インシデントナンバー106:あなた方の幸せのために
人って死ぬんだな。
両親の葬儀のさなかに思ったのは、そんな何とも間抜けなことだった。
人が死ぬのは知っている。30年ほどの人生の中でも、何度か人の死には立ち会った。
死、という概念に対して、自分はドライな方だと思う。
死んだら終わり。そこでプツっと電源が切れて後には何も残らない。あの世なんて信じていないし、幽霊も見たことがないから多分いないのだと思っている。
でもその部分はちょっと複雑で、幽霊と言われるものはそこに染みついた記憶なのだと言うならば納得できる。
例えば瞼の裏に残っている両親の姿。
ぱち、ぱちと目を閉じると、僕の瞼は映写機の代わりになって過去の映像を映し出す。
両親に両手を引かれながらホップステップジャンプをしたこと。その直後に父がぎっくり腰になったこと。
どこかの高原で食べたちょっと固いカップ麺。あの時は父が魔法瓶に熱いお湯をいれて持ってきていたけれど、カップ麺を食べるころには少し冷めてしまっていた。だから麺が固かったのだ。
たくさんの記憶は、夏の逃げ水のようにして少し遠い場所に現れては、近づけばどこぞかへ消えていく。
これが幽霊だと言うならば、確かにそうなのかもしれなかった。
でも僕は知っている。これは僕の記憶の再現であって、そこに魂は存在しない。
幽霊に魂の是非を問うなんて愚かしいかもしれないけれど、つまりそれは幻なのだ。
だからやっぱり人は死んだらそれきりだ。
もうじき両親が火葬場に入るに至っても、ただただ不思議な気持ちでいっぱいだった。
人って死ぬんだな。
でも、本当に死ぬと思わなかった。
原因が交通事故だったこともあり、棺の蓋は固く閉じられている。遺体を確認するのも警察にやんわりと止められた。
そのせいか余計に実感が沸いてこない。
頭にあるのはひたすらの疑問符。昨日までの日常が終わってしまったことがまったく理解できなかった。
うまいこと飲み込んで悲しみに変えることに失敗したのは、僕が不器用だったからか、あるいは器用過ぎたせいだろう。
一人きりになった生活になじむのは思ったよりも早かった。
感情と行動を分けるのは僕の得意とするところだ。
やる気が起こらなくても規則正しい生活をして、三食きっちりとご飯を食べる。適度に運動をし、仕事もそつなく終わらせる。
ふとした瞬間に湖面を揺らすさざ波のように感情が溢れることがあったけれど、それでも僕は今までの生活水準をキープした。はたから見れば、僕は少しばかり冷たい人間に思われていたのかもしれない。
まぁ気にするものか。
そもそもにして30歳を過ぎて実家暮らしの男性に向けられる視線というのは、何とも刺々しいものなのだ。
そのメリットをいくら説明したところで、子供部屋おじさんなどと笑われる。
親族からもなぜ独立しないのかと幾度となく尋ねられてきた。
逆に、なぜ独立しなければならないのか。
経済は冷え切り、給料は横ばいにも関わらず、物価は目に見えて上がっていく。高齢化は進む一方で、やがて両親の介護は自分が受け持つ事になっただろう。そのためには会社を辞めることになる可能性だって十分にある。
将来を思えばこそ、何よりも貯蓄が必要だった。
その観点だけとってみても家を出るのはデメリットしか感じない。
親に家事を丸投げしていた訳でもなかったし、給料の半分は生活費として渡していた。誹られる理由は何もない。
それでも世間は僕を軟弱もの扱いし、後ろ指を指して笑っていた。
だから僕はがらんどうになったような家で一人きりで過ごしていても、そこに尋ねて来るものがいなくとも、とくに苦痛ではなかったのだ。
家事が増えた分だけ単純に忙しくなったものの、それはかえって日常をやり過ごすことに役立った。
疲れたらその分だけ深く眠ることが出来るのだ。
僕は漠然と、けれど規則正しく生きていた。
