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キ域_03
「内見、キャンセルだそうです。まぁ無理もないですよね」
新田潤平は受話器をおくと勢いよく背もたれに体を預けた。
途端に部長からジロリと睨まれて、慌てて姿勢をもとに戻す。
「こら、潤平君。それは触れちゃ駄目だって言ってるでしょ?」
小声で注意してきたのは隣の席の牧野美沙だ。
牧野は潤平の先輩社員だ。おそらく30代後半だろうが詳しい年齢は聞いていない。2年前、潤平が会社に入った時に研修をしてくれたのが牧野で、それ以来も何かと一緒に仕事をすることが多かった。
潤平は大手の不動産会社に務めている。
正確に言えば、大手不動産会社が持つ子会社の支店に勤務している身だ。
ここ数年、潤平のいる支店ではかつて限界ニュータウンと言われていた土地の再生に力を入れている。
限界ニュータウンといっても実情は様々で、現在ではある程度はインフラなどが充実してきているけれど土地や家屋の持ち主が不明になり空き家が多い地区もある。
そういった地域を調査し、安い値で買い上げてリフォームする。
元々、親会社がニュータウンに関わっていた場所も多いことから、比較的順調に進んでいたのだ。
潤平のいる支店でもリフォームされた家に複数の内見予約が入っており、このまま軌道に乗れば地区全体の活性化も見込めた筈だった。
ところが、そこに来て悲劇がおきた。
入居してわずか数か月の家族が一家心中という事件を引き起こしたのだ。
そのために同時に売りに出していた家への内見予約が次々にキャンセルになってしまっている。
事故物件そのものに住む訳ではないのだからいいじゃないか。そう思う反面、自分が大金を出して住まうならば、やはりそんな不吉な家のそばは嫌だと思う。
仕方ない。
平社員の潤平ならばその一言で済むものの、部長ともなればそうも言ってられないらしい。
それゆえにこの所、部長は機嫌が悪かった。
「新田、牧野!」
その部長に名前を呼ばれ、慌てて潤平は立ち上がる。
「はい!」
少し遅れて牧野も席を立ち上がった。
「またキャンセルか?」
「はいそうです。一時間後の予定だったんですが、キャンセルになりました」
「そうか。……仕方ない。まぁだがスケジュールは開けてあったんだろ。丁度いいから物件の確認に行ってきてくれ。あの事件のせいでユーチューバーだとか何だとかがうろうろしてるらしい。荒らされてないか確認しろ。それと、事件があった隣の家の、……」
「あの夫妻ですね」
「ああ。そこにも挨拶をしておいてくれ」
「分かりました」
頷いたものの、どう挨拶をしろと言うのだろう。
お隣で殺人事件があってすいませんでした。その後、住み心地はいかがですか? とでも聞けばいいのだろうか。
「牧野、お前も付き合ってやれ。今度はちゃんと中に入って確認するんだぞ」
「……分かりました」
牧野はいかにも気乗りしない顔だったが、大人しく頷いた。
「それじゃ行こうか、潤平君」
牧野が社用車のキーを持って歩き出す。潤平もブレザーを手に取ると急ぎ足で後を追いかけた。
ハンドルを握る牧野はどこか落ち着かない様子だった。
こういう事は珍しい。牧野は社内の他の女性に比べて、感情の起伏が緩やかな方だ。潤平には二人の姉がおり、どちらもなかなかに激しい性格をしているので、牧野の安定した情緒がどれだか有難いか身に染みている。
その牧野が運転をしながら、絶えずハンドルを指でタップし続けている。
「牧野さん、あの家が苦手なんですか?」
潤平が尋ねると牧野は困った顔で眉尻を下げた。
「あの家がって訳じゃなくてね。あっち側が苦手なのよ」
「あっち側?」
「そう。神社より山側の方がね」
