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キ域_06

 里穂子は幾度目かになる大きなため息を吐き出した。
 数日前から姉の佑衣子が電話に出ない。
 幾度かけても呼び出し音がなるばかりで出ないのだ。SNSなども試したがそちらもいっさい反応がない。
 仕方なく佑衣子の旦那である和彦にもかけてみたがやはり応答しなかった。
 一体なにがあったのだろう。

 つい最近、姉の家の近所では不幸な事件が発生した。
 夫婦が一家心中、8歳の息子が行方不明になったというものだ。
 引っ越し直後の慣れない環境に近所で起こった殺人事件。
 一週間前に新居を訪ねていった時、姉は随分と疲れてていた。
 それだけじゃない。
 何故かペットのジローがやけに神経質になって吠えるようになったという。
 里穂子が尋ねたのは、このジローを一時的に預かるためだ。
 実際に家を訪れてみて、里穂子はその何とも言えない異様さにたじろいだ。
 うまく説明するのは難しい。ただ、その家には、いや、その一帯には忌避感を覚えるなにかがあったのだ。

 里穂子は子供の頃から奇妙なものが見えていた。
 例えば横断歩道の途中で立ち尽くしているぼやけた女。
 それは遠くから見れば不自然なく「人」なのだが、近づいていくと焦点があわないことに気付くのだ。
 顔が見えない。
 ぼんやりとした存在感はあるけれど、細部にいたっては曖昧だ。
 不思議と誰もその女にぶつかる事はないのだが、横断歩道の途中で立ち尽くすその奇妙な存在をあえて気にかけることもない。
 いや、時々、不思議そうな表情を見せる人はいるけれど、首を傾げるようにして去っていく。

 あるいは、居酒屋の裏通りに佇む俯いたサラリーマン。
 夕暮れ時の商店街でふらふらと歩いている中年女性。
 どこにでもある風景に馴染んでいる彼らは、焦点をあわせようとするとぼやけてしまう。

 それが幽霊と言われるものなのだと何となく分かっていたけれど、特別なことには思えなかった。
 恐らく、それが見えている人は多いのだ。
 ただ、それが幽霊だと気付かず通り過ぎる。あるいは、見つけてもすぐに忘れてしまう。
 まるで壁の染みのような存在だ。
 実際彼らは街の染みのようなものなのだろう。
 そこに染み付いた誰かの記憶。時折それは誰かに認識されることによって濃くなってしまう事もあるけれど、たいていは数年もしないうちに消えていく。

 けれど、あの土地は違っていた。
 姉の家は、駅からバスに乗って15分ほどの距離にある。里穂子は免許を持っていたが車は家族で共有だ。その日はあいにくと母が病院に行く日とかぶっており、バスで移動することになったのだ。
 犬を引き取ってくるのだから車を使いたかったが、母も父も足腰が弱ってきているから仕方ない。
 駅前からバスに乗り、ぼんやりと車窓を眺めていた。そうしてちょうど畑の真ん中にある神社を過ぎた頃合いだ。
 ふいに車内が暗くなった。
 太陽に雲がかかったんだろう。そんな風に思ったが、外を見れば日は燦々と降り注いでいる。
 なのに暗い。まるで、サングラスをかけているような視界だった。
 嫌な感じだ。それは姉の新居に近づくたびに強くなる。
 心臓がドクドクと早くなる。何かがおかしい。淀んでいる。景色が生彩を欠いている。

 バスから降りた時にも、しばらく暗さに慣れなかった。眩暈を起こす直前のような感覚だ。
 ぼんやりとバス停のそばにある真っ赤なポストを眺めていると、ふとその後ろに誰かが立っているのに気が付いた。
 ああ、また染みか。
 そう思った。どうやらそれは子供のようで、ポストの下から足が生えているように見えている。
 ただそれは、今まで見て来たものよりも随分とはっきり見えていた。膝にはられた絆創膏まではっきり見えたし、靴ひもの片方がうまく結ばれていないのも見えている。
 あれ、もしかして本物の子供だろうか。
 思わずそう思ってしまうほど、それははっきりと見えていた。
 
