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Happy Xmas

 「年末年始の間は、飼育委員の生徒にウサギを連れ帰ってもらいます」

 先生の言葉に、思わず「うそでしょ?」と言いかけた。
 半年前ならばまだ良かった。ウサギは1匹だけだったので、持ち運べる小さなケージで連れ帰ることも出来たのだ。
 だが、現在、ウサギは7匹に増えている。

 事の発端はいつも通り、身勝手な大人の善意だった。

 私の通う小学校では「動物との触れ合いにより感受性を養う」という名目のもと飼育小屋で1匹のウサギを飼っていた。
 小屋のそばには授業で使う小さな農園や、メダカのすむ池もある。いつからここでウサギを飼うようになったのかは分からない。
 もっと昔は山羊を飼っていたそうだが、農園の野菜をことごとく食い荒らしてしまうため、ウサギに変えられたのだという。
 委員会活動がはじまるのは4年生からだ。私が飼育委員になったのは別に動物が好きだったからではなく、それが余っていたからだった。
 飼育委員は、朝と夕方に交代で小屋に訪れて、ウサギに餌をやり、飼育小屋を掃除する。
 だがある朝、小屋を開けると、ウサギが2匹になっていた。

 理由はすぐに判明した。
 PTA役員の知り合いが、ペットのウサギを勝手に小屋に入れたのだ。思ったより臭いだとか、指に噛みつかれただとか、そんな理由で手放すことに決めたらしい。
 どうせ手放してしまうならば、誰かに喜んで貰いたい。
 その結果「小学校の飼育小屋に入れてしまおう」と、思い至ったのだと聞いている。
 学校は結果的に、この身勝手な行動を受け入れた。寄付をありがとうございますと、お礼すら言いに行ったらしい。
 だがその後、さらなる問題が浮上した。
 元々学校にいたウサギは雌で、後から来たのは雄だった。
 つまりその結果は、起こるべくして起こったのだと言えるだろう。

 こともあろうに、事件は休み時間中に勃発した。
 男子の1人がウサギ小屋の異変に気付き、大声で友達を呼び寄せた。私も飼育委員ということで呼び出され、その有様を目撃した。
 新入りのウサギが、元いたウサギに覆いかぶさり必死に腰を振っている。ウサギの愛らしい外見とは、あまりにもかけ離れた光景だ。
 男子たちは大盛り上がりで、ウサギの真似をして腰を振る。
 女子は眉をしかめて後ずさり、なぜだか泣き出す子までいた。
 私は無表情でじっと見詰めていた。私にとっては大騒ぎするほど奇異な事態ではなかったのだ。
 むしろ私は関心した。
 ウサギの交尾は大声をあげて騒がない分だけ、人間よりずっと上品だ。
 ともあれ、結果としてウサギが7匹に増えたのだ。
 それを全て連れて帰れというのは、かなり無理な話だった。

 「うちはマンションなんで無理です」

 委員の1人が手をあげると、次々と皆が無理な理由を口にする。

 「妹が動物アレルギーだから」
 「年末年始は田舎に行くから家にいない」

 そんな理由で皆がいっせいに辞退した。

 「ユカちゃんの家は一軒家だから大丈夫よね」

 先生に名指しされ、私は首を横にふる。

 「うちは、お父さんが嫌がるので無理です」
 「でもアレルギーがある訳じゃないんでしょ? 他のみんなはもっとちゃんとした理由があるのよ?」

 ちゃんとした理由というのは、家族でスキー旅行に行くことも含まれるらしい。
 気が付けば委員会の他の生徒たちが全員で、私のことを見詰めていた。

 ああ、これは、何を言っても無駄なのだ。反論すればその分だけ、悪者扱いされてしまう。
 私が黙ると、それは許容だと解釈された。
 かくして私は、大人のウサギ2匹と、まだ赤ん坊に等しい小さなウサギ5匹の入った重いケージを抱えながら、家に帰ることになったのだ。




