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キ域_09(最終回)

 逃げなければいけない。
 分かっているのに体がなかなか動かない。
 目の前の光景を認めたくない。現実だと認めた瞬間に絶望することが分かっている。
 それは奇妙な感覚だ。冷静に状況を見つめている自分がいるのに、危機感がうまく働かない。
 駄目だ。
 しっかりしないと。
 逃げ出さないと。
 動いて。ほら、ちゃんと動いて。
 まず息を吸って、手を伸ばして。福部の肩に手を、……

 「……福部さん、逃げましょうッ!」

 里穂子はなんとか声をしぼりだした。
 福部ははっと息を飲むと「筒井!」と声をあげて近づこうとする。その腕を、里穂子は思い切り引っ張った。

 「駄目です、福部さんッ! もう無理です、逃げないと!」

 先ほどまで激しく痙攣していた筒井の足は、今はだらりと投げ出されている。
 あたりには血しぶきが飛んでいた。壁だけでなく天井まで赤い飛沫が散っている。その時になって、ようやく里穂子は部屋の状況が見えてきた。
 先ほどまで光に満ち溢れていた部屋は、今はその面影はまるでない。部屋は暗く、壁は汚れあちこちにどす黒い染みが残っている。もう何度も、この場所で惨劇が起きたのだ。今、見えている光景こそが、この部屋の真実だったのだ。
 分かっていたはずだったのに。
 この場所はおかしい。おぞましい事件は幾度となく繰り返され、穢れてしまった場所なのだ。
 穢れはあまりにも色濃く、人に取りつき変容させる。そうしてまた悲劇を繰り返す。
 その元凶は山に捨てられた老人たちだ。
 そう、分かっていたはずなのに。
 まさか老人たちが脅威になることはなかろうと侮った。
 あれは違う。
 目の前の老婆はただの年寄などではない。

 「お願いです、福部さんッ!!」

 里穂子は必死に訴えた。感情がたかぶって、目頭が涙で熱くなる。
 ヨネがゆっくりと顔をあげた。
 口元だけでなく衣服にもべったりと血がついている。白髪は乱れ、その髪もいまは血まみれだった。歯をむき出して笑う様は、猿が威嚇する動作によく似ており完全に常軌を逸している。
 ヨネが吠える。
 その声に福部が気圧される。

 「逃げましょうッ!!」

 もう一度、強く福部の腕を引っ張った。
 今度は福部も逆らわない。
 転がるように廊下に出ればそこも暗く、あちこちが黒い染みで汚れていた。何かが引きずれた血のあとがはっきりと床に残っている。
 車いすに座った老人がニタニタと笑っている。
 スタッフの姿は見当たらない。
 福部と里穂子は老人たちとできるだけ距離をとりながら、小走りで廊下を進んでいく。
 老人たちはただ笑っているだけだった。だが誰も正常には思えない。
 振り返ればヨネは部屋から飛び出して、四つ足であとを追ってきている。小柄で細い老人だ。二人がかりならどうとでもなりそうだが、筒井はあっさりとやられたのだ。逃げたほうが懸命だろう。
 車いすを避けながら暗い廊下を走っていく。
 だが行く手をセキュリティドアに阻まれた。
 カードがない。スタッフカードを差し込むか、暗証番号が分からないとロックされたドアが開かない。

 「インターフォンを」

 福部に言われ、里穂子はドアの脇にあるインターフォンを押し込んだ。
 反応はない。再度押し込んでみたけれど、反応はかえってこなかった。

 「駄目です、誰も出ません」

 ベルが鳴らないのか、スタッフに何かあったのか。
 分からない。とにかくドアは開かない。

 「こっちだ」

 福部に腕を引かれて駆け出した。向かう先は非常口だ。ドアには解錠防止用のカバーが設置されている。カバーを壊している間にもヨネは背後へと迫ってくる。
 老人たちも楽しそうに笑いながら、車いすで移動してゆっくりと後を追ってくる。
 カバーが壊れた。鍵を回して外に出る。
 何度も転びそうになりながら、一階まで駆け下りた。
 非常階段は転落防止の柵で囲まれ、低層階からも飛び降りて外に出ることは叶わない。
 そして出口にも鉄柵が待ち構えており南京錠がかかっている。外に出ることは不可能だった。