 姉の新居に入った時もそうだった。
 玄関まで迎えに来てくれた姉の後ろ、リビングのドアの影から覗いている子供が見えたのだ。
 それは一瞬のことで、すぐにいなくなってしまったが、はっきりと顔が判別できた。
 そんな事ははじめてだった。
 ここはおかしい。早く離れた方がいい。
 そう思いはしたものの、曖昧な理由で説得するのは難しい。
 まして姉はこの家を購入したばかりなのだ。幽霊がいるから離れろだなんて、聞き入れてくれるとは思えない。
 だが姉も異変には気付いているようだった。あの時はしばらく様子を見ようと思ったけれど、まさか連絡が取れなくなるなんて思わなかった。

 こうなったら、直接確かめに行くしかない。
 もともとジローを連れて会いに行くと約束していたのだから、訪ねていってもよい筈だ。
 警察に異変を訴えるのは時期尚早に思えるのだ。まずはこの目で確認してからでもいいだろう。
 両親に相談しようかと思ったが、それもひとまずやめておいた。
 父も母も、姉の結婚と別居にはよく思っていないのだ。
 「あの子ったら、結婚するのはいいけどあんな遠くに引っ越すなんて。私たちが病気にでもなったら、誰が面倒を見るのかしら」
 そんな風に話している事にゾッとした。
 なぜ彼らは、姉の幸せを当たり前のように踏みにじろうとするのだろう。それも、微塵の後ろめたさもないのだから恐ろしい。
 新居でうまく言ってないなどと両親の耳に入ったら。彼らは姉を呼び戻そうとするだろう。
 故に里穂子は、姉の新居へ一人で訪れることになったのだ。




 新居のある地域は相変わらずどこか薄暗かった。
 今回は車で来ることが出来たのが幸いだ。ジローは後部座席で寝転んでいたが、やはりあの神社を通り過ぎたあたりから落ち着きのない様子になっている。
 まるで、行先が病院だと分かった時ような反応だ。

 「お前もなにか感じるの?」

 後部座席に声をなげるとジローがミラー越しに不安げな視線を投げて来る。
 街は昼間だというのに人が少なく、誰かにすれ違うこともほとんどない。ゴーストタウンのようなに思えてくる。
 家の周囲は一週間前より庭木や雑草がのびていた。この時期の草木はほんの数日でもどんどん育っていってしまう。
 車は家の前に駐車した。ここまで人通りがないのだから、文句をいうものもいないだろう。そばに有料駐車場も見当たらないのだし仕方がない。
 ジローを抱っこして車から降りると、むわっとした暑さが押し寄せる。
 気温も一週間前にくらべ、だんだんと夏本場になってきている。
 玄関に向かい、ドアフォンを鳴らしてみたが反応はかえってこなかった。
 もう一度鳴らしてからしばし待つ。やはり反応は何もない。

 「お姉ちゃ~ん」

 どんどんっとドアを叩きながら呼んでみる。それからしばし耳をすませてみるものの、何の物音も聞こえない。
 どうしようか。
 ひとまず様子見に来たものの、次の一手を考えてあった訳ではない。
 勤め先の電話番号でも分かっていれば、ここ数日、出勤していたかどうか確認できるが、あいにくと番号は知らなかった。会社名くらいは知っているが、変に騒いで迷惑をかけてしまうのは申し訳ない。
 異常事態が起こっているのか、まだ判断がつかないのだ。
 参ったな。ひとまず家のまわりを一周してから考えよう。
 そう思って、玄関に背をむける。一歩、二歩と歩いたところで、背後でカチャンっと音がした。