僕の家は築30年ほどの日本家屋だ。つまりこの家は僕が生まれたのとほぼ同じころにここに建てられた事になる。
30年も経てばあちこち古くなっている場所もあるが、かと行って目に見えて古めかしいというほどでもない。
一階にはリビングとキッチン、それに仏壇が置かれた小さな和室がある。仏間という訳ではなく、冬などは炬燵を置いてのんびりと過ごす日もある部屋だ。
その部屋には随分と昔から三面鏡が置かれている。
鏡の中に母の姿を見つけたのは、49日を少し過ぎたころのことだった。
初めて見た時には気のせいだと思ったのだ。
それはさっと影が通り過ぎる程度のものだった。ただその影が見覚えのある服を着ていたように見えた。
その後も僕は時折、何者かの影が通り過ぎるのを目撃した。
見えたと思って目を凝らした時にはすでに消えてしまっていて、はっきりと確認するのは難しい。
横切った影は母のように見えたけれど確信にはいたらない。
そもそも見える筈などないと言うのに。
僕は自分が想像している以上に感傷的になってしまっているのだろうか。
それとも、罪の意識にさいなまれているのだろうか。
冷静に考えて、あの事故において自分に責任はないだろう。僕は後部座席にいて、父は運転席に、母は助手席に座っていた。
朝のニュースでは何度も聞いたようなよくある事故。
居眠り運転の車が中央分離帯を乗り越え、反対車線を走っていた車に激突した。
そうして、後部座席に座っていた僕だけが助かった。
後部座席でもシートベルトをしめていたのが幸いしたと、僕を治療した医者は言っていた。なるほど世の中には後部座席ではシートベルトをしない者も多いらしい。
我が家では当たり前のことだったので、まるでピンとこなかった。
何にせよ僕は生き残った。
僕だけが生き残った。
あの時、少し前のインターチェンジで僕は運転を変わろうと申し出ていた。
だが父は「お前は仕事で疲れているだろう」と言って断った。それでも食い下がると「それならばコイントスで決めよう」と言い出した。
父は昔から洋画かぶれで、何かの折につけてコイントスをして決めるのが好きだった。
珈琲か紅茶かで悩んだ時。
山手線で内回りか外回りかどちらが早いか悩んだ時。そんな事はコインで決めるよりも調べたほうが早い筈だが、父はそういう人だった。
僕にはそれが煩わしく感じる事もあったけれど、多くの人からしてみると、父は茶目っ気があると言われて好かれていた。
だが僕が生まれた時に名前候補を二つまで絞った後、最後はコインで決めたと聞いた時には流石に呆れたものだった。
あれが父の冗談だったのかは、もう永遠に分からなくなってしまった謎の一つだ。
そう、あの時もインターチェンジでもどちらが運転するかでコイントスをして、そうして僕が負けたのだ。
いや正確に言えば僕の運命が勝手にコインの上に載せられて、空中に放り投げられた。
まさかあのコインが本気で運命を分けるなんて、誰が想像しただろう。
僕にとって一番腹立たしいことは、あのコイントスの結果を両親は心から喜んでくれているだろうと、疑いなく思えることだった。
愛されていたと自信をもって言えるのは、きっとどんな幸せにも勝るだろう。
もっともそれは、もう二度と手に入らないものとして、深く深く僕を抉り抜いた傷跡になってしまったけれど。
僕の日常は色あせたまま、ただゆっくり時間を浪費して過ぎていく。
そしてようやく三面鏡にうつった母の姿をはっきりととらえたのは事故から半年が過ぎたころの事だった。
びっくりするくらいにやつれた顔。
一瞬、別人かと思うくらいに母の顔は頬の肉がそげおちて、表情も石のように動かない。以前は綺麗に染めていた髪も、今は白髪そのままになっており十歳は老けたかのようだった。
母は鏡の前にいるのに、その瞳は何も見てはいなかった。