 「クソっ!!!! 消防署の点検はどうなってるッ!!!!」

 福部が怒鳴って柵を蹴りつけるが、がしゃんと大きな音がしただけだ。
 仕方なく建物の内側に入るドアを開く。
 すぐさまドアに鍵をかければ、これでひとまずは安心だろう。
 あらためて室内を見回すとそこは厨房のようだった。
 広い部屋だ。
 給食室にあるような巨大な蒸気窯はことことと音を立てており、炊飯器から蒸気の吹き出す音がする。
 野菜が煮込まれている匂いや、米の炊ける匂いが混じっている。何もなければなんとも平和的な場所だろう。
 ただ、人が働いていた気配は色濃く残っているのにスタッフの姿は見当たらない。

 「なんで誰もいないんだ」
 「分かりません。でも、もしいたとしても、スタッフからはなんの異常もないように見えてるんじゃないでしょうか」

 ついさっきまでの私たちと同じように、と。そこまで言わずとも福部も察したのだろう。苦々しげな顔で頷いた。
 スマートフォンを取り出して確認したが圏外になっている。なんとなくそんな予感はあった。それにもし警察に電話がつながったとして、正常に判断して貰えるか分からない。
 正常?
 そう考えて思わず笑いそうになる。
 正常ってなんだろうか。
 山姥に取り憑かれた老婆が人を食い殺したことが正常?
 本当に?
 狂っているのは私たちの方じゃなかろうか。そう思った方がよほどありえそうな話だった。
 駄目だ。落ち着いて。またパニックになりかけている。何も面白くもない癖に、笑い出しそうになっている。
 その時、ゴトンと何かが落下する音がした。
 音がした方に視線を向ける。そこにあったのは配膳用の小型のエレベーターだった。本来、人が乗るようにはできていない。だが恐らくあの音は、乗り込んだわけではなく縦穴を飛び降りてきたのだろう。
 エレベーターの入口がギシリと軋む。
 内側から無理やり開けようとしているのだろう。わずかに開いた隙間から、爪が伸び放題になった指が現れた。

 「くそっ!」

 福部はエレベーターに駆け寄ると「下り」ボタンを押し込んだ。ボタンが赤色に切り替わり、上階からカーゴが降りてくる。
 ヨネもそれに気が付いたのか、ドアを開けようとする指がガサガサと不気味に這いまわる。左右の指が隙間からはみ出し、ドアを押し開けようと蠢いた。
 ドアが開く。ヨネの上半身が隙間から身をよじるように這い出してくる。
 だが、遅い。
 降りてきたカーゴがぶつかって、ヨネがひしゃげた悲鳴をあげる。ぎゃあぎゃあとまるでカラスが泣き喚くような声だった。
 それでも床を引っかきながら、必死に這い出そうと足掻いている。

 「嘘でしょ?」

 里穂子は絶望の声を漏らす。
 ヨネの細く骨と皮ばかりの両腕が突き出され、なおも少しずつ前進する。体を押しつぶすカーゴをギリギリと押し戻しながら、ヨネは確実に這い出してきているのだ。
 おぞましさに吐き気がする。これはなんだ。目の前の血まみれになった老婆は、とても人間には思えない。
 福部も口もとを抑えながら、老婆から一歩、二歩と後ずさる。
 だが、意を決したようにそばにあったフライパンを手に取ると、渾身の力でヨネの頭に振り下ろした。

 「頼むッ! 頼むから死んでくれッ! くそ、くそッ!!!!」

 ガンガンと鈍器を振り下ろす鈍い音が幾度も響く。

 「福部さん、……福部さん、福部さんッ!! もういい、もういいです!! もう大丈夫ですッ!!!!」

 老婆は動かなくなっていた。
 それでもフライパンをふるう福部に、里穂子は必死に呼びかける。
 福部は呆然とした顔だった。ようやく里穂子の声が届いたのか、フライパンをその場にとり落とす。
 カランっと乾いた音がこだました。

 「ああ、くそ、なんで、……なんで、こんなッ……」

 福部の手は目に見えて震えていた。
 その手を包み込むように握って「大丈夫です」と声をかける。

 「大丈夫です。福部さん、大丈夫です。きっとここでの出来事はみんな正常に判断できません。だからきっと、ヨネさんが死んでも、事件にはならないと思います」

 同時にそれは、筒井の死もまっとうな捜査が行われないであろうという事だ。
 もし今までもスタッフたちが正常な判断ができていたならば、とっくにこの施設は閉鎖されていただろう。