 「え?」

 慌ててふり返れば、玄関のすりガラスに一瞬だけ人影が見えた気がした。

 「お姉ちゃん?」

 慌てて駆け寄ってドアノブを掴む。
 思い切ってノブを回すと、ドアが開いた。

 「お姉ちゃん?」

 恐る恐る家の中を覗き込む。だが先ほどの人影は見当たらない。

 「お邪魔しま~す」

 呼びかける声に答えはない。
 里穂子は警戒しながらも、家に足を踏み込んだ。




 家の中も熱気が籠っていて暑かった。それにどこか、空気が淀んでいるようだ。
 甘ったるい、鼻につくにおいがどこからともなく漂っている。
 そっとジローを床に降ろす。

 「ほら、ジロー。お姉ちゃんを探してきて」

 そう促して軽く尻を叩いてやると、ジローはどことなく戸惑った様子で歩き出す。
 くんくんと匂いをかぎながら歩いていくその後を、里穂子もゆっくりと追いかける。
 屋内は昼間でも薄暗かった。カーテンがすべてしまっているためだろう。
 それにしても暑い。たいして動いていないのに、じっとりと汗がにじみだす。

 まずはリビングに向かったが、そこには誰もいなかった。
 特別に散らかっている様子もない。
 念のため冷蔵庫を開いてみたが、気になるものはとくにない。
 こういう時に何を調べるのが正解なのか、里穂子にはよく分からなかった。ひと昔前であれば、新聞の日付などで判断がつくかもしれないが、最近は新聞をとっている家は少なかった。
 冷蔵庫の中に作り置きがないことも、共働きの家ならば不思議ではない。
 ピッチャーには冷たいお茶が作ってあり、思わず一杯欲しくなったが勝手に拝借するのはまずいだろう。
 冷蔵庫のドアをしめるとジローが玄関に歩いていく姿がめにはいる。
 後を追いかけて歩いていくと、ジローは二階への階段を登っていった。
 ジローに続いて階段をあがっていくと、そこは一階よりも暑かった。
 いっそ暑さで息苦しい。
 うんざりしながらジローの後を追っていくと、廊下突き当りの部屋に入っていく。確かそこは、姉の私室だった筈だ。

 「ジロー、お姉ちゃんいた?」

 ひょいっと部屋を覗き込んで、里穂子は大きく息を飲み込んだ。
 佑衣子がいた。キャンバスの前に呆然とした顔で座っている。

 「お、お姉ちゃん? やだ、ちょっとびっくりしたじゃん! どうしたの、こんな暑い部屋で」

 慌ててそばに近づいたが、佑衣子は反応をしめさない。
 表情はすっかり抜け落ちて、真っ黒に塗りつぶされたキャンバスを見詰めている。
 その頬はこけていたし、目の下にははっきりと隈がある。
 それに、よく眠れていないのか、目の周りが赤くなり白目も充血しているようだ。

 「お姉ちゃん? 大丈夫?」

 肩を掴んで揺すってみると、その身体は暑い部屋にいたとは思えないほどに冷えている。
 慌てて額を触ってみると、そこもひどく冷えている。
 一体なにがあったのか。
 戸惑ったまま、何度も呼び続けていると、佑衣子はようやく僅かばかりに身じろいだ。
 反応がある。まずはそれを喜ぼう。
 だがなんでこんなに冷たくなっているのだろう。

 「お姉ちゃん、動ける? とりあえず一階に降りようよ。それでお水飲んでみよう。出来そう?」

 問いかけると、佑衣子はまるで老人のような緩慢さで、里穂子に視線を向けてきた。
 なんだかおかしい。佑衣子の瞳には理性の色が薄いのだ。それはまるで、怯えた獣の目によく似ている。
 歩かせるのは危険そうだ。

 「分かった、動かなくていいよ。取りあえずお水取ってくるから待っててね」

 佑衣子がゆっくりと頷くのを確認して、里穂子は小走りで一階に降りていく。
 救急車を呼んだ方がいいだろうか。だが見たところ意識は一応あるようだ。
 ひとまずは水を飲ませてから、しばし様子を見るべきか。
 冷蔵庫をあけてピッチャーを出す。冷たいお茶と、念のために生ぬるい水道水もグラスに注いで、急いで二階へ舞い戻る。