 「それは大変だったねぇ」

 私に唯一、同情してくれたのは、八百屋のおじさんだけだった。
 学校のすぐ裏手にある八百屋さんは、飼育委員が尋ねていくと野菜のくずを譲ってくれる。キャベツや白菜の一番外側の痛んだ部分や、運ぶ間に潰れてしまった野菜などを餌用としてタダで渡してくれるのだ。
 おじさんはいつもニコニコと笑顔を絶やさない人だった。
 けれど、そのおじさんのお母さん、もうかなり高齢のお婆ちゃんはいつも怒ってばかりの人で、私も、他の委員の子も、皆が苦手に思っていた。

 「タダで譲って貰えるからって、いい気になってんじゃないよ!」
 「金を払わないで物を貰うのは乞食と一緒なんだ。お礼くらいちゃんと言いな!」

 そんな風に怒鳴られる。
 お礼を言っても耳が遠くて聞こえていないし、酷い時には野菜くずを投げてくる。
 おじさんも、ほとほと困り果てていたようだが、どうやらお婆さんは何かの病気で、どうにもならないらしかった。
 だからお婆さんは飼育委員だけでなく、お客にも怒鳴るし、おじさんにも怒鳴る。足腰が悪くて仕事は何一つ出来ないというのに、店のすみっこの椅子を陣取って、いつも怒鳴り散らしている。
 そんな怖いお婆さんが今日は出て来ていないので、私はおじさんと話す時間がもてたのだ。

 「しばらくは、私一人でお野菜を貰いにきて大丈夫ですか?」

 遠慮がちに尋ねると、おじさんはいつも通りの満面の笑みで頷いた。

 「勿論だよ。年末もぎりぎりまで開けてるからね。年始はちょっとお休みするから、その時は少し多めに渡しておくよ」
 「ありがとうございます」
 「でも、大丈夫かい? 家まで毎日運ぶのは重いだろう。おじさんが配達してあげようか? それくらいなら時間を見てタダでやってあげるよ?」
 「それは、多分、お母さんが駄目って言いそうなので……」

 私がしどろもどろになって俯くと、おじさんは「そうか」と短く頷いた。
 私の家も、八百屋さんのお婆さんと同じように、悪い意味で評判になっている。父も母も声が大きく、怒りっぽい。商店街で大喧嘩をはじめることもしばしばだ。
 ファミリーレストランに出掛けても、小さなことで喧嘩をはじめて最後は大声で怒鳴り合う。
 そんな時、私はテーブルのすみっこで縮こまり、黙って食事を続けている。だが最後には店からまとめて追い出される。そうなれば、帰り道はよりいっそうに騒がしい。
 無論、家の中でも喧嘩はたえず、食器が飛び交うこともある。そのせいで、警察が様子を見に来たこともあるほどだ。
 あれほど罵りあらば、いっそ別れればいいものを。
 親戚や近所の人々もそう思っているだろう。
 だが、困ったことに、あるいは幸いにも、2人は似た者同士である故に、仲が良いときはとことん愛し合っている。
 つまりそれは、夜の行為がウサギよりもはるかに騒がしいという意味だった。
 私がもっとずっと小さい時から、両親は隠す素振りもなく激しく愛し合っていた。そんな日は賑やかすぎてろくに眠ることも叶わない。ベッドに潜り、イヤホンをつけて大音量で音楽を聞き続ける。私の狭い世界では、逃げ場所はそれくらいしかなかったのだ。
 そんな訳で、母も父も些細なことで怒鳴り散らすことは周囲にも知れ渡っている。
 ウサギを持ち帰っただけでも、どれだけ叱られるか分からない。まして、八百屋が野菜くずを届けに来るなどと、受け入れて貰うのは難しい。

 「毎日、必要な分だけ取りに来るのでよろしくお願いいたします」
 「ああ、分かったよ。それじゃあ、いつもより小さくちぎっておくね」
 「ありがとうございます」

 私に対して、こんな風に優しくしてくれる人は珍しい。
 あまり私に声をかけると、母や父が何を言いだすか分からないので、避けられることが多いのだ。学校の先生も近所の人たちと同じように、ただ避けてくれるならばありがたかった。そうすれば、ウサギを私に押し付けようだなんて思わなかったことだろう。
 けれど先生は、母と父の対処法を見つけたのだ。

