
青い葬列
僕がはじめて青い葬列を見たのは、幼稚園に入ったばかりのころだった。
当時の僕はとても幼く、人が死ぬということもあまり理解できていなかった。幸いにも僕に近しい人たちが亡くなったこともなかったので、僕にとって死はとても遠く、テレビや漫画の中だけにある出来事だった。
それでも、そんな僕にでもあの葬列は恐ろしく、そしてもの悲しいものだった。
その晩は凍えるような寒さだった。
布団から出ている鼻先が凍りそうになるくらい、空気は冷え切っていて、僕はなかなか寝付けなかった。
それでも徐々に布団