 「お水、持ってきたよ。こっちは冷たいお茶。好きな方でいいから取りあえず飲んで」

 グラスを二つ差し出したが、佑衣子の反応は鈍かった。
 仕方なく、まずはぬるい水の方をそっと手に握らせる。

 「ちゃんと持てそう? こぼさないようにね。ゆっくり飲んで」

 佑衣子の反応はやはり鈍い。グラスを受け取ったものの、ぼんやりとキャンバスを眺めている。
 里穂子は混乱しそうだった。
 身体が冷たくなっているから熱中症ではないだろう。ならばこのやけに鈍い反応は、もしかして脳梗塞などではなかろうか。
 怖かった。
 里穂子にとって、佑衣子は母親がわりだった。
 その佑衣子がほとんど反応を示さない。怖くて、恐ろしくて、悲しくなる。
 やはり救急車を呼んだ方がよさそうだ。あるいは、救急車を呼ぶまえに相談する窓口があった筈だ。

 「ちょっと、嘘、なんで」

 スマートフォンを開いたが、表示は圏外になっている。
 窓辺に近づいてためしたが、いっこうに反応しなかった。

 「お姉ちゃん、私ちょっと外に行ってくるね。電話かけるだけだから。すぐに戻るからね」

 バタバタと階段を駆けおりると、なぜかジローが付いてきた。

 「ちょっと、何で着いて来るの? お姉ちゃんと一緒にいてあげてよ」

 そう声をかけたものの、ふと奇妙なことに気が付いた。
 ジローは佑衣子を見つけだしはしたものの、なぜか近づきはしなかった。
 里穂子が話しかけている間も、少し離れた場所からじっと見詰めていただけだ。
 あの反応はおかしかった。ジローは佑衣子の愛犬だ。普段ならば、喜びいさんで飛びついていた筈だった。
 何かがおかしい。でも考えている余裕はない。
 とにかく電話だ。外に出て電話をしよう。
 そう思って玄関のノブに手を伸ばした里穂子は、すりガラスに人影があることに気が付いた。
 誰だろう。近所の人だろうか。
 里穂子がじっと見詰めていると、相手も玄関に気配があることに気付いたのだろう。
 人影はさらに玄関に近づくと、バンバンバンっと激しくドアを叩き始めた。

 「雄太! 雄太ちゃん! ママよ! 中にいるなら返事をして!!!!」

 ヒっと思わず息を飲み込んだ。
 声は中年の女性のものだった。ヒステリックに上擦っていてドアを叩く有様も尋常ではない。
 足元のジローは牙をむいて低く唸っている。

 「雄太ちゃん!!!! 雄太ちゃん!!!! お願い、返事して!!!! 雄太、雄太を返してよおぉおおお!!!!」

 狂ったようにドアを叩くさまを里穂子は呆然と見詰めていた。

 「ちょ、……ちょっと、落ち着いて下さい。何を言ってるのかわかりません」
 「雄太ぁあああああ、いやぁああ、雄太ちゃぁああああああんんんんん!!!!!!!!」
 「あの、落ち着いて……」

 声を投げてもドアの外の女性は泣き喚いてドアを叩くばかりだ。
 話にならない。電話が圏外でなかったら、警察を呼びたいくらいだった。
 ガチャガチャと今度はドアノブを乱暴に上下させる音がする。
 その時になってようやく里穂子は気が付いた。
 鍵をしめてない。だがもうドアは薄く開きかけている。
 慌ててドアに飛びついたが、女性はドアが開くことに気が付いたのか、勢いよく開けよう揺らしてくる。
 
 「やめてッ!!!! やめて下さい!」

 里穂子も叫びながら、がちゃがちゃと揺れるドアを閉めようとするが、何度も半開きになるせいで、なかなか鍵がかけられない。
 ドアを抑えながらドアチェーンを掴んで、なんとかロックすることに成功する。
 次の瞬間、勢いよくドアが押され、里穂子は思わず尻もちをつく。
 それでもドアチェーンのお陰で隙間は数センチしか開かない。
 良かった。ほっと胸をなでおろした時だった。
 ドアの隙間から見えた異様なものに、里穂子は改めて息を飲む。