 「ユカちゃんが自発的にやったことです。彼女が良かれと思って行ったことに、他の生徒もとても喜んでいます。ぜひ褒めてあげて下さいね」

 そう言って、責任を私に押し付けてしまえば、先生が怒られることはない。母と父はまんまと策略にはまり込み、私が良い子ぶって引き受けているのだと思い込んでしまうのだ。
 逃げ場がない。
 大人はみんな身勝手で、私を見て見ぬふりをするか、あらぬ責任を押し付ける。
 でも、八百屋のおじさんだけは、いつだって優しい存在だ。

 「あの、……お婆さんはどうしたんですか?」

 帰りがけにふと気になって尋ねてみると、おじさんは少しだけ困った顔をした。

 「少し前から風邪で寝込んでいてね。たいした事ないといいんだけど」
 「そうなんですね。ええと、その、お大事に」

 お辞儀をして立ち去ろうとした所で、私はふと奇妙な匂いに気が付いた。
 なんだろうか。濁ったように纏わりついてくる甘い匂い。それは、鼻の粘膜を刺激して、甘いのに気持ちが悪くなる。
 気のせいだろうか。
 あるいは野菜が腐ってしまってたのか。
 私は首を傾げながらも、八百屋さんをあとにした。




 神様どうか、どうかお願いします。私はイイコにしています。
 たくさんの事は望みません。
 だからどうか、平和に過ごせますように、私を見守っていてください。

 願い事がかなったことは一度もない。
 けれど、嫌な予感はおおむねいつも当たるのだ。ウサギを持ち帰ったその日から、私はずっと何か悪いことが起こるのではないかと怯えていた。
 そうして、ウサギを預かって4日目の朝。
 今年もサンタクロースは来なかったけれど、父は気まぐれでホールケーキを買ってきて、そのことで大喧嘩を繰り広げた。
 3日経ってもケーキは食べ終わっていなかった。3人家族にホールケーキは大きすぎたし、父も母も一回食べたあとは飽きてしまったようだった。だから私が食事毎にがんばってケーキを食べている。スポンジはぱさぱさになっていたし、生クリームは胃にもたれる。私はいささかうんざりしながら、その日の朝もなんとかケーキを食べ終えた。

 ウサギの数が足りていない。

 玄関に置いたケージの中を覗きこみ、異常事態に気が付いた。
 何度数えてもウサギは5匹しかいないのだ。赤ん坊ウサギが2匹どこにも見当たらない。
 ドクドクと心音がはやくなる。
 なぜ、どうして、子ウサギがいなくなったのか。ケージはしっかり閉まっているし、例え鍵が開いていたって子ウサギはまだろくに歩けない。万が一、逃げ出したとしても玄関でうろうろしていることだろう。
 父か、母が捨てたのか。
 でも、それならばケージごと捨ててくることだろう。
 わざわざ子ウサギ2匹を選んで捨ててしまうのは不自然だ。
 いったい何があったのか。ケージの底に敷いた新聞紙には、赤い染みが残っている。それはとても不吉だった。
 どうしよう。
 両親に相談したって無駄だろう。
 でも、八百屋のおじさんなら話を聞いてくれそうだ。
 私はコートも羽織らず、慌てて家を飛び出した。




 八百屋の入口は透明のビニールがカーテンのように釣り下がり、中の温度を一定に保てるようになっている。
 とくに夏などは冷気を逃がさないために、大事な役割を果たすのだろう。
 厚手のビニールを少し開けば、むわっと異臭が鼻につく。前日よりねばつく異臭はよりいっそう濃い臭いになっていて、思わず顔を背けたくなるほどだった。

 「おはよう、ユカちゃん。お野菜、用意しておいたよ」

 それでも、おじさんはいつも通りの笑みだった。
 やはりこれは野菜が腐った臭いか何かであるのだろう。おじさんは慣れているから平気なのだ。
 私は鼻をつまみたい衝動を堪えながら、店内にそっと踏み込んだ。