 「行きましょう。逃げないと」

 福部の手を引いて鍋や炊飯器が並ぶ中を歩いていく。
 はやくここから逃げ出したい。逃げ出して、ここのスタッフたちと同じように何もなかったと思い込んでしまいたい。
 だが、部屋の半ばまで進んだところでガタンっと何かが閉まる音がした。
 振り返る。それは配膳用エレベーターのドアが閉まった音だった。そこにはヨネが挟まれていた。だがヨネの姿は見当たらない。

 「嘘でしょ?」

 だってヨネの頭は陥没していた。
 体だってカーゴに潰され、腰から下はほとんどもげそうになっていた。
 万が一生きていたとしても、とても動けるはずがない。
 ガサガサっと走り回る音がした。目の端に影が動くが、はっきりとした姿はつかめない。厨房も薄暗く、調理器具があちこちにあるために死角になる場所が多かった。
 その中をヨネが走り回り、時折なにかのお玉やフライ返しにぶつかってはガランガランと派手な音をたてている。

 「不死身なのか?」

 絶望した様子で福部が声をもらす。その顔はわずかな間に10歳は老けてしまったかと思うほど憔悴していた。
 不死身。
 ヨネは不死身なのだろうか。
 いや、そんなはずはない。だってもとになった山姥は一度退治されている。
 であるならば、その伝承をなぞらえた存在であるヨネも恐らく不死身ではないはずだ。
 ああ、そうか。
 里穂子は気づいてしまった。ヨネを、山姥を退治する方法は存在する。

 「福部さん、ヨネさんは山姥です。だから、彼女を退治するためには……」

 言いかけた途中でヨネが横手から飛びかかってきた。悲鳴をあげながらなんとかかわす。ヨネは身軽に着地すると、歯をむき出して威嚇する。
 再びヨネが襲い掛かる。振り払おうとした腕を噛みつかれた。
 牙が刺さり、骨まで軋む感覚に、今度は悲鳴すら出てこない。肉が引きちぎられる音がする。だがすぐにまた噛みつかれ、牙がより深くに食い込んだ。

 「いや、いや、放してッ!!!!」

 無我夢中で腹を蹴り飛ばそうとしてみても、ヨネはまったく怯まない。

 「このババァッ!!!!」

 雄たけびのように叫んだのは福部だった。
 背後からヨネの体を抱え上げる。いくらヨネの力が強かろうと、体重は小さな老人のそれなのだ。体は軽々と抱えられ、巨大な蒸気窯へと投げ入れられる。
 煮え立った湯と野菜があたりに飛び散った。
 同時に獣じみた咆哮が響き渡る。
 だが、それも一瞬だった。もがくヨネの体は鍋の中へと沈んでいく。
 福部も、里穂子もしばし呆然となっていた。
 周囲を満たすのはごぼごぼと沸き立つ鍋の音と蒸気ばかりで、つい先ほどまでの惨劇はまるで嘘のようだった。

 「終わった、の?」

 里穂子は呆けたまま呟いた。
 勝利したという実感がわいてこない。あまりに非現実的な出来事ばかりで、感覚が麻痺してしまっている。
 だが、極度の緊張が過ぎ去れば腕の痛みがぶりかえし、その痛みが現実だと告げてくる。

 「ああ、……終わった」

 福部が笑う。ひどくくたびれた笑みだった。
 その背後で、煮えた湯の中からヨネが立ち上がった。
 熱傷で皮膚はずる剥けて、その姿は悪鬼よりもおぞましい。それでもヨネは笑っていた。
 里穂子は何も言えなかった。
 恐ろしさに体が凍り付く。
 福部が里穂子の表情に気が付いて、双眸を大きく見開いた。そこにあるのは混じりけのない恐怖。
 福部がゆっくりと振り返る。
 すべてはスローモーションに見えていた。
 振り返る福部と、襲い掛かるヨネ。
 ヨネは福部の首筋に食らいつき、その体を抱え込みながら窯の中に倒れこむ。
 窯に上半身を突っ込んで、福部は必死にもがいていた。湧き上がる湯には見る間に鮮血が混じっていき、まるでトマトスープのようになっていく。
 福部の体は大きく何度か跳ね上がり、そしてまったく動かなくなった。
 里穂子は最後まで動けなかった。