 それは血塗れの指だった。
 いや、血塗れどころではない。皮がずる向け、骨が露出している箇所もある。
 それに指の何本かはあきらかにおかしな方向に曲がっている。
 そんな指が、薄く開いたドアの隙間で、巨大な蜘蛛のように蠢いているのだ。

 これはなんだ?
 里穂子は指を見詰めていた。ぐちゃぐちゃな指は千切れかけている箇所もある。
 それがかさかさと動いている。
 おかしい。明らかにおかしかった。
 逃げなくては。ガクガクと震える膝を叱咤して、なんとか起き上がって数歩下がる。
 指は相変わらずドアの隙間で蠢きながら、その向こうからは「雄太ちゃぁあああん」という声が聞こえてくる。
 おかしい、おかしい、おかしい。
 心臓が痛いほど脈打って、呼吸がはやくなっていく。
 外に出なくちゃいけない。でもここからは出られない。
 ぎゃんぎゃんと吠えだしたジローを抱えあげた。
 この家には勝手口があっただろうか。
 覚えてない。
 だがあるとすればリビングの奥だろう。キッチンのそばか、あるいは洗濯機のある洗面所あたりにある筈だ。
 吠えたてるジローを抱えたままリビングに向かう。キッチンを覗いたが裏口らしきドアは見当たらない。
 残るは洗面所だ。
 リビングから続く引き戸を勢いよく開ける。
 目に飛び込んできたのは、赤黒く染まったバスルームだった。

 「……な、……に?」

 バスルームのドアは開け放たれ、その奥にバスタブが見える。
 だがその床も、バスタブも、すべて赤く染まっていた。壁や天井まで、赤黒い飛沫が飛んでいる。
 バスタブの床には男がしゃがみこみ淡々と鉈を振るっていた。
 だん、だんっと刃が何かに食い込み、それは硬いものにあたったのか、今度はガツガツと音を立てている。
 床には何かが落ちていた。
 見覚えのある形。
 足首。腕。そしてバスタブの中に浮かんでいるのは。
 ぎょろりと開かれた瞳がじっと里穂子を見詰めている。

 途端に、噎せ返るような甘い臭いが押し寄せる。
 鼻の粘膜にこびり付くような甘く、それでいて深い極まりないその臭い。
 ああ、知ってる。これは腐りはじめた血の臭い。
 女ならば何度もかいだことがあるものだ。
 ジローが狂ったように吠えたててると、暴れまわって里穂子の腕の中から飛び降りる。
 その声に、しゃがんでいた男が立ち上がった。
 ふり返るその顔には見覚えがある。

 「和彦、さん?」

 佑衣子の夫だ。だが里穂子の記憶の中にある和彦とは、大分面影が変わっている。
 この人はもっと無邪気に笑っている人だった。年齢よりも幼く見えるような、少し少年じみた人だった。
 だが目の前にいる和彦は、一気に十歳は年をとってしまったかのような、疲れ切った中年の顔をしている。
 和彦は顔も身体も血塗れだった。
 表情もなく言葉もなく。
 和彦が持っていた鉈を構え直す。

 逃げなくちゃ。

 かろうじて里穂子の本能が働いた。
 身をひるがえして駆けだしたが、玄関には相変わらず不気味な指ががちゃぎゃとドアを揺らしている。
 ジローは二階への階段を登っていく。里穂子もそれを追いかけた。
 佑衣子の部屋に飛び込んで鍵をかけると、ガンっとすぐドアの向こうで音がした。鉈が叩きつけられる音だ。
 立て続けに響く音に里穂子はその場にしゃがみこむ。
 キャンバスの前に座っている佑衣子は、上の空のままだった。いやむしろ、微かに笑っているようにさえ見える。
 泣き出してしまいたいたかった。
 もう嫌だと泣き叫んでしまいたい。