窓の外には長閑な風景が広がっている。密集した住宅地を抜けたあとは田畑が目立ち、視界も開けていて心地よい風景だった。その先には小高い山が。さらに奥にはより高い山が連なっており、遠くへいくほど空の青に透ける色になっている。
「そういえば牧野さんってこの辺りの出身なんですよね。何かあるんですか?」
「言ったら笑うわよ」
「笑いませんって」
潤平が言うと、牧野は少し黙り込んだあとに口を開く。
「山姥がいるの」
「え?」
思わず聞き返すと、牧野は気まずそうな顔になる。
「子供の頃に散々言われたのよ。山の方には近寄るな。近寄ると山姥に攫われるぞって」
「ええと、その、……でも、いないですよね。山姥なんて」
「それは分かってるわよ。けど、そう言われて育ったんだもの。それにね、あそこの神社」
牧野が指さした先には田畑の中にぽつんと神社が建っている。
「あそこに祀られてるのも山姥なのよ。山姥っていうか、山姥を退治するのに使った岩がご神体なの」
「岩で退治って。投げつけでもしたんですか?」
「違うわよ。山姥を窯茹でにしたの。その時に上に載せていた岩が祀られてるのよ」
「窯茹でって。思ったよりエグいですね」
「昔話って以外とそういうの多いじゃない?」
言われてみれば、昔話にはぎょっとするほど残酷な話が存在する。子供の頃はさして何も思わなかったが、稲葉の白兎やかちかち山のタヌキなど、大人になってから改めて聞くとなかなかに凄惨な話だった。
「それにね、実際、この辺りってたまに子供が行方不明になるのよ。私が小学生だった頃ににも2人くらいいなくなったの」
「え、そうなんですか?」
「そうよ。他にもまぁ、あの辺は色々あったからね」
「色々?」
潤平は思わず聞き直した。
「え? 何かあったんですか? これから会いに行く夫妻って、本社の田崎さんの紹介でしたよね。まさか事故物件薦めたなんてことは」
「違うわよ」
牧野はすぐに否定した。
「あそこは事故物件じゃないわ。ただあの辺りで事件があったってだけ。私の子供の頃だったからよく覚えてないけどね。両親も子供には聞かせたくない話だったのかニュースとか全然見せてくれなかったし」
「え、それ初耳なんですけど。自分もあそこを紹介する時にちょっと調べて見たけど、事件なんて何も出て来なかったですよ」
「そうでしょうね。地名が変わってるもの。ニュータウンの建設に失敗した挙句、事件が起こって評判ががた落ち。その後、再開発して老人ホームや病院が建った。その一環としてイメージアップのためにあの辺の町を合併させて地名を変えたのよ」
「なるほど。そりゃ、この辺に住んでないと分かりようがないですね」
「本社のお偉いさんは当然知っていたでしょうけどね」
牧野は肩をすくめてみせた。
この近辺の事情は複雑だ。
先駆けは1980年代に大手企業がこのあたり一帯を買い占めて開発したことだと聞いている。
それまでは家がぽつぽつとあるもののほとんど雑木林だったんだそうだ。当時は100軒以上の家を建てる予定で、開発計画には裏の山も含まれてた。ただ結局、裏山の開発は住民の強い反対があって断念することになる。
そこからも順調、とはいかなかった。
開発途中でバブルが崩壊したのだ。それに伴ってインフラを担当してた業者もどんどん潰れた。
結局、ニュータウン化は失敗。
計画の3分の1も家をたてることが出来なかったし、当初予定されてた国道の延長や大型ショッピングモールの建設なんかも有耶無耶になった。
すでに家を買ってた住人からは苦情が殺到したが、肝心の企業が倒産しててどうしようもない。
インフラ設備の管理もままならなず、越してきたもののどんどん離れていく人が多かった。
その結果、限界ニュータウン、あるいはほとんどゴーストタウンという有様になってしまった。
だが、ここ10年ほどで売れ残った土地に老人ホームや病院が建ったお陰で道が整備され、バス停が出来た。
