
白樺荘220号室
「うわ、めちゃくちゃ古いじゃん、ここ」
サチコが文句を言うのも頷ける。
中学校の宿泊学習で訪れたホテルは築40年以上は経っているであろう薄汚れた建物で、リフォームに力を入れるつもりもないらしい。カーペットは薄汚れ、壁や天井もくすんだ色になっている。
元よりこのホテルはスキーを格安で楽しみたい人たち向けのものだった。「格安」を看板にしているだけに、設備は最低限になっている。
部屋は雑魚寝で泊まる大部屋と、他には六人部屋と二人部屋があるものの、どの部屋にもトイレや風呂はついていない。
トイレは各階の廊下にあり、風呂は一階にある大浴場を男女で定められた時間に使う。
そんなホテルでもスキーシーズンには連日満室になるらしい。
とはいえ、それは冬に限った話で、夏ともなれば閑古鳥がないている。そんな訳で夏の間は、地域の学校の宿泊学習に使われるようになったのだ。
「ほら、さっさと中に入れ。各自、部屋に行って荷物を置いたら出発するぞ」
ホテル入口で立ち止まった生徒たちを先生が大声で急きたてる。
テンション下がるな、と私はため息を吐き出した。
中学生の学校の行事に期待するなんて間違っているかもしれないが、都会の学校に通っている従兄弟はディズニーランドや水族館に行ったのだと聞いている。
それに引き換え私たちは、山奥の薄汚れたホテルに泊まって蕎麦作りやら山登りをする事になる。どうしたって気分が上がらない。せめてホテルがもう少し洒落た造りであったならば良かったが、そんな希望も打ち砕かれたところだった。
重い足取りで栞にかかれた部屋に向かう。
私が泊まる部屋は220号室で、角部屋なのがせめてもの救いかもしれない。
そんな事を思いながら歩いていくと、何故か部屋の前で同部屋のクラスメイト達が揉めていた。
「どうしたの?」
声をかけると、ミオが涙目でふり返る。ミオはクラスの中で一番背が低い子で、未だに小学生に間違えられることがある。とても幼い外見だ。
「だってここ、呪いの部屋だよ?」
「何それ?」
私は同部屋の仲間たちの顔を見回した。
彼女らは皆、一様に不安そうに眉を寄せている。
「白樺荘の二階の角部屋って出るって有名なんだよ」
「そうなの?」
「そうだよ。うちのお姉ちゃんの合宿の時にも出たって聞いたし、三組のユキコちゃんのお兄ちゃんの時も行方不明になった生徒がいたって」
そんな話は初耳だったが、噂話に興味がない私はもしかしたら左から右に聞き流していたのかもしれなかった。
「どうしても嫌だったら後で先生に相談しなよ。取りあえず荷物置いて集合しないと怒られるよ?」
私の言葉に、同部屋の仲間たちは渋々頷くと、おっかなびっくり部屋の中へ入っていく。
なんて事もない部屋だった。
十畳ほどの畳部屋で、風呂もトイレもないせいでやたらシンプルに出来ている。窓の外には豊かな自然がパノラマになっているものの、田舎育ちの私たちにとってはただの見慣れた光景だ。
むしろ怪談話くらいあった方が、少しは楽しめるんじゃなかろうか。
そんな風にさえ思えるほど、そこは退屈な場所だった。
その日の体験学習は蕎麦打ちだった。
てっきり退屈かと思ったが、これが案外と面白かったし、自分達で作った蕎麦はいつも食べているものよりも、数段美味しく感じられた。
宿舎に戻っての夕食は、案の定、給食と代り映えしないものだったが、ここに来た当初よりはましな気分だった。
そんなこんなで私は機嫌を取り戻していたものの、同部屋のクラスメイトたちは相変わらず暗い顔だった。
どうやら担任に直談判をしたようだが、あっさり却下されたらしい。
中学生にもなって怪談話が怖いのか? とまともに取り合ってさえ貰えなかったようだ。
「それで、その呪いってどんなものなの?」
大浴場での風呂を済ませ、部屋に戻ればあとは布団を敷いて寝るだけだ。
布団も自分達で用意する。押入から敷布団やらシーツやらを取り出して、皆でばたばた支度をする。夏といえど山の夜はぐっと温度が低くなるので薄手の掛け布団が丁度いい。
支度を終えて布団に入ると、私はミオに問いかけた。
「えー、今、話すの? それってヤバくない?」
「なんで?」
「だってほら、怖い話すると寄って来るっていうし」
「そうなの?」
私が肩をすくめるとミオは困り顔になる。
「あー、それ私も気になる。なんかヤバいって事しか知らないんだよね」
同部屋のサチコが話に加わり、他の生徒たちも寄ってくる。