 でも、駄目だ。

 幸い、ドアの向こうの気配は、すぐに里穂子達を諦めたのか階下に去っていく音がする。
 ジローも困惑した顔だった。じっと里穂子を見つめてきている。
 動かなくちゃ。そう自分に言い聞かせる。
 そうだ、この家は固定電話があるだろうか。もしあるとすれば、リビングに親機が、二階のどこかに子機がおいてある筈だ。
 探してみよう。
 もし子機が見つからなければ、ベランダかどこかから庭に降りる道を探すのだ。
 佑衣子を置いていくのは不安だったが、今までも平気だったのだ。和彦が佑衣子に襲い掛かることはないだろう。

 「お姉ちゃん、ちょっと他の部屋を見てくるね。電話機がないか探してくる。それでもしなかったら、なんとか外に出てみるから」

 佑衣子に話し掛けてみたが、反応はなく視線すらあわなかった。
 仕方ない。とにかく助けを呼びに行こう。
 恐る恐る鍵をあけて、そっと廊下を覗いてみる。和彦の姿は見えなかった。
 大丈夫だ。落ち着いて行こう。
 足音を忍ばせまずは隣の部屋を確認する。
 そこは和彦の私室のようだった。窓辺に近づいてみたものの、ベランダはない。
 再び廊下に出て一番奥の部屋を開けてみる。そこが寝室のようだった。シングルベッドが二つ並んで置かれている。
 だが電話機は見当たらない。
 やはり固定電話はないようだ。
 涙目になりながら寝室のカーテンを開けてみれば、そこはベランダになっていた。
 窓を開いて外にでる。ベランダから身を乗り出せば、ちょうどそこは玄関の真上のようだった。あのおかしな女は見当たらない。諦めて帰ったのか、あるいはあれは、何か別の悍ましい存在なのかは分からない。
 ベランダから飛び降りる手はあるが、玄関前の敷地は砂利が敷いてあって痛そうだ。靴もはいていない状態で、あの場所に降りるのは難しい。
 きっと和彦はバスルームに戻ったことだろう。
 行くしかない。寝室に戻って廊下に出る。足音を忍ばせゆっくり進み、階下を用心深く覗き込む。
 誰もいない。
 大きく息を吸い込むと、慎重に階段を降りていく。わずかに軋む音でさえ、今は恐ろしくて仕方ない。
 一歩ずつ、慎重に。思わず走り出したい気持ちを抑えて、音をたてないように降りていく。
 階段を降りれば目の前はすぐに玄関だ。和彦の姿は見当たらない。あのおかしな女も見えなかった。
 急いで靴を履いてドアチェーンを外すと、里穂子は外に飛び出した。もうそこからは迷わない。一気に中庭をかけぬけて、車に向かって走っていく。
 リモコンでドアをあけ、車内に転がるように飛び込んだ。ドアを閉めてロックをかける。

 大丈夫だ。もう大丈夫だ。

 堪えていた涙がじわりと零れそうになる。
 駄目だよ。あと一息。電話をしなくちゃ。救急車? いや警察だろうか。
 ひとまず110番に電話して、あとは向こうに判断して貰えばいいだろう。
 スマートフォンを確認すれば、電波は一本だけたっていた。胸を撫でおろしながら、局番を一つずつプッシュする。

 「……く、……ふ、ふふふふふふふふふ」

 その時、背後から声がした。
 慌てて顔をあげてみれば、バックミラーには後部座席に座る佑衣子が映り込んでいる。
 佑衣子はくぐもった声で笑っていた。最初は小さかった声が、だんだんと大きくなっていく。
 楽しくて楽しくて仕方ない。その癖、佑衣子の表情はまるで死人のように凝り固まり、唇だけが不自然なほど笑みの形になっている。

 「ふふふふふ、うふふふ、ふ、あは、は、あははははははははははははは」

 佑衣子は血走った眼を見開いて、ひたすらに笑い続けている。
 里穂子は今度こそ耐えきれず、大声で悲鳴をあげていた。

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