カンカラアンギャ
「パパあのね、お外で聞こえる音が変なの」
6歳になる息子が彼の大事な相棒であるウサギのぬいぐるみを抱えて居間にやって来たのは、夜の9時過ぎのことだった。息子は30分も前にベッドに入った筈だったが、どうにも眠れなかったらしい。
「どんな風に変なんだ?」
尋ねると息子はもじもじと体を捩ってから、ゆっくりと言葉を探すように喋りはじめた。
「ええとね、火の用心の音がするの。でもすごく速いの」
「カンカンカンカンって聞こえるのかな?」
「違うの。あのね、え~とね、進むのがすごく速いの。さっきね、すごく遠くで聞こえたのに、次はとっても近かったの。その次は遠かった」
「なるほど。もの凄く速く走りながら叩いてるみたいなんだね」
私が問いかけると、息子は大きく頷いた。伝えたいことが上手く伝わったことが嬉しいのだろう。その頬は興奮で紅潮している。
「あれはなぁに?」
「あれは、……」
さて何と答えようか。
幸いにも、いや、不幸にもというべきか、私はその正体を知っている。だが、包み隠さず伝えるのは息子はまだ小さすぎたし、かと言って何も伝えなければ自尊心を傷つけることになるだろう。
「あれはカンカラアンギャだよ。とっても怖い妖怪でパパも子供の頃に会ったことがある」
「僕と同じくらい?」
「いや、もう少し大きかった。中学生の頃だよ」
「怖い妖怪なの?」
「そうだよ。だからこの話をすると眠れなくなってしまう。もう少し大きくなったら話すから、今日はもうベッドに戻りなさい」
息子は少しばかり不満そうだったが「とっても怖い」の言葉には怖気づいているようだ。
「わかった。もどる。電気はつけたままでいい?」
「いいよ。それと窓のカーテンはしめて。今日は絶対に外をみないで寝るんだよ」
とっても怖い妖怪だからね、と念を押すと息子は神妙な顔で頷いた。そうしてまた、ぬいぐるみを抱きかかえて戻っていった。
私はその後ろ姿を見守りながら、息子の鋭さに感心していた。
当時中学生だった頃の私は、今の息子の倍の年齢だったにもかかわらず、あの拍子木の音に何の疑問も抱かなかった。それが私たちの前に現れ、すべてが手遅れになる瞬間までまったく気付かなかったのだ。
あれはもう30年以上前のことだった。
30年前。
世間はバブル崩壊の少し後だったが、まだ人々の暮らしは比較的余裕があった。親たちの多くは都会でも自家用車を持っていたし、同じように子供たちにもバイクやスクーターを買い与える家が多かった。
衝動的で破滅的なロックバンドが大流行し、合唱コンクールで「十七歳の夜」を歌う学校も存在する。
少年漫画の週刊誌の半分ほどを不良漫画が占めていた。
つまりこれらが何を意味するかと言えば、私の中学時代はしっちゃかめっちゃかで学校の窓ガラスはたびたび破壊されていた。そうして中学で不良と言われた生徒たちは高校生にあがると暴走族に加わった。
街のあちこちに暴走族のロゴが書き込まれ、夜になれば若者達がバイクに乗って我が物顔で走りまわる。
先輩の家の車が燃やされただとか、どこどこ中学に殴りこみに行った奴が怪我で片目をなくしただとか、そんな噂もよく聞いた。
親たちはというと、子供たちをすっかり持て余していた。
あるいは彼らも学生運動をしていた世代であったから、子供たちの熱量を「青春とはそんなものだ」と見守っていたのかもしれない。
日々は喧騒に包まれて、少しずつ経済が悪い方へ落ちていく。
焦燥感と、淡い絶望感とに包まれて、真綿でしめつけられていくような。
そんな中でも私は不良には傾かず、かといって優等生ではない、いささか無気力な子供だった。反して2歳年上だった兄は反骨精神の塊で、中学時代から髪をブリーチで脱色し、高校に入るとバイトに明け暮れ中古のバイクを手に入れた。そうして毎日夜になれば国道に走りに出かけていた。
私と兄は性格も見た目も似ていなかったが、兄弟仲は良かったのだ。
だからあの晩。
高校受験のための勉強ですっかり疲れ切っていた私に、兄は「一緒に走りに行くか?」と聞いてきた。
私は大喜びでその提案に乗っかった。
実を言えば随分前からバイクには乗ってみたかった。たとえそれが後部座席で蝉のように兄の背中に引っ付いているだけだとしても、矮小な私にとっては大冒険だ。
両親に内緒で部屋を抜け出すのも興奮した。
あの夜の私は何かとてつもなく大きな力を手にいれた気持ちになっていた。
実際、バイクは最高だった。
走り出した瞬間にそのパワーに圧倒される。
最初は住宅地だったから、速度はほとんど出ていなかったことだろう。それでも、エンジンの唸り声は狂暴な獣を飼いならしているかのようだったし、体に直に吹き付ける風も暴力的だ。
私はすぐに理解した。
何故、皆がこれに夢中になっているのか、ほんの数分だけで悟ったのだ。
住宅街を抜け、国道へ向かう。そこには沢山のバイク乗りが集まっている筈だった。
けれどその晩は、なぜかほとんど人がいなかった。
ただ、国道の、彼らがいつも集まっている歩道橋の真下には、OBとして親しまれているハーレー乗りが渋い顔で待っていた。
「今日はやめとけ」
男は兄を見るなりそう言った。
「川の下の方でカンカラアンギャが出たらしい。だから今日はやめておけ」
私は意味が分からず兄の顔を見詰めたが、兄もさっぱり分からないという顔だった。男は「とにかくやめておけよ」と念を押すと、エンジンをふかして去っていった。
なんなんだ?