この世のすべてに興味がなくなってしまったような顔だ。
僕はしばし唖然とし、それからゆっくり鏡の表面に手をのばした。
当然、鏡は冷たく固く、そこに母の感触などある筈もない。
それでも僕は鏡に手を触れると、絞りだすようにして「母さん」と鏡の向こう側へ呼びかけた。
母の表情は呆けたまま変わらなかった。
もう一度「母さん」と呼びかける。
そこでようやく母はわずかばかりに反応をみせた。億劫そうに目を瞬かせ、そうして、確かに目があった。
その瞬間の母の反応は劇的だった。
双眸が大きく見開かれ、唇が小刻みに震えだす。こぼれそうな瞳には見るまに涙が溢れ出し、それは一瞬にして崩壊した。
あんな風に泣く母を僕ははじめて目撃した。
やがて異変に気が付いたのか、鏡の向こう側に父が現れ、慌てて駆け寄ってきて母の肩を抱きしめる。
「父さん」と僕が呼びかけると、父もまた僕の存在に気が付いた。
そして父も肩をふるわせ、涙をぼろぼろとこぼして泣き出した。
僕は泣かなかったと言いたいけれど、実際のところは今までの人生でないくらいに嗚咽を漏らして情けないくらいに泣きじゃくった。
両親を失ったあの日からずっと心にため込んできた悲しみが一気に吹き出して、涙は堰を切ったように溢れ出し、まるで洪水のようだった。目玉が溶けてしまうんじゃないかと思うほど、泣いて泣いて泣きまくった。
僕と両親は半年ぶりに、鏡を挟んで巡り合うことが出来たのだ。
お互いが落ち着くのは大分時間がかかってしまった。
それでも何とか話せる状態になってからは、何があったのかを語り合った。
どうやら鏡の向こうの世界では、インターチェンジでコイントスに負けたのは父だったそうだ。
そして僕が運転し、同じように事故にあった。
それ以外のことはほとんど変わり映えがしなかった。
裁判の結果も変わらず、相手の十割過失で片がついていたし、新しく車を購入するかわりに親族の中古車を貰い受けた。
俳優のスキャンダルに有名作家の訃報。近所のスーパーがなくなったこと。
それらはまったく同じだった。
世界は僕らがどうなろうと関係なく、同じ速度で回っている。
「パラレルワールドってやつかな」
あれこれと話した結果、僕らの状況に相応しい言葉はそれくらいしか見つからない。
二つの世界がどうしてつながったのかも分からない。
確かなのは、それがお互いにとって救いであるということだ。
平行したどこかの世界では、自分の大事な人が息をしてちゃんと生きている。
それが分かるだけでどんなに心が安らぐか。
それからの僕らは鏡をはさんで以前と同じように、時間を分け合って過ごすようになった。
僕は務めているから昼間はほとんど会えなかったが、帰ってきた部屋に鏡ごしとはいえ家族が待っているのは嬉しかった。
朝、会社に行く前に「今日は駅前のスーパーで豚肉がセールだよ」と教えてもらい、会社帰りに買って帰る。
聞けずじまいだったレシピも今更になっていくつも教えてもらうことになり、夕ご飯が同じものになることも多かった。
「あんたの大根の切り方はまだまだだ」なんて言われて笑いあう。
それは何と幸せなことだろうか。
両親を亡くして気づいたことは、その時は何でもなかった瞬間が思い出せば最高の幸福だったと言うことだ。
だから僕は一緒に食事をして、里芋が美味しいだとか、そろそろフキノトウの季節になるねだとか、そんな会話にたくさんの幸せを感じ取る。
僕らの生活は平和で、幸せで、穏やかだった。
けれど世間では少しずつ奇妙な出来事が起こるようになっていった。
先ぶれとなったのは2月に狂い咲きをした桜だろう。
日々、最低気温を更新する中で一斉に咲きだしたソメイヨシノは、奇異な出来事でありながらも人々の目を楽しませた。
だがやはり咲くのが早すぎたのか、散っていくまでもあっと言う間の出来事だった。
その次は東京湾にザトウクジラの群れが現れた。