結局のところ、ミオ以外は呪いについて詳しくは知らないようだった。
「分かったよ。話すって。でも、夜中にトイレ行きたくなったらみんなの事、起こすからね?」
ミオは断りを入れてから、布団の中にすっぽりと入り込んで話はじめた。
「あのね、昔、大学生のグループがスキーをしに来てこの部屋に泊まったんだって。グループの人たちはみんなスキーは大して上手くなくて、ほとんど初心者だったの。それで、みんなで滑っている間に女の人が一人、行方不明になっちゃったんだって。
みんなで一生懸命探したけど見つからなくて、どのうちどんどん天気が悪くなって、いつの間にか吹雪になっちゃって。
仕方なくホテルに戻って助けを求めたけど、捜索隊も吹雪が止むまでは出せないって言われちゃって。心配で仕方なかったけど、外はひどい天気だったから、みんな部屋に戻って休むことにしたの。
それでね、もし、行方不明の子が戻って来た時のために、その子の分の布団も敷いて寝たんだって。
そうしたら夜中にその子が戻ってきたの。
みんな大喜びで、『心配したんだぞ』『どうやって戻って来たんだ』って話し掛けたんだけど、その子は『寒い、寒い』としか言わなくて、それで布団に入って眠っちゃったの。
でもね翌朝起きたら、その子の布団はからっぽなの。布団は冷たくて、ぐっしょりと濡れてて。
慌ててホテルの受付に行ったら、すごくがやがやしてて。『何があったんですか?』って聞いたら行方不明の子が見つかったっていうの。
グループの人たちは大喜びした。
でもね、見つかったのはカチカチに固まった死体だったんだって。発見されたのもホテルからも離れた場所で、だからね、その子が夜中に戻って来る筈はないんだって」
ミオはそこまで話すと、まるで彼女自身が寒くてたまらないかのように、ぶるりっと身体を震わせた。
「それ以来ね、この220号室には夜中に知らない女の人が『寒い、寒い』って言いながら入ってくることがあるんだって」
しーんと皆が黙り込む。
いつもなら笑い飛ばしてしまうような話だった。
けれど、合宿の夜は特別だ。不思議な興奮と緊張感に満ちていて、普段では起きない何かが起こりそうな予感がする。
皆が黙ったまま、呼吸の音さえ潜めていた時だった。
「おいこら! まだ起きてるのか!?」
勢いよくドアが開かれて、担任の教師が顔を出す。
誰かが思わず悲鳴をあげて、釣られて皆で悲鳴をあげたものだから、部屋はまるで蜂の巣をつついたかのような有様だ。
「こら! おい、静かにしろ! もう寝てる生徒もいるんだぞ!?」
担任に呆れ顔で諫められ、ようやく部屋は静かになる。
「まったく。……ちゃんと歯は磨いたか? また10分後に見に来るから、その時に電気が消えてなかったら親に言いつけるぞ」
ぶつくさと文句を言いながら担任の先生が去っていく。
ついさっきまであれほど緊張していたのに、その糸が解れると途端に何故だかおかしくなる。
「ちょっとサチコ、叫びすぎ」
「アサコだって凄い声だったし」
今度は皆で笑い出し、部屋はたちまちに騒がしさを取り戻す。
何とか笑いを落ち着けて、歯を磨いて布団に潜り込んだのはきっと10分をゆうに越していた。けれど担任の先生は、きっともう業務時間外だと言うことにしたのだろう。
廊下の先。食堂の方からは、大人たちが酒を飲んで騒いでいる声がする。
「良かった、バレてないね」
私たちはお互いの顔を見つめ合い、足音を忍ばせ部屋に戻ると布団の中へ潜り込む。
ひそひそ、ひそひそとしばらくは誰かの話し声が聞こえたが、それもやがて小さくなり、そして静寂が訪れた。
「ねぇ、……ねぇ起きてよ」
身体を揺すられ、薄目を開く。真っ暗な部屋の中で、ぼんやりとした人影がじっと覗き込んでいた。
「……ミオ?」
暗いせいで顔がはっきりと分からない。だが声はミオのものだった。
「うん。良かった、起きてくれて。サチコ起こそうとしたけど、全然起きなくて。ねぇ、あのね、わたし……」
「はいはい、トイレでしょ?」
「うん」
ミオは恥ずかしそうに俯いた。
「あのね、一人で行こうと思ったんだよ。でも、ドア開けてみたら、廊下が全然灯りついてなくて、それで……」
「いいよ、さっさと行こう」
もぞもぞと布団から這い出すと、思ったよりずっと外気は冷えている。
寝ている子達を踏まないように廊下に出ると、ミオのいう通りそこはかなり暗かった。廊下の外れにある非常灯の緑のランプと、御手洗から漏れている光があるだけだ。これは確かに一人で行くにはかなり勇気がいるだろう。
