどういうものかと聞いてくる。
 気象学など詳しくないカナコにはなかなか難しい質問だ。あたふたしつつ、スマートフォンでも調べたりしながら、なんとか頑張って返答する。
 その途中で見つけた巨大な人影のようなものが見えるという、ブロッケン現象も近いような気がしたが、それは太陽などの光が背後から差し込んでいることが条件のようだ。そうなると時間的にかみ合わない。カナコと男の子が観覧車を見た時間は、まだまだ陽が高い時だった。
 結局のところ、その小学生の話によって謎はさらに深まった。
 どうやらあれは自分だけが見た悪夢の類ではないらしい。それに現在も出現しているらしいことが分かったのだ。
 カナコはすっかり困惑した。
 もともと凝り性なところがあるためか、一度気になると他が手につかなくなってくる。
 それならばいっそ出来る限り調べてみるのはどうだろうか。カナコも今や社会人だが、現在はのめりこんでいる趣味もなく週末はもてあまし気味だった。
 そこでかつての同級生やご近所さんに声をかけ「山の上にある観覧車を見かけたことはないか?」と尋ねたのだ。彼らもある程度暇をもてあましていたのだろう。
 知合いの知合いや、親族の親族。そんな伝手を頼りながら、目撃証言を集めてくれた。
 それが冒頭に書き記したものである。
 集まった証言は他にもあったが「山田さんちのせがれがそんな事を言っていた」だとか「高坂さんのとこの嫁さんが見たらしい」というもので、いささか曖昧なものだった。
 本人から直接話が聞けたのが上述の三人だが、それ以外の曖昧なものも含めれば目撃証言はゆうに20を超えている。その数も町の住民すべてを網羅した訳ではなかったから、実際にはもっとある筈だ。
 調べればすっきりすると思っていた。
 けれど調べてみれば調べてみるほど「ではあれは一体なんなんだ?」という疑問がいっそう沸いてくる。
 事態を動かすことになったのは、町外に住んでいる叔母からかかってきた電話だった。





 「カナコちゃん、アンタまた山の上の観覧車のこと調べてるんだって?」

 電話の叔母の声は最初から不機嫌そうだった。もとより大して親しくもない相手だが、突然電話をかけてきてその態度はないだろうと言いたくなる。
 だがそれ以上に引っかかったことがある。

 「またってどういうこと?」

 カナコが問い返すと叔母さんは大きくため息を吐く。

 「やっぱり本当だったのね。うちのとこのパートの知合いから聞いたのよ。貴女ねぇ、前に調べた時に大変なことになったでしょ? 順平ちゃんも随分怖がってたのよ? それをまた掘り返すってのは周りもいい顔をしないんじゃないの?」

 順平は叔母の息子であり、カナコの元同級生だ。小学生の途中までは一緒だったが、隣町に引っ越してからはほとんど交流をしていない。

 「調べてるのは確かですけど、またってなんのことですか?」
 「何言ってるの? カナコちゃん、小学校の自由研究で調べてたでしょ? あの時はそりゃあもう大騒ぎになって、入院する子まで出ちゃったのよ?」

 まったく記憶にないことだ。
 ただ、叔母の口ぶりからは、まるでカナコに何か責任があるとでも言いたげだ。

 「あの、私本当に覚えがないんですけど」
 「そんな訳ないでしょ? ニュースにもなったのよ? ローカル版だけじゃなく全国版で放映されたのよ?」
 「まさか」

 カナコは笑った。
 そんな大事件が起こったならば忘れるなんてありえない。
 町の人たちだって過去にそんなことが起こっていたならば、カナコに対して観覧車の事は調べては駄目だと釘を刺したことだろう。
 だが叔母は頑として譲らなかった。
 確かにニュースになったと言い、観覧車のことはこれ以上調べるなと言ってきた。
 はいはい、とおざなりに返事をして電話を切ったが、ニュースになったというのは気にかかる。調べればすぐ分かるような嘘をつくのは杜撰すぎる。
 だがまさか、そんな事があるはずもない。
 そう思ってネットを検索したカナコは当時のニュースを見つけだして絶句した。