一体なんだ?
カンカラアンギャとは何者だ?
私の頭は疑問でいっぱいだったけれど、兄にあれこれ質問するのは恰好が悪いように思えて黙っていた。だってそれはきっと「畏れ」に見えるだろう。
兄も兄でどうして良いか悩んでいたが、そこですぐに取って返すのも癪に障ったのだろう。
そうしてしばらく二人で会話もないまま止まっていると、バイクに乗った兄の友人たちが現れた。
「どうした?」
「お、なんだソイツ、ちゃむの弟か?」
兄の名前はオサムだったが、友人たちからは「ちゃむ」の愛称で呼ばれていた。兄はそれを恥ずかしがっていたけれど、あだ名で呼ばれたことのない私にはとても贅沢な悩みだった。
「そうだよ。なんかさ、さっきまで酒井のおっさんがいて、カンカラなんとかが出るから今日は帰れって」
「なんだそれ?」
「妖怪だよ。ターボ婆ちゃんみたいなやつ。バイクで走ってる奴を見ると追いかけてくるんだって」
仲間の一人が答えを返すと、一同はどっと笑いだした。
「マジかよ。超怖いじゃん」
「佐藤はヤバいんじゃない? お前いつもドンケツだもんな」
「うるせー、んなババアに負けるかよ」
「ババアじゃないって。カンカラアンギャはなんかすげぇデカいんだよ」
あの時、もし妖怪の正体を知っているものがいなかったら。逆に彼らは大人しく帰っていたかもしれなかった。
得体の知れないものは恐ろしい。
けれど、正体が分かってしまうと恐怖感が損なわれる。
だから彼らは笑い飛ばした。
OBがわざわざ警告までしたというのに、何ともないものだと振る舞った。じんわりと背筋に這い寄る不安を感じてはいたけれど、それを言い出せば「臆病もの」と謗られる。
「行こうぜ。誰も走ってないならラッキーじゃん」
一人が笑いながら走り出し、皆がそれに従った。
エンジンを高らかに歌わせて、大声をあげて突き進む。バイクにまたがり風になる瞬間は、無敵になれるのだと信じていた。
川と並走する国道は、その晩は驚くほど空いていた。
普段ならば深夜でも長距離トラックが走っているが、今日に限ってはなぜかほとんど見当たらない。
当時は携帯電話はまだなかった。当然、スマートフォンもありはしない。かろうじて存在したのはポケットベルで、それは実に単純な、数字のみをおくることの出来るものだった。
タイマーのような小さな機械に数字の羅列が表示される。「11」ならば「あ」、「12」ならば「い」と読みよくものだ。そんな具合だったから、若者たちがリアルタイムで情報を共有できるものはほとんど存在しなかった。
だからあの国道の異様な様を見ても誰も理由は分からなかったし、誰かに尋ねることもできなかった。
不気味だとは感じながらも、ほとんど車のない国道は最高のレース場だ。
走っていたのは、私もくわえれば5人だった。
国道を走り始めてから、一気にスピードがあがったので私は兄にしがみついているだけでやっとだった。私も兄も、その友達も誰もヘルメットなんてつけなかった。それがどんなに危険なことかは分かっていたが、事故にあって死んだとしても本望のように思えたのだ。