そこで改めて再開発をということで、家を買い取ってリフォームして売り出したそうだ。この辺り一帯は地価が暴落してたから、かなり安値で買い取れたらしいと聞いている。
ただ、潤平が聞いていた事情以外にも、後ろ暗い事件があったらしい。
どこまでも曰く付きの土地なのだなと、いっそ感心してしまう。
「牧野さんが内見の時に中に入らなかったっていうのも、その事件の話とかが関係してるんですか?」
件の家の夫妻が内見に訪れた際、引率していたのが牧野だった。ところが牧野は家の外で待っていたそうで、本社から指摘を受けたのだ。
その話を聞いた時、潤平はとても驚いた。
牧野は仕事熱心だ。熱意があるのとはまた違うが、仕事に関して責任を持ちきちんと最後までやり遂げる。恐らく牧野はどんなことをやらせても、しっかりこなしてみせるのだろう。
「あの時はちょっと、……体調が悪かったのよ」
牧野は僅かばかり悩むような間をおいたが、結局は回答をごまかした。
仕方なく「そうでしたか」と頷いてかえす。これ以上、食い下がるのは難しい。
話すネタもなくなって、窓の外へ視線をむける。ちょうど先ほど牧野が話していた神社を通り過ぎたところだった。
田畑の真ん中にある神社はそこだけがまるで島のようだ。その神社を過ぎたあたりから家がまばらになっていく。山際には老人ホームや病院があるものの、民家は目に見えて数が減る。
病院もいわゆる総合病院や町医者とは異なっており、長期療養型ばかりだった。
つまり、なかなか治る見込みのない患者が他の病院から転院してくる場所だった。あるいは、付きっきりでの介護が必要な患者も受け入れていると聞いている。そのために入院患者の九割以上が高齢者だ。
療養型病院と老人ホーム。その合間にぽつりぽつりと家が建つ。
そういった場所であったから、昼間でも人の往来はほとんどない。
まるでゴーストタウンに来てしまったかのような、そんな風にも思えてくる。
客の前では絶対に口に出せないが、出来れば住みたくない場所だった。静かなのは良いだろうが、この土地はどうにも死の匂いが強いのだ。
この土地一体が死んでいる。
あの神社を通り過ぎたあたりから、体が重くなるような気がしてくる。
「あ、見えてきましたね」
ようやく目当ての場所に辿り着く。
車を降りるとやはり辺りは静かだった。鳥や虫が鳴く声も少なく思える。
車を停めたのは事件のあった家のそばだ。事件直後は報道陣が行き来したり、わざわざ遠くからやって来るような野次馬もうろうろしていたが、今ではすっかり静かになっている。
悲惨な事件も一ヶ月もしないうちに色あせる。
とくに今回は一家心中だと結論づけられたために、報道が冷めるのも早かった。
「こっちの家も換気した方がいいんでしょうけど、あんまり気が向かないですね」
「そうね。大分酷い状態だったらしいもの。未だに臭いがこびりついてるだろうし、当分は借り手も見つからないでしょ」
潤平が家を見上げていると、牧野も隣にやってくる。こうして外側から見ていれば、どこにでもあるようなごく普通の家だ。この中で凄惨な事件が起こったなどとは思えない。
普通の家。
だがここを選んだ夫婦にとっては幸せなマイホームになる筈だった特別な場所。
そんな場所がどうして悲劇の舞台になったのか。潤平には想像もつかなかった。
「この家、担当してたのって原さんでしたっけ」
「そうね。事件以来は数日休んでたけど、最近はようやく顔色も戻ったみたいね」
「やっぱり自分が扱った物件で事故が起こるって、かなりショックなものなんですかね」
「今回のは特別にひどかったもの。実際に何度か顔をあわせてると、やっぱりショックの度合いも違うんじゃない? 仲の良さそうな夫婦だったって言ってたわよ」
「牧野さんが担当したっていうお隣の家のご夫婦も仲が良さそうだって聞きました」