「行こう。身体が冷えちゃいそう」
山の中といえど、こんなに冷えるものだろうか。
寒気が這い上がる腕を擦りながら、ミオと廊下を歩いていく。御手洗のドアを明ければ、蛍光灯の周囲でぐるぐると蛾が飛んでいた。サンダルに履き替え用を足す。ジーっと微かに蛍光灯が音を立てているのが、やけに大きく聞こえている。
ミオも慌てて用を足して出てくると、二人して寒さに震えながら220号室へ戻っていく。
「……あれ? 一人多くない?」
部屋に戻って、私は首を傾けた。
布団が足りない。
この部屋は六人部屋で、つまり布団が六つ敷いてある。私とミオが出掛けたのだから、布団は二つ空いている筈だったが、何故だか一つしかあいていない。こんもりと盛り上がった布団が五つある。
どうやら誰かがミオの布団を使ってしまっているようだった。
きっと私たちのように御手洗で目を覚まし、戻って来る時に部屋を間違えたのだろう。わざわざ起こして一人ずつ確かめるのは気が引ける。
「……ねぇ、一緒の布団で寝てもいい?」
弱りきった声でミオに問われて、私は快く頷いた。
「いいよ」
ミオは身体が小さいから、二人で寝てもはみだす事はないだろう。案の定、小さなミオはすっぽりと私の腕の中におさまって、丁度良い湯たんぽ代わりになっている。
二人分の体温は温かい。その温かさですぐに眠気が訪れる。
何か変だな。
そう思いながらも私の思考は鈍くなり、そうして再び夢の世界へと沈み込んだ。
翌日は朝から登山だった。
皆が早い時間から起こされて、眠気眼で朝ご飯を食べている。
朝起きると、ミオの布団は空だった。もしかして、私たちより早い時間に目を覚まし、慌てて自分の部屋に戻ったのかもしれないが、何となく薄気味悪さが後を引く。
念のため、隣室の生徒たちに部屋を間違えなかったと聞いてみたが、皆、首を傾げるだけだった。
だったらあそこで寝ていたのは誰なのか。
ミオも同じことを考えているのか、いつもより顔色が悪かった。
「……大丈夫? 具合悪そうだけど、先生に言って登山休んだら?」
「そうしたいけど、……でも、休んだらあの部屋で一人で待ってることになるし」
「直前で言えば、バスで待たせて貰えるんじゃない?」
そうだね、考えてみるとミオは小さく頷いた。
「ねぇ、昨日、声聞こえなかった?」
「声? 声って誰の?」
恐る恐る尋ねてくるミオに私はそのまま問い返す。
「私の布団で寝てた人、……ずっと、寒い寒いって、言ってたの」
「聞こえなかった、けど」
もしかしてミオは私を驚かそうとしているのか。そんな風に思ったけれど、冗談をいうにはあまりにも顔色が悪すぎる。本当に声がしたならば、あまりにも不気味な話だった。
「とにかく、今日泊まったら明日はもう帰れるんだしさ」
「そうだね」
ミオは力なく頷いた。
山道はうっすら霧が立ち込めており、皆が黙って歩いていた。
前を歩く人のリュックサックをじっと見詰め、ひたすら足を動かすだけ。景色は代り映えなく薄い乳白色に覆われて、空気もじっとりと冷えている。
ミオはぎりぎりまでバスに残るか悩んでいたが、結局は着いて来ることにしたらしい。
山々を見渡す展望や、珍しい高山植物もほとんど見られない山登りは、まるで軍事訓練のようだった。
ようやくホテルに戻った頃には、霧のせいで全身がしっとりと濡れていた。慌ただしく交代で風呂に入って夕食をとる。その頃には外はすっかり本降りの雨になっていた。
まだ生徒の多くは食堂に残ってお喋りを楽しんでいるようだった。けれども私はあまり騒ぐ気にもなれなくて、早々の部屋に戻ってきた。
本当はこの部屋だって好き好んで居たい場所ではないけれど、他にないのだから仕方ない。
「キャンプファイアー中止だってさ」
「まぁそうだろうね」
暗くなった外をぼんやりと眺めていると、部屋に入って来たサチコが拗ねた口調で告げてきた。
窓にはぱらぱらと雨のあたる音が響いている。
キャンプファイヤーをそこまで楽しみにしていた訳ではなかったけれど、中止になることで気が滅入るのも事実だった。いいことがない。そういう時間が積み重なると、何故だか自分の心がけが悪いように思えてくる。
「ねぇ、今日の山登りさ、なんか変じゃなかった?」
「変って?」
「なんていうか、誰か知らない人が一緒に歩いてた気がしたんだよね」