最初に「音」が聞こえたのは、工業地帯に入ったあたりだった筈だ。
川沿いには町工場が並んでおり、それが住宅地から離れるにつれ大きな工場にかわっていく。そうなると、その近辺は夜にはほとんど人通りが絶えるのだ。
その上、道幅はとても広く、一区画も広いから信号の数も少なくなる。
カァンっと音が聞こえた時、私はとくに何も思わなかった。
拍子木のような音だとは思ったが、ただそれだけの事だった。
それから何度か、同じ感覚でカァン、カァンと音が聞こえた。火の用心の拍子木にしては少し早い。だが、所詮それだけの話なのだ。
工場沿いの河原では、夜は人気が少ないのをいいことにトランペットを練習している人もいた。誰も騒音に文句をつけないからだ。
だから、どこかの少しおかしな奴が拍子木を叩きに来ていても、まぁそんなものかと思ったのだ。
丁度そんな頃合いで目の前の信号が赤になった。
それまでの信号はいくつか無視してきたけれど、何故かその時は先頭を走っていた青年が停車した。だからみんなも、それに習って止まったのだ。
「どうした?」
兄が大声で尋ねると、先頭の青年は戸惑った表情でふり返る。
「音、さっきからおかしくないか?」
「音って、カァンカァンって音か? 何が変なんだ?」
「だって俺らは全力で走ってただろ? なのになんで音は離れていかないんだ?」
そこまで言われてようやく私は音の異常さに気が付いた。
カァン、カァンと音は未だに聞こえてくる。いや、音は徐々に近づいてくる。
「車に乗って叩いてる馬鹿がいるんだろ?」
「違う。……出たんだよ。本当に。カンカラアンギャが出たんだよ」
怯えた声を出したのは、最初に妖怪の存在を告げた青年だ。
「そんな訳あるかよ。きっとそろそろ見えるって」
皆が後ろにふり返った。そこには長く真っ直ぐに国道が伸びている。工場地帯のせいか街灯の間隔は住宅街より広かった。その僅かな灯りに走ってくるものが時折見える。
「あれって、車か?」
誰かが掠れた声で言う。
車じゃない、と囁きが漏れる。街灯の下を通りすぎる一瞬だけ、それの影が浮き上がる。それはとても大きかった。おそらくはトラックほどはあるだろう。
それが異様だったのは、全身が躍動するように見えたことだ。
まるで獣だったが、あんな大きな獣がこの世に存在する筈はない。
「まずい、まずいって、逃げよう!!」
カァンカァンカァンカァンと音はあっという間に迫ってくる。
慌てて一人がエンジンをかけ、皆が一斉に走り出す。
その時私は、体を捻って後ろをじっと見詰めていた。
音が迫る。
追いかけて来る。
そうしてソイツは交差点の光の中へ飛び出すと、最後尾だった青年にバイクもろともに食いついた。
カァンっと一際大きく音が響く。
それは巨大な歯を噛み合わせた時の音だった。
そいつはトラックほどに大きくて、姿は獅子舞に少し似ている。巨大なお面のような顔。そこにズラリと歯がならぶ。胴体は藁を被っているようで、隙間から獣の四つ足がみえている。
カンカンカンカン!