「そうね。そう見えたわ」
「あ、……」
牧野と話ながらふり返ると、隣家の窓に人影があった。
「牧野さん、お隣の奥さんってあの人ですか?」
隣家の2階。
窓際にたってじっとこちらを見下ろしている女性がいる。
やけに青白い顔に、目の下にははっきりとした隈が見えた。
「……ええ、そうね」
牧野も隣家を見上げると、窓から見下ろす女性に会釈する。
続けて潤平も頭を下げたが、女性は微動だにせず、ただただじっと見下ろしているだけだ。
「なんだか、……その、あまり機嫌が良さそうじゃないですね」
「あれだけの事件があったから仕方ないわよ」
「そうですけど、……」
ノイローゼにでもなっているのではなかろうか。そんな顔色に見えるのだ。
大丈夫だろうか。心配にはなるものの、あえて踏み込もうとは思えない。
「挨拶はやめておいた方がよさそうですね」
「顔はみたし、一応は挨拶したってことでいいんじゃない?」
女性は未だに窓際に立ったままでいる。
何をする訳でもなく、ただ立っている様はどことなく寒気のする光景だ。
「行きましょうか。ええと、もう少し奥の家だったわよね」
牧野が早足で歩き出し、潤平もあとを追いかける。
その時、ふと隣家の玄関が目に入った。
玄関の前。そこに茶色いサンダルが転がっている。
何となくそれが引っ掛かった。
あそこの家の夫婦はどちらも20代だった。あのサンダルをはく世代には思えない。
それになぜ、片方だけが無造作に転がっているのだろう。
違和感を覚えるものの、やはりそれ以上、踏み込む気は起こらない。
もしかして、こういった小さな違和感がいくつも見逃されて、坂本家の事件は気付かれなかったのかもしれない。そんな風にも思ったけれど、それでも、それだからこそ、関わりたいとは思えない。
だって、もし何かここで起こっても、それは潤平のせいではないのだし。
もう一度、2階の窓を見上げると女性の姿は消えていた。
かわりに、まだ10歳ほどの男の子が潤平のことを見下ろしていた。
内見予定だった家は、坂本家のある区画よりさらに山際の場所にある。
わざわざ車で移動する距離でもないので、そのまま歩いていくことにした。
やはり道には人影はない。
そう思っていたが、どこからか歌声が聞こえてきた。
なんだろうか。テンポの外れた歌声は、子供特有の高い声とはまた違う。
もう少しばかり進んでいくと、小さな公園が見えてきた。
そこでようやく合点がいく。
公園には近隣の養護施設の老人たちが散歩にきているようだった。
職員がつきそい、ほとんどは車椅子で移動している。公園はほとんど遊具もない場所だが、山際にあるために街よりは高外になっていて、見晴らしはそこそこにいい場所だ。
老人たちは、車椅子を並べて円になり、手をたたいて歌を歌っていた。
あるいは、円に加わらずウトウトと眠そうな者もいる。
「……失礼だとは思うんですけど、ああいう所を見るとなんだかゾッとするんですよね」
潤平が言うと、牧野は肩をすくめてみせる。
「ああいうのやってたのって幼稚園生とか、それくらいの頃だったじゃないですか。それが、歳をとってまたそこに戻って来るなんて、なんか怖いなって思いませんか?」
「まぁそうかも知れないけどね。それでも歌って楽しそうな人はいいんじゃない? うちの祖父はずっと怒ってばかりで、介護士さんに殴りかかったこともあって大変だったわよ。そうなる位なら、歌って穏やかに過ごせた方がいいんじゃない?」
「それはそうですけど」
それでもゾッとしない光景だ。
いずれ自分の末路になるかも知れないと思えばなおさらだ。
「それよりも見て、あのはじっこにいる人たち。なんだかおかしいと思わない?」
牧野に促されて視線を向ける。
公園のすみには円に加わらなかった老人たちが4人いる。