今までも東京湾にクジラが目撃されたことは何度かある。
しかし体長10メートルを越す成体の群れが現れたのは恐らく初めてのことだろう。
人々は熱狂し、クジラを見るために海浜公園に押し寄せた。
だが、船舶の運航に携わる人々にとってみれば、湾内に入り込んだクジラは危険極まりないものだった。海上自衛隊はどうにかしてクジラを湾の外へ誘導しようと試みたが、全てが失敗に終わっていた。
最終的にクジラの群れは多摩川の河口付近へ侵入した。
多摩川の河口は入口こそ水深が20メートルほどはあるが、そこからどんどん浅くなり羽田空港が横手に見える頃には深さは1メートルほどになってしまう。
淡水が混ざりあうことにより浮力が減少したことも、クジラたちを弱らせる原因になっただろうか。
かくしてクジラたちは多摩川河口を埋め尽くすように、次々と打ち上げられて息絶えた。
4月には長野県で蝗害が発生した。
日本国内での蝗害の発生はあまり馴染みがないが、特定のバッタが異常繁殖した例は何度かある。
今回はトノサマバッタが急速に数を増やし、田畑に飢えられたばかりの苗のおおよそ全てを食べ尽くした。
その後、バッタは愛知県、静岡県、山梨県にも飛来した。
バッタの被害は、別の異常事態によって収束した。
5月頭に上陸した台風は、本州に上陸したものでは昭和31年4月25日に鹿児島に上陸したものに続く2番目に早い記録だった。
この台風により蝗害は急速に収束したものの、各地で水害が発生し大変な被害をもたらした。
奇妙な事件はまだ続いた。
都内の動物園では猿山の猿たちが突然殺し合いを始め、半数の猿が死亡した。
新宿の高層ビルのは数千羽のムクドリが窓に激突し、次々と死んでいくという事件も発生した。降り注ぐ鳥の死骸に新宿は大混乱に陥った。毒ガスが散布されたという噂がSNSで拡散され、混乱にさらなる拍車をかけ機動隊が出動するほどの事態へと発展した。
僕らはそんな報道を眺めながら、幸せな日常になにかがそっと忍び寄ってくる気配を感じていた。
少しずつ世界が狂っていく。
日常が歪み、傷口がじわじわと広がっていく。
だが僕らには関係ない。
そう思い込もうとしながらも、僕らは息をひそめて怯えていた。
鏡越しにささやかな幸せを分け合って過ごす日常が、異常であることくらいは分かっている。
そんな僕らのもとへ久地楽と名乗る男が現れたのは、どんよりとした梅雨空が街を覆い始めたころだった。
「国立科学研究所の久地楽と申します」
久地楽と聞いて、最初に思い浮かんだのは多摩川の河口に横たわるザトウクジラの群れだった。
目の前の男もあのクジラたちと同じような色のスーツをまとっている。
久地楽は実に不思議なことに、鏡のこちら側と向こう側で、ほぼ同時に我が家へ尋ねてきた。
僕らは互いに慌てて鏡を隠そうとしたけれども、久地楽は「鏡のことは存じ上げています」と告げてきた。
その時点で僕らは、この男を追い返す術を失ったようなものだった。
もっとも、彼を家に招き入れる事となった理由の一つは、久地楽の後ろに止まっていた黒塗りの車の横に、同じく黒いスーツをまとった複数の男たちが立っていたこともある。
国立研究所という肩書が嘘であれ本当であれ、力のある組織であることには違いない。
仕方なく僕らはそれぞれの和室へ久地楽という男を招き入れた。
二人の久地楽は鏡の中の自分の姿を確認したものの、動揺した素振りは見せなかった。
「突然の訪問でご迷惑をおかけいたします。本日は是非、ご協力して頂きたいことがあって参りました」
そうして久地楽は丁寧に頭を下げると、奇妙で、信じがたい事象について語りだした。
「そこにある三面鏡は我々の組織で『インシデントナンバー106:あなた方の幸せのために』と呼ばれているオブジェクトです。