ソイツは歯を何度も打ち付けて、青年とバイクをもろともにかみ砕くとあたりに血しぶきが飛び散った。その動きもどこか獅子舞によく似ていて、ぐるりと舞いを踊るように頭を回し、巨体をゆらりとくねらせる。
「うわぁ」と間抜けな声が響いて、一人が恐怖のあまり転倒した。
バイクの側面が道路に擦れる。同時に脚がアスファルトでもって摩り下ろされ、絶望的な悲鳴とともに放り出され、背中から電柱にぶつかった。
「佐藤!!!!」
数人が声をあげてバイクを止める。
だが次の瞬間にはまだ動いていた佐藤の体に、化け物の歯が食い込んだ。
カァンっとまた音がして、胴体が真っ二つに噛み切られる。
まるで花火が散るように、鮮血が夜の闇に飛び散った。
「逃げろッ!!!!」
「逃げろ逃げろッ!!!!」
そこにあったのは恐怖だけだ。
バイクは最高速度で走りだしたが、すぐに化け物は追ってくる。
私を後ろに乗せている分だけ、兄のバイクは遅かった。カァンカァンと歯を鳴らし、それはますます迫ってくる。
もう駄目だ。
そう思った時、化け物は強く地を蹴ると巨体とは思えぬ身軽さで跳ね上がり、私たちの頭上を飛び越えた。
どすんっと目の前に巨体が舞い降りる。
獅子のような巨大な面。カァンと打ち付けられる金色の歯はいまはべったりと血で濡れている。ソイツはきっと笑っていた。歯を打ち鳴らし体を小刻みに震わせて、矮小な人間を笑っている。
兄はブレーキを押し込んだが、もう一人はさらに加速する。その正面で化け物はパカっと大きく口を開いて、バイクもろともに食らいつく。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんッ!」
私の歯も、化け物と同じくらいカチカチと音をたてている。兄はすっかり恐怖で釘付けになっていた。
逃げなればいけないのは分かっていても、絶望感で体が動かなくなっていく。
カンカラアンギャはガリガリと音を立て、青年とバイクを咀嚼する。口からは大量の血が溢れ出し、それはぼたぼたと道路に滴った。
もう駄目だ。
そう思った時だった。
カァンっと再び音が響く。目の前ではなく、もっと遠く。川を挟んだ対岸だ。
カァン、カァン、カァンっと音は断続し、速いスピードで対岸を一気に駆け抜ける。まさかもう一匹カンカラアンギャが現れたのか。
だが、私たちよりも顕著な驚きをみせたのは、目の前の化け物の方だった。
再び音が。対岸を素早く駆け抜ける。
カンカラアンギャはぬらりっと背伸びし、じっと耳を澄ましているかのようだった。
再び音が駆け抜ける。
さっきより速く。カンカンカンカンとまるで新幹線のようなスピードだ。
その瞬間、カンカラアンギャは「ぎゃあ」っとカラスのような声をあげると一目散に逃げ出した。
何が起こったのか分からない。
私も兄も呆然としたまま、やはりその場から動けない。悪い夢だったのではなかろうか。そんな風に思いたかったが、目の前に残る血痕はまだぬらぬらと光っていて、生々しく惨劇を物語る。
「だから言っただろう。今日はカンカラアンギャが出たからやめておけって」
どれくらい呆然としていただろうか。
声がしてふり返ると、そこには酒井さんと、他にも20名ほどがバイクに跨ってそこにいた。皆、酒井さんと同じくらい、40代くらいの男たちだ。よく見れば白バイにのった警察官も混ざっていたし、彼らは皆、腰に拍子木を下げている。
「なにが、あれは、いったい」
兄が震えた声で問うと、酒井さんはため息をはきながら首をふる。
「あれがカンカラアンギャだ。アイツはな、たまにやってきて自分より遅いやつを食い荒らす。恐ろしいやつだが弱点もある。アイツは自分より速い同族がいると慌てふためいて逃げ出すんだ。だからこうやって皆で拍子木を叩いて追いかえす」
「言ってくれれば! あんなに危ないなんて思わなかった!」
「じゃあ、なんだ? デカい化け物に食われるぞって言えば信じたのか?」
その言葉に、兄は俯いて黙り込む。
「もう帰れ。ここは俺たちが何とかする。今日は不幸な事故があったんだ。お前たちは何も見ていない」
酒井さんを筆頭に、大人たちが動き出す。私たちはしばらくは呆然と彼らの背中を見詰めていた。
そうして結局、ただただ無力感だけを味わって、とぼとぼと帰路についたのだ。
あの頃、私たちはただただ無力な子供だった。
目の前の脅威に怯えることしか出来なかったし、仲間を助けることも出来なかった。
だが今は。
あれから30年がたった今、私はただの無力な子供ではなくなった。
『カンカラアンギャが出た。スタート22時。点呼開始』
SNSのグループアドレスに文字を打ち込んで少し待つ。
『重里、7番、22時了解』
『筒井、12番、22K』
『3番、OK』
『酒井、15番、時間了解』
次々とかえってくるメッセージを見詰めながら、私は拍子木を用意する。
今は便利な時代になったものだ。
こうしてSNSで声をかけあい、すぐに準備をはじめられる。わざわざ川沿いに出て行かなくとも、お互いの姿が見えずとも、意思の疎通が可能になった。
『4番、8番が欠席。欠番を飛ばしてまずは3往復』
私は家の外に出ると、近所の公園まで歩いていく。
公園の時計は22時だ。
カァンっと遠くで音が響き、それは連続で街を駆け抜けるよう鳴り響く。
私も拍子木を打ち鳴らす。
カンカラアンギャは未だにこの街にやってくる。
だが私たちもそれを素早く迎え撃つ。
やがて息子が大きくなったら、この役目を伝えることになるだろう。