 『9月12日、11時20分ごろ、N県I市にある市立山中第三小学校から「小学3年生の児童複数名がけいれんを起こした」と119番通報があった。
 I市消防組合からの報告によると児童13名が体調不良を訴えており、うち6名は呼吸困難な状態だった。13名は市内病院に救急搬送された。現在は回復にむかっており命に別条はないとのこと。
 児童たちがいっせいにけいれんを起こした原因は分かっておらず、現在捜査中となっている』

 ニュースサイトのログから読み取れる情報はかなり簡潔なものだった。
 ただ、小学生が集団ヒステリーを起こした事件として、かなり騒がれたらしく個人ブログや大型掲示板などではさらに詳しい情報が寄せられている。

 『とある生徒が夏休みの自由研究を発表している途中にクラスメイトが次々に発狂した』
 『病院に搬送された生徒の中には、その後、転校していった者も複数人いる』
 『現場に到着した救急隊員は教室に踏み込んだ際、その異様な空気に気分が悪くなって倒れた者もいる』

 そんなオカルトめいた情報だった。
 どれもこれも何一つ覚えていなかった。こんな大事件があったならば、何年たっても誰かが口にしそうなものだったが、カナコの周囲ではこの事件の話をしている人はいなかった。気を使われてる訳ではないだろう。老人たちは無作法に近いほど明け透けだ。だが、カナコが観覧車について近所に尋ねて回っても、誰もその話をしなかった。
 カナコだけでなく、周囲の人たちもこの事件をすっかり忘れてしまっているようである。
 オカルトじみた情報の真偽は怪しいところだが、カナコにも一つだけ覚えがある。それが順平君だ。彼は確かに小学三年生の途中で引っ越し、別の小学校に転入した。
 引っ越すといっても隣町だったので、おかしな事をするものだなと当時も首をひねった覚えがある。
 隣町に引っ越したくらいでは順平君の両親の職場が近くなるというほどではなかったし、時折なんらかの事情で近隣に引っ越す生徒がいても、友達関係を失いたくないからと元の学校に通っている子が多かった。
 ネットの情報を調べてもらちが明かなそうだ。
 となれば、尋ねるべき相手は決まっている。
 カナコは順平に電話をした。付き合いは薄いものの親族ではあったから連絡先くらいは知っている。
 順平は突然電話をしたというのにあまり驚いていなかった。もしかして叔母さんから何か聞いていたのだろうか。
 当時の話を聞かせてほしい。
 カナコが頼むと、順平は少しだけ間をおいてから承諾した。





 順平と待ち合わせをしたのは二つ隣駅の喫茶店だった。
 知らないおじさんが来たみたい。
 久しぶりに会った順平を見て最初に感じたのはそれだった。その後、もしかして自分もおばさんになってきているのかと思ってゾッとする。

 「いきなり呼び出しちゃって悪かったわね」
 「いいよ。僕もあの時のことはずっと心に引っかかってた。この際だから話すのもありかなって思ったんだ」
 「それは良かった。じゃあ早速だけど小学三年生の時に何があったか教えてくれる?」
 「……カナコちゃん、本当に何も覚えてないの?」

 問いかけられたので頷くと、順平は眉間にしわを寄せる。

 「カナコちゃんもそうなんだね。あっちに残った人たちはみんな覚えてないんだ」
 「残ったっていうのは、順平君みたいに引っ越ししなかった子っていう意味?」
 「そうだよ。確か5年くらい前だったかな。校舎を取り壊すからって一時期だけ学校が解放されたことがあっただろ? あの時に学校を見に行って、偶然、同級生と会ったんだ。その後、飲み屋に行って話したんだけど、僕があの事件のことを口にしたらみんな首を傾げててさ。
 本当に、なにも覚えてないの?」
 「覚えてないわ。事件の記事を読んだけどフェイクニュースじゃないかって何度も確認しちゃったくらい。お母さんにも『私が小学生のころ事件があったの覚えてる?』って聞いてみたけど首を傾げてた」
 「そうか。……どこから話せばいいのかな。あの日は夏休みの自由研究を発表する日だった。一人一人発表するとかなり時間がかかるから何日かに分けて発表してて、あの時は2回目だったかな。カナコちゃんは山の上の観覧車に関して色んな人に聞いて回って、その結果を発表したんだ」