彼らはなぜかじっと山の方を見詰めていた。
そこに何もない筈なのに視線を反らさず、うち1人は山に向かってずっと手を振っている。
まるで山に誰かがいるかのようだった。
「なんだか、不気味ですね」
「そうよね。……さっさと用事をすませて帰りましょう」
「はい」
潤平は頷くと、地図を頼りに目的の家に向かって進んでいく。
そこもごく普通の一軒家だった。
木々に囲まれているが陽当たりはよい。とても静かで住みやすそうな二階建てだ。
それでもやはり、なぜか異質な気がしてしまう。
うまく言葉に出来ないのだが、ドアを開けるのになぜか忌避感を抱してしまう。
牧野も同じ思いなのか、玄関前までは来たものの、鍵を取り出して立ち止まったままでいる。
「……あの、牧野さん。自分が見てきますよ」
正直、潤平も率先して入りたい訳ではなかったが、牧野が固まっているので仕方ない。
ここであれこれ考えるよるも、さっさと終わらせて帰った方がいいだろうと思ったのだ。
牧野は逡巡を見せたものの「悪いわね」と言って鍵を手渡した。
「今日の昼ごはん、私が奢るわ。龍軒のラーメンでどう? 餃子もつけるから」
「いいですね。それじゃ遠慮なくご馳走になります」
潤平は鍵を受け取ると、一度大きく息を吐く。
なんてことないさ。いつも通りにさっさと終わらせて帰ればいい。
そう自分に言い聞かせて、玄関のドアノブに手を伸ばした。
やはりただの何てことのない一軒家だ。
間取はどこもほとんど変わらない。
玄関を入ってすぐに廊下と階段があり、廊下の先はリビング兼キッチンと洋間がある。
トイレは階段下のスペースにあり、風呂場はリビングの奥にある。
2階は私室が3部屋あり、寝室としても趣味の部屋としても活用できた。
階段に飾り窓があるお陰で、室内は採光もよく心地よい。
いかがですか?
この辺りは静かなので、趣味に打ち込むのもお薦めですよ。
庭でDIYをやっても誰も文句なんていいません。
ピアノなんかもいいですね。
都会じゃなかなか弾けないでしょう。
お子さんが出来た時に趣味の幅が広がるのはよい環境ですよ。
頭の中で家を紹介していく台詞を考える。
そんな風にシミュレートしていると、良いところばかりを探そうとするから、無理にでも気分が上を向くのだ。
こちらがリビングです。
庭に面しているので、カーテンを開けていると朝ご飯なんて気分がいいと思いますよ。
お庭にテーブルと椅子を置いて、外で食べるのもきっと最高ですね。
水回りはすべて新しくしております。
キッチンもこちら、かなり取り回しがよくなっていますね。
冷蔵庫はここに置いて、シンクの下が収納スペースになっていますので、食器が少ない方はここだけで間に合うかもしれません。
さて、こちらのドアは洗面所になります。
奥はおバスルームがございます。
バスルームももちろん新しいものに変えてありますので、……
がちゃっとバスルームのドアを開けた瞬間に、潤平は思わず飛びのきかけた。
なんだろう。
心臓がバクバクいっている。
なにか。
今なにかが。
一瞬見えた気がしたのだ。
いや、だけれども。
バスルームはなんのへんてつもない。
けれど潤平には何かが見えた気がしたのだ。
それは例えば、CMに一瞬だけ別の映像が混ぜられるサブリミナル効果のような。
赤く染まった。
何かの破片が転がった。
そんな光景が見えた気がしたのだ。
考えすぎだ。坂本家の事件が頭の中にあったから、そんな幻覚が見えたのだ。
気を取り直してリビングに戻る。
心臓はまだ早鐘をうっていたが、あえて気付かないふりをした。
自分はそんな臆病ではないのだ。自分は男だしまだ若い。特別に鍛えている訳ではなかったが、何かが起こったとして一方的にやられるような事はないはずだ。
恐れることはない。そもそも何を恐れるのだ?
牧野のように山姥を?