 思考が鈍い。体が重い。
 どうやって厨房から出てきたのかほとんど覚えていなかった。
 無人だった受付を抜け、正面玄関から表に出る。駐車場に向かい自分の車に乗り込んでみても、まだ実感は沸いてこない。
 ただ、腕の痛みは酷かった。出血もまだ止まらない。
 病院にいかなくては。
 スマートフォンを見てみたが、相変わらず圏外のままだった。
 エンジンを入れる。アクセルを踏む。
 思考は鈍いままだけれど、動作は体にしみついている。
 駐車場を出て施設前の坂道を下る。逃げ出せたことが嘘のようだ。窓の外の景色は薄暗いが、そこはもうあの閉ざされた場所ではない。
 坂を下って、姉の家の前を通り過ぎる。
 少し先に神社が見えた。あそこを過ぎれば大丈夫だ。
 そう思うとアクセルを踏む力が強くなる。立ち去りたい。はやくここから逃れたい。
 エンジンがうなる。ハンドルを持つ手は痛みのあまり震えている。
 それでも先を急ぎたかった。
 もう少し。あと少しで逃げ出せる。
 あの神社をこえれば、もう山姥は追って来ない。
 スピードをあげる。
 その行く手に小さな影が飛び出した。
 女の子だ。まだ5歳くらいの小さな子。柔らかな髪を二つに結い上げ、花柄のワンピースを身に着けている。畑の真ん中だというのに、なぜか足元はスリッパだ。
 どうして突然。
 少女が笑って口をあける。「パパ~」と甘えたように話しかける声がなぜかはっきりと耳に届く。
 「陽菜」と語りかける声は後部座席から聞こえてきた。
 バックミラーには筒井と福部が映っている。二人とも全身が真っ赤に染まり、そのくせ顔は満面の笑みだ。
 少女が手を前に突き出して楽しそうに車に向かって走ってくる。
 ブレーキを踏む。タイヤが激しく悲鳴をあげる。
 止まらない。激突する。
 里穂子は思い切りハンドルをきった。
 車体が横転し視界が回る。
 そこで意識はプツリと切れた。





 「倉橋さん。倉橋里穂子さん。大丈夫ですか?」

 声をかけられてはっとなった。
 顔をあげれば看護師が心配そうに里穂子を覗き込んでいる。
 周囲を見る。そこは明るい病室だった。
 そうだ。そうだった。
 里穂子はあの場で事故を起こし、病院へと運ばれた。二週間ほど意識不明だったらしい。ただ幸いにも体の怪我は全治三か月ほどだと言う。

 「大丈夫です。ちょっと、ぼうっとしてしまって」
 「仕方ないですよ。まだ意識が戻って一週間ですからね。今日から普通食にしても大丈夫だって先生からご指示が出ていますけど、どうなさいますか? 食べられそうですか?」
 「はい、その、食べるのに時間がかかるかも知れないですけど」
 「いいですよ。ゆっくり食べてくださいね。それじゃあもう少ししたらお持ちしますね」

 病室は四人部屋だ。
 里穂子のベッドは窓際で、外の世界はまぶしい光に満ちている。
 帰ってきた。
 そう思っても、どこか心が落ち着かない。ずっと地に足がついていない、奇妙な浮遊感が続いている。
 ベッドに備え付けのテレビを見てもあの凄惨な事件は報道されていなかった。
 里穂子のもとにやってきた刑事からも、車の事故のことしか聞かれなかった。だから里穂子も、ハンドル操作を誤ったとしか答えていない。
 腕の傷も事故のさいにできたものだと判断されたようだった。
 これで良かったのかどうか分からない。
 分からないけれど、今の里穂子にはあの事件に向き合う気力は微塵も残っていなかった。