該当のオブジェクトがはじめて観測されたのは、1894年イギリス西部にある田舎町です。そこに住んでいた老夫婦が所有していた鏡がもっとも古いオブジェクトとされています。
このオブジェクトは不幸があった人の家の鏡やテレビに成り代わる形で出現します。
そして平行世界において生存してる大切な人間とをつなぐためのポータルとして機能します。
オブジェクトに悪意は見あたらず、不幸にも親しい人間を亡くした者と、対象が生存している平行世界と結びつける役割を果たすものに過ぎません。
よってオブジェクトは『あなた方の幸せのために』と名付けられたと記録されています。
しかしながら、平行世界をつなげるという行為は時空に多大な負荷をかけ、それぞれの世界には徐々に歪みが発生することとなります。
歪みがもたらす事象に関しては、見当がついていることでしょう」
久地楽はそこで言葉を切った。
僕らがオブジェクトと呼ばれるものに対して理解する時間を与えてくれているのだろう。
「……それで、あなたは何をしに来たんですか? 鏡を割りに来たんですか? それとも僕たちを消しに来たんですか?」
僕が尋ねると久地楽は首を横に振る。
「いえ、私はあなた方に協力をお願いするために参りました。事象の深刻さに関してご理解を頂けましたら、今後は鏡を通して交信することを禁止して頂きたいのです」
それを聞いて僕は思わず笑ってしまう。
「どうして『お願い』なんですか? 事態は深刻なんですよね。だったらなぜ直接的な手段に講じないんですか? 僕らがここで頷いたところで、本当にあなたの提案に従う保証なんてないじゃないですか」
「我々の組織はオブジェクトを管理し、平和を維持することを目的としています。直接的な手段で訴えるといった行為は組織の理念に反します、……と言っても信じては貰えないことでしょう。ご想像の通り、我々の組織はオブジェクトの影響の程度と範囲により、いかなる手段をもっても対策を行使することを容認しています。
しかし本件においては直接的な対処が事態を悪化させると判断されたため、こうしてお願いにあがりました」
「悪化させる、というのは。以前に該当者を始末して大災害が起こりでもしたんですか?」
「いえ、違います。直接的な手段を行使したという記録がただの一つも残っていないのです」
どういうことだ、と僕が首を傾げると、久地楽はゆっくりと話し出した。
「このオブジェクトが周囲に与える影響は甚大です。しかし発生の過程から想定するに、オブジェクトの所有者が速やかに手放すとは考えにくい。よって、過去において一度ならず直接的な排除が行われた可能性が高いでしょう。
しかし、その記録がいっさい残っていないとしたら、それは一体何を意味しているのか。
我々の組織では、オブジェクトを強制的に排除した結果、その平行世界は消滅したと考えています」
「では、僕らが手放すことを拒否したらどうなるんですか?」
「……その記録も残っていません。よって、オブジェクトが放棄されず、影響を与え続けた世界線も喪失したものと考えられます」
僕は思わず笑ってしまった。なんの変哲もない僕ら家族のささやかな幸せが世界を壊すことになるなんて、そんな馬鹿な話があるだろうか。
「それじゃああなたは、世界平和のために僕たち家族に幸せを放棄しろと言いに来たんですか?」
「違います。お互いの世界線においての事実をありのままに受け入れて欲しいとお願いに来たのです」
「馬鹿馬鹿しい」
僕は鼻で笑った。
「知りませんよ、世界のことなんて。その前に僕らの世界は粉々になったんです。それでも世界が何も変わらずに流れていた。僕らのささやかな幸せが壊れたことなんて誰も気にかけやしなかった。それなのに僕らに犠牲になれだなんて。あいにくと僕は自分の幸せを捨てるほど、世界を愛してはいないんです」
帰って下さい、と言うと久地楽は大人しく立ち上がった。