そう考えると乾いた笑いが込み上げる。
ありえない。小学生ではあるまいに。
それじゃあ他に何を恐れるのか。坂本家は全員死亡した。子供はいまだ行方不明のままだったが、それだって何を恐れる必要があるだろうか。
さっさと2階を見て戻ろう。
階段を登り始めると思ったよりもギシギシと大きな音がする。それになぜか、明り取りの窓がある筈なのに、やけに暗く感じてしまう。
ギシ、ギシ、ギシと階段をあがる。
2階のドアはすべて開け放たれていた。お陰で廊下には陽の光が差し込んでいる。
だというのに、なぜ暗く感じるのだろうか。
ほら、駄目だ。考えすぎだ。
はやく部屋を回ってしまおう。
一部屋ずつ中をざっと確認する。念のため窓際に近づいて、窓に鍵がかかっているかもチェックする。
大丈夫だ。どの部屋も整然としており、しっかりと鍵がかかっている。
最後の部屋を見終えたところで、ふと窓の外に視線が向かう。
そこからは、先ほど通りかかった公園を見下ろせるようになっていた。
公園ではあいからず老人たちが歌っている。
あれはちょっとばかりこの家を売るのにはマイナスポイントかもしれない。時間をチェックして、鉢合わせない時を選んだ方が良さそうだ。
潤平は踵をかえそうとして、ふと奇妙なことに気が付いた。
先ほど、山に向かって手を振っていた老人が、今は潤平の方を見上げている。
その老人だけでなく、隣に座っている老人も、その隣の老人も、皆が潤平のいる窓見上げていた。
そして、手を振っている。
たまにこういう事はある。誰構わず視線があうと手をふってくる人は存在する。だが老人たちは、どこか機械的で、楽しんで手を振ってるようには見えないのだ。
なんだか気味が悪かった。
やめよう。やめよう。考え過ぎだ。さっさと帰ろう。
視線をたちきって窓を離れた瞬間に、タタタタタタっと廊下を走っていく音がした。
慌てて振り返っても誰もいない。
そもそも、階段を登って来る音はしなかった。
「……牧野さん?」
呼びかけてみるが返事はない。
そっと廊下に出てみるが、それらしき人影は見つからない。
いや、先ほどまで開いていた筈のドアがなぜか今は閉まっている。
「ちょっと、……牧野さん? やめて下さいよ。冗談キツいっすよ?」
自分の声が上擦っているのがよく分かる。それでも廊下を進んでいくと、洋室のドアに手をかけた。
ガチャリと開ける。
誰もいない。
もう一つのドアも開いてみたが、やはり誰もいなかった。
だが再び、背後でタタタタっと走り去っていく音がする。
ふり返ると、今度は一瞬だけ影が見えた。
階段へ。誰かが。小さな影が走っていった。
「待てッ」
潤平は慌てて追いかけた。
近所の子供が入り込んでいるなら、注意しなければならなかった。
……――近所のこども? 子供どころか、ほとんど人とすれ違うこともなかったのに?
疑問符が湧き上がるが、無視して人影をおいかける。
タタタタっと階段を駆けおりていく音がする。
潤平もあとを追いかける。そして階段に差しかかったその瞬間、ドンっという衝撃に襲われた。
体が一気に前のめりになり、バランスがまったく保てない。
手すりを、と伸ばして手は空ぶった。
ガンっと一度目の衝撃が額を襲う。視界がぐるりと回りながら、次の衝撃は背中だった。
きっと一瞬だっただろう。
だが潤平の感覚では、かなり長く、ゆっくりと落ちていくかのようだった。
どこも掴めず、バランスも失ったまま体が玄関へと投げ出される。
ビギンっと首筋が酷い痛みに襲われる。だけれども、その後は、額が痛むだけだった。
ああ、良かった。思ったより酷い怪我ではないのだろう。
手も足も、なぜか動かないけれど、頭が朦朧としているからだ。
額以外、どこも痛みを感じないのも、傷が浅いお陰だろう。
「潤平くんッ!!!!」
慌ててドアを開けた牧野が、潤平の有様を見て悲鳴をあげる。
その声をぼんやりと聞きながら、潤平は意識を失った。