 「倉橋さん、お食事お持ちしました。ゆっくり食べてくださいね」
 「ありがとうございます」

 電動ベッドの背を起こせば、病床用テーブルの上にはプラスティック製のプレートがのせてある。
 スープとサラダ、それにご飯と煮魚だ。
 久しぶりにかいだ食事の匂いで鈍っていた感覚がほんの少しだけ戻ってくる。
 生の実感。
 帰って来れたという安堵感。
 スプーンですくってスープを飲む。やわらかな味がじんわりと口の中で広がっていく。
 はぁっとゆっくり息を吐いた。
 生きている。私はここで生きている。
 心に宿る暖かさと、その影に潜む罪悪感。
 お前は一人で逃げ出したとなじる声と、それ以外に仕方なかったと慰める声。
 ごちゃごちゃになる。それでも、生きている実感が心を大きく占めている。
 スープをすする。どろりっと何かが口の中に入り込む。
 なんだろう。妙な感覚だ。
 表面は硬くて中はゼラチンのような柔らかさ。
 気持ちが悪くて、スプーンの上に吐き出した。
 里穂子はそれと目があった。
 スプーンの上にあるのは眼球だ。
 スープはミネストローネで、トマトの赤い色をしている。
 違う。トマトじゃない。
 この赤は、あの人の血の色だ。
 福部さん。
 ヨネに頸動脈を食いちぎられ、もがきながら鍋に沈んでいったあの人の血。
 ぎょろりっとスプーンの上の目が動く。
 目は里穂子を見つめている。
 カーテンで区切られた隣のベッドからは手をたたく音が聞こえてくる。
 真っ赤なスープ。ウジ虫のご飯。煮込まれた手首にサラダ代わりにこんもりと盛られた誰かの髪。
 里穂子は悲鳴をあげていた。
 食事のプレートを勢いよく押しやれば、それは床に落下する。

 「倉橋さん、倉橋里穂子さん。大丈夫ですか。大丈夫ですか? 倉橋さん、聞こえてますか? 倉橋さん?」

 看護師が駆け込んできて暴れる里穂子の背をさする。

 「大丈夫、大丈夫ですよ。もう大丈夫ですから」
 
 里穂子は看護師に抱きついた。
 床にぶちまけられたスープはただのミネストローネに戻っていて、ご飯もただの白米だ。
 おかしい事は何もない。
 あれは幻。あまりに恐ろしいことが起こったから、心の一部が故障して、あんな幻覚を見せたのだ。
 あれは幻覚。
 幻覚だ。
 もう終わった。
 全部終わった。
 里穂子は看護師に抱きついたまま、子供のように泣きじゃくった。





 あの事件から半年が過ぎた。
 里穂子も病院から退院し、今では月に一度だけ経過確認のために通っている。
 車も駄目になってしまったし、里穂子の腕には軽い麻痺が残っている。縫合後ははっきりと残り、肉がえぐれた場所はこれからも無残な傷として残り続けることだろう。
 腕の不自由さはリハビリで良くなるかもしれないが、完全に治るかどうかは分からない。
 それでも一つだけ良いことがあった。
 姉の佑衣子が少しずつ良くなってきているのだ。
 きっかけは佑衣子に赤ちゃんが宿っていると判明したことだった。
 それから佑衣子は少しずつ正気を取り戻した。大きくなっていくお腹をさすっていると、母になる実感が沸いたのだろう。佑衣子は責任感の強い人だった。だから、生まれてくる子供のために、壊れた心を必死に治しはじめたのだ。
 今、佑衣子と里穂子は同じマンションに住んでいる。
 あの家は少し前に売り払った。
 中にあった荷物は業者に任せてほとんどそのまま処分した。
 一部、姉の私物に関しては引き取りに行こうとしたものの、あの土地に再び踏み込むのはあまりにも恐ろしかったから、父と母がかわりに立ち会った。
 父も母も、姉妹が立て続けに入院したことによって、将来は自分たちで何とかしなくてはと考えるようになったらしい。ただその手段として株を始めただなどと言っていたから期待しない方がよさそうだ。

 「お姉ちゃん、ココア入ったよ」

 佑衣子は冬のあたたかな日差しを浴びながら、窓際のソファに座っていた。
 穏やかな表情で随分と大きくなったお腹をゆっくりと撫でている。

 「ありがとう。……あ、……」
 「どうしたの?」
 「今、赤ちゃんが動いたの」
 「ほんと? 触ってみていい?」
 「もちろんよ」

 佑衣子が穏やかな顔で笑う。
 その表情に里穂子は心から安堵する。
 膨らんだお腹に手で触れて、それからそっと頬を近づける。
 耳をぴったりと押し当てれば、心音が聞こえるんじゃないかと思ったのだ。

 「あ、ほんとだ。ちょっと動いた」
 「でしょ? ふふふ、可愛いわね」
 「そうだね」

 里穂子は頷く。
 可愛い。赤ちゃんは可愛い。まだ出会う前から、こんなにも愛しく思えるのだ。
 佑衣子は幸せそうに微笑んだ。

 「本当に本当に可愛いわ。可愛すぎて、……食べてしまいたくなっちゃうわね」

 佑衣子は笑う。
 笑う口角が不自然なほどに吊り上がる。
 やけに尖った乱杭歯が唇の隙間から覗いていた。

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