 「あの、……ウサギが、いなくなっちゃったんです」

 消え入りそうな声で話すと、おじさんは真剣な表情でじっと耳を傾ける。
 こんな風に私の話を聞いてくれるのは、おじさん以外にはいなかった。

 「そうか。それは、きっと、共食いだよ」

 私の話を聞き終えると、おじさんは悲し気な声でそう言った。

 「ともぐい、ですか?」
 「うん、恐らくね。ウサギはストレスが溜まったり、栄養が足りていない時に子供を食べてしまうことがあるんだ」
 「ストレス、……あッ!」

 思い当たる節がある。
 両親は玄関にケージを置くことを何とか許してくれていた。だが、そばを通るたびに、ケージを蹴って揺らしたり、大声で脅かしたりしていたのだ。
 いつもより狭いケージに詰め込まれているだけで、ウサギ達には相当のストレスがあっただろう。
 それに加えてケージを揺らされ、怒鳴りつけられ、不安に晒されていたに違いない。
 とくに昨日は夜遅くに帰ってきた父親が、ケージを激しく揺らしながら、酒臭い息を吹きかけて会社の悪口を言っていた。
 ウサギたちにとってみれば、さぞ恐ろしかったことだろう。

 「どうしよう。わたし、どうすれば……」
 「取りあえず、学校に連絡してみるのがいいんじゃないかな。飼育委員の先生の連絡先を教えて貰って、相談してみたらどうだろうか」
 「そう、ですね」

 気が乗らない。それが正直な気持ちだった。
 だがそれ以外にはないだろう。

 「ありがとうございます。家に帰って電話してみます」

 きっと私はよほど暗い顔をしていたのだろう。
 おじさんは少し困った顔をしてから、いつもより優しい顔で微笑んだ。

 「なにかあったら、ここにおいで。おじさんが出来ることはほとんどないけど、話くらいは聞いてあげられるからね」

 私には、その言葉だけでも涙が出そうなくらいに嬉しかった。




 学校に電話をしてみても飼育委員の先生はいなかった。
 かわりに出たのは担任の先生で、今日はたまたま学校に出て来ていたのだと言う。
 だが先生から出た言葉は、取り付く島もないものだった。

 「ウサギは草食動物です。共食いなんてする筈がないでしょう?」

 先生ははじめから、私が何かやらかしたのだと決めつけていたようだった。

 「もう何年も学校ではウサギを飼っているけれど、共食いをしたことなんて一度もないのよ。うっかり逃がすか、餌をあげ忘れて死んだんでしょう? それをウサギのせいにするなんて、どうかしてるわ」

 でも、本当なんです。ケージに敷いた新聞紙に血がついていたんです。
 私が食い下がると、先生は大きなため息を吐き出した。

 「だったら、年明けてから学級会を開いて話し合いましょう。みんなで決まれば公平でしょう?」

 そう言って電話を切られて、私はその場にへなへなとしゃがみこんだ。
 学級会に正義はない。
 あれはただ、正義という名の多数決だ。彼らが望む結末は、私が泣きながら謝罪して、改心してみせることだろう。今までも、そんな事があったのだ。
 例えばクラスメイトの給食費が盗まれた時。
 あの時も、クラスで一番、貧乏な子が盗んだということになり、その子が泣きながら謝ることで解決した。だが実際には数日後に、ロッカーの後ろからお金の入った封筒が出て来たのだ。
 分かりやすい答えに飛びついて、多数決でもって追い詰める。
 私は、きっと、ウサギを殺した犯人にされてしまうだろう。

 最悪だ。

 私がしゃがみこんでいると、珍しく母が声をかけてきた。「どうしたの?」と問いかけられ、ウサギが死んでしまったことを打ち明ける。母は少しばかり、肩をすくめただけだった。

 「死んだのは子供のウサギでしょ? ならいいじゃない。親の方は生きてるんでしょ? 子供はねぇ、何も出来ないけど、親が生きてりゃ子供なんていくらでも作れるのよ?」
 「でも……」
 「でも、とか、だって、とか、アンタはそれしか言えないでしょ? そうやってね、うだうだしてたってアンタは子供だから何も出来ないのよ。まぁうまく行けば新学期までに新しい子供が生まれるんじゃない? さっきもなんか、ガタガタやってたわよ」