 それは今まさにやっている事と同じだった。まるで同じことをやっているのに、さっぱり覚えていないだなんてあり得るのだろうか。
 順平いわく、発表された内容はなかなか凝ったものだったという。
 目撃証言から地図と照らし合わせて観覧車が出現した場所を特定したり、カナコ自身が目撃した時の様子から実際のサイズを計測してみたりしたらしい。
 内容的に小学生のカナコの手には余りそうなので、恐らくは両親も協力してくれていたのだろう。

 「観覧車の大きさはおおよそ120メートル。ビルにして40階分くらいだって言ってたよ」
 「それは随分と大きいわね。でも遠くの山の中でもはっきり見えたんだからそんなものか」
 「うん、それで、カナコちゃんは他にも観覧車を見かけたことがある人に描いてもらった絵を張り出したんだ。画用紙に描かれた絵をつぎつぎに黒板に貼っていった」

 気が付くと順平はうつむいて小さく震えていた。

 「あれは、……あれは、観覧車なんかじゃなかった」
 「観覧車じゃなかった? じゃあ何だったの?」
 「あれは巨大な『眼』だった。山の上にある大きな目。そんな沢山の絵が黒板いっぱいに何枚も貼り付けられた」

 ふいに、カナコは思い出した。
 そうだ。あれは眼だ。
 ぎょろりと開いた巨大な眼。山の上のそれは、ずっと私たちを見つめてきた。

 「あの時のカナコちゃんは普通じゃなかった。全部の紙を貼り終えて振り返ったカナコちゃんは、そこに描かれていた眼と同じ眼をしてたんだ。がらんとした空洞のようで、それなのにじっと見つめてくる。まるでこの世のものじゃなかった。
 それで僕は気が付いたら悲鳴をあげていた。僕以外も何人もの子が泣き出した。でも、半数以上の子はにこにこ笑いながら黒板を見つめてたんだ。嬉しそうに手を振っている子までいた」

 そう、そうだ、思い出した。
 『まなこ様』と、父はそう教えてくれたのだ。
 『あれはまなこ様だよ』と。
 そして私も納得した。
 いつも私たちを見守ってくれる、尊い尊いまなこ様。
 
 私は笑いそうになった。
 かわいそうに。順平はまなこ様に怯えていたのか。
 あれは恐ろしいものじゃない。
 私は、私たちは、まなこ様にずっと愛されて過ごしてきた。

 ゆっくりと目を瞬かせ、じっと順平を見つめると、彼はなぜだかひどく狼狽した顔になる。
 おかしいなぁ。可哀そうになぁ。順平はずっと勘違いをしていたのだ。

 「順平くん、まなこ様は恐ろしいものじゃないんだよ。まなこ様は私たちの守り神なの。私たちはまなこ様に愛されてる。愛されているから許されているの。だから順平くんも受け入れて。愛されていることを受け入れないと、ずっと許されないままなんだよ」

 順平が大きく目を開く。その目を、もっと奥を、奥の奥の深淵を、まなこ様が覗き込む。
 ほら大丈夫、もう大丈夫。だから怖いことは忘れましょう。
 そうしているうちに順平くんの目もだんだんとがらんどうになって行く。
 ああ、良かったと私は思う。これで順平くんも許された。私たちはまなこ様になったのだ。





 あれから私は順平に進められ、まなこ様の本を書いている。
 みんなが幸せに愛されるためには、まなこ様のことをもっともっと知って貰う必要があるからだ。
 今度はもう忘れないようにしなくっちゃ。
 でもきっと大丈夫だ。かつての私は幼すぎて、周囲がおかしくなった重圧を耐えることができなかった。おかしくなるのは愛されるための下準備なのだけれど、あの頃の私にはそれが理解できなかった。
 だから記憶を消すことで、まなこ様が私を守ってくれたのだ。
 でも、そう。
 今度はきっと大丈夫だ。
 私は重圧に負けないし、順平も応援してくれる。どうやら彼は出版社に伝手があるらしい。
 家の中を探し回って、自由研究で使ったまなこ様の絵も見つけだしたから、これは表紙に使えそうだ。
 私は書く。
 私は祈る。
 みんなが幸せになれるように。
 みんなら許されますように。
 山の向こうの宇宙の目が、柔らかく微笑むのを祈るのだ。

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