何それ、と私が返すと、同部屋の他の子たちも「私もそんな気がした」と会話の中に入ってくる。
「なんかおかしかったよね」
「最初は先生かなって思ったんだけど、でも知らない人だったし」
「すぐそばに歩いてるなって思ってもいつの間にかいなくなってて、でもまた気付くとそばにいて」
言われてみれば、そんな事もあったような気がしてきた。
山を歩いている時に「あれ? この人って誰だっけ」と何度か不思議に思ったのだ。
だが大して気にもとめなかった。たまたま同じ道を選んだ他の登山者だとか、そんな風に思ったのだ。
「別に、そんなにおかしい事でもなくない?」
「そうなんだけど、なんか変だったんだよ。だって休憩中は木の間にじっと立ってたりしてたし」
「前を歩いてるなって思ってたのに、いつの間にか後ろにいた事もあったよ。一本道だから追い抜いたら分かる筈なのに」
「私は、先生かなって思って顔を確かめようとしたけど、何でだか顔が見えなかったんだよね」
「それは確かに変かも」
なんだか嫌だなと思いながらも、そろそろ就寝の時間だった。
昨日のことがあったせいで、寝るのも気乗りしないけれど、今晩を乗り越えれば明日は家に帰れるのだ。後は寝るだけ。そう思えば昨日よりはましに思えてくる。
ミオは相変わらずどこか具合が悪そうで、口数も少ないままだった。
布団に入ると、登山ですっかり疲れていたせいか、すぐにでも眠気が押し寄せる。
重い瞼に逆らわず、私は意識を投げ出した。
身体を揺すられ、薄目を開く。真っ暗な部屋の中で、ぼんやりとした人影がじっと覗き込んでいた。
「……ミオ?」
尋ねると人影は小さく頷いた。
「どうしたの? またトイレ?」
「……――寒いの」
くぐもった声がそう答える。
私はとにかく眠かった。慣れない登山で疲労がたまって、あちこちがだるくて仕方ない。
「分かった、じゃあ入りなよ」
人影は頷くと布団の中へ入ってくる。
それは驚くほどに冷たかった。夢に落ちかけた意識が冷たさにじわりじわりと侵されて、少しずつ目が覚めていく。
どうしてこんなにミオの身体は冷たいのか。
まるで氷だ。
布団の中が冷凍庫になったかのように冷えていく。
ぶるりっと身体を震わせる。それでも私はなんとかして、眠気に齧りついて目を閉じる。眠いのだ。とにかく眠い。眠りたい。
大丈夫だ。しばらくこうやって我慢していればきっとミオの身体も温まる。
だから平気だ。
手を伸ばしてミオの身体を抱きしめる。
そこで私はふと違和感に気が付いた。
髪が長い。
ミオの髪は肩につくかつかないか、それくらいの長さだった筈だった。
だが布団の中にいる冷え切った身体は髪が腰に届くほどに長いのだ。
「寒い……」
冷えた身体がぎゅうっとしがみついて来る。肌に爪が食い込むくらいにすがりつき、小刻みに震えながら「寒い、寒い」と繰り返す。
眠気はすっかり醒めていた。
これは違う。ミオじゃない。
じゃあ一体、これは誰なのか。
知らない誰かが同じ布団に入っている。
凍える身体と長い髪。
知らない、知らない。
同部屋の誰もこんなに髪は長くない。
「寒い、ねぇ、寒いの、さむい、さむい」
それはゆっくり布団の中から顔を出す。長い髪がしゅるしゅると私の身体に絡みつく。
「たすけて、寒いよ」
それは私の上に覆いかぶさり、じっと顔を覗き込む。
見開かれた目は白濁し、睫毛は霜がついている。肌は白よりもいっそ青に近いほどにまるで生彩を失って、ひび割れた唇はただひたすらに「寒い、寒い」と繰り返す。
「寒い、寒い、寒い……」
凍えた息が顔に触れて、そうして私は恐怖で意識を失った。
結局あれは一体なんだったのだろうか。
私と、同室の生徒たちは翌朝みなで風邪を引いた。高熱に魘されながらも、なんとかバスに乗り込んで、そこから数日は何があったのか分からない。
ただひたすらに寒かった。
でも多分、それだけで済んだのはきっと幸運だったのだ。
あとで聞いた話では、ミオの布団にも見知らぬ誰かが入り込んできたそうだ。他の子達は、あまりの寒さに震えながらも、何故だか身体が動かずに朝までずっと震えていた。
でもそれだけ。
それで終わり。
先生たちは、あの日の登山で身体が冷えてしまったから、生徒たちが風邪をひいたのだと言っていた。
あの晩の恐ろしい思い出は、少しずつ薄れていくのだろう。
だけれども、あのホテルは今もそこにある。
だからきっとあの部屋も、変わらずにずっとそこにあるのだろう。