そして「もう一度よく家族で話し合ってご検討をお願いします」と言って去っていった。
その後、僕らはしばらくは事態を話しあうことはなく、務めていつも通りに過ごしていた。
平和だった日々は、恐る恐る薄氷を踏むような日々へ変わっていき、いつまた砕け散るかもしれない不安が常に心の片に付きまとう。
僕らは久地楽が再び尋ねてくる事に怯えていたが、結局、彼が来たのはたった一度だけだった。
世界は緩やかなスピードでだが少しづつ確実にゆがんでいった。
始めのころ日本だけだった事象は世界中に広がりつつあった。大陸で発生した蝗害は真っ黒に空を多いつくし、億単位の餓死者が出るだろうと言われていたし、カリフォルニアのビーチには大量のマッコウクジラが打ち上げられた。
各地で渡り鳥の大量死が報告され、地面を埋め尽くす死体がニュース番組で放送された。
僕は見ないふりを決めこもうとしたけれど、両親はしだいに僕の住む世界が壊れていくことを気に病むようになっていった。
そうして、ついに僕らが決心しなければいけなくなったのは太平洋沖で発生した巨大な台風が東京を直撃するというニュースが流れるようになった頃だ。
異常気象により海面の温度は今までにないほど上昇し、それが台風を恐ろしい速度で成長させた。
中心気圧は890ヘクトパスカル。人工衛星からもはっきりと台風の目が分かるほどで、それはまるで地球がぱっくりと目を見開いているかのようだった。
台風はそのまま関東に直撃するコースをとっていた。
いったいどれほどの被害が出るのか分からない。僕らの家は多摩川から比較的近い距離にあったから、ほぼ確実に浸水するだろうと予想された。
僕らが愛した家がなくなってしまう。
そこでようやく僕らは重い腰をあげざるえなくなったのだ。
「ねぇ、僕の名前をコイントスで決めたっていうのは本当だったの?」
最後の会話だと決めた日に、僕は長年気になっていたことを父に尋ねた。
僕の問いかけに父は顔をくしゃくしゃにして笑ってみせる。
「その前に百個も考えてようやく二個まで絞ったんだ。どうしても決められなくって神様に聞いたんだよ」
「百個って、冗談でしょ?」
僕が言うと、母が嬉しそうに語りだした。
「本当よ。お父さんったらあなたが生まれるまで毎日ひとつは名前を考えるってノートに書き出してたの。だからもっと多かったわ」
「ちなみに、最後に残ったもう一個は?」
「剛樹だよ。つよい樹と書いてゴーシュ。あの頃はセロ弾きのゴーシュにはまってたんだ」
「コインがそっちを選ばなくて良かったよ」
僕は軽やかに笑い、最後はいつも通りに「おやすみなさい」と言って鏡を閉じた。
いつもと何も変わらないとても静かな夜だった。
翌日僕は久しぶりに車で出かけることにした。
都会の喧噪を抜け出して、目指す先は海沿いを走るドライブウェイだ。
この道路は、小さなころに家族で何度も訪れた。海浜公園で一日過ごし、夕飯は浜辺の磯焼き小屋で貝や魚をたっぷり食べて帰るのだ。
台風はまだ遠くにあるせいか、空はまるでペンキを塗ったような鮮やかすぎる青だった。
上機嫌に鼻歌を歌いながら、滑るように車を走らせる。
なんとなく、父と母も僕と同じようにドライブに出ているような予感がした。
もしかしたら、今この瞬間、そっくり同じ場所を走っているんじゃなかろうか。
そんな風に思えてくる。
バックミラーを覗き込めば、そこに父と母が映っているが見えそうだ。
緩やかに曲がるコーナーに向け、アクセルを限界まで押し込んだ。
そうして僕は道路とは反対に向かってハンドルを切る。
ガードレールを突き破る感覚は思ったより、ずっと呆気ないものだった。
飛び出した先は空と海とで二分された、どこまでも続く青い世界。
僕の体は浮き上がって青に深く吸い込まれる。
さぁこれでいいだろう?
──── あなた方の幸せのために。