 母の笑い声を聞きながら、私は心がからっぽになっていくのを感じていた。
 なんでだろう。
 私はイイコにしているのに。一生懸命頑張って、精一杯イイコにしているのに。
 なぜ私は、いつも泣きそうな気分のまま、ずっと過ごしているのだろう。




 八百屋の異臭は、朝よりもさらに酷くなっていた。
 買物に来た客たちは、ビニールのカーテンを開けると、一様にぎょっとした顔になる。顔をしかめてカーテンをしめて帰る者。いぶかしげな顔のまま買物をして帰る者。皆が異変を感じているのは、ぱっと見ただけでも明白だ。
 私は甘ったるい異臭に耐えながら、店のすみの丸椅子に座っていた。
 他に行く場所が思いつかなかったのだ。

 「アンタはあの八百屋が好きよねぇ。でも気をつけなさいよ。あの店主、いい歳して結婚もしてないんだから、ロリコンかもしれないわよ」

 母はそんな風に言っていた。
 実際、私にはおじさんがいい人かどうかなんて分からない。
 この、おかしな臭いは異常だったし、ずっと寝込んだままのお婆さんがどうしているのかも不思議だった。いや、頭のどこかでは、その2つを結び付けていたけれど、もうどうでも良かったのだ。
 私もちゃんと分かっている。
 学級会で責められたって、人生が終わる訳じゃない。盗難事件の犯人にされた生徒だって、今では他の生徒たちと楽しそうに遊んでいる。
 そうだ。終わらない。どんなに嫌なことがあっても明日も明後日もやってくる。
 だが、それこそが絶望だ。

 「大丈夫かい?」

 仕事が落ち着いたのだろう。ふと気付けば、おじさんが目の前に立っていた。
 いつも笑顔の優しいおじさん。笑顔以外をほとんど見たことがない人だ。でも、今よく見てみれば、顔には深い隈があり、顔色もどこか悪そうだ。
 私はおじさんを幸せな人だと思っていた。
 いつだって笑顔だったから。
 お婆さんがどんなに怒鳴っても、おじさんはずっと笑っていた。
 だから幸せなのだと思っていた。

 「おじさんは、幸せですか?」

 顔を見上げて尋ねてみると、おじさんは少しだけ困り顔の笑みになる。

 「どうだろうね。幸せになりたいってずっと思って生きてきたよ」
 「ずっと、思っていれば、幸せになれるんですか?」

 ぼろっと涙が溢れて来た。普段はずっと耐えていたもの。
 泣いたって仕方ない。泣いたらかえって笑われる。だからずっと耐えていた。

 「私、イイコにしてたんです。悪いことなんて何もしてない。でも、ウサギは死んじゃうし、サンタクロースは一度だって来てくれない。悪い子じゃないのに。ずっと、ずっと、たくさん我慢してるのに」

 声が震えて、ひどく惨めな音になる。
 おじさんはしばらく黙っていたけれど、やがてゆっくりと口を開いた。

 「ユカちゃん。おじさんはね、いい人にはなれなかった。悪いことをしてしまった。ずっと頑張って来たけれど、もうどうしようもなかったんだ。でもね、今ならおじさんはユカちゃんのサンタクロースになれるかもしれない。ユカちゃんを不幸にする人を、遠くへ連れていってあげられる」
 「遠くに?」

 顔をあげると、おじさんはいつも通りの優しい顔で微笑んだ。

 「そうだよ。もう帰ってこないくらい遠いところだ。誰を連れていけばいい? お父さんとお母さんと、それと担任の先生かな?」

 私たちは見詰めあった。
 そこには小さな楽園があった。
 幸せになりたいと願った人の、小さな小さな幻の園。
 いつかおとぎ話で読んだ、マッチが燃え尽きるまでの浅い夢。
 私が小さく頷くと、おじさんは今までで一番、幸せそうな顔をした。

 そうしておじさんは、大きな出刃包丁をもって出て行った。
 私は重く漂う腐敗臭に囲まれてクリスマスソングを口ずさむ。クリスマスは過ぎたばかりだから、今から一番遠い歌だ。
 でもきっと、この歌が一番ふさわしい。
 初めて口にするメロディを何度も何度も繰り返し、私は幸せを祈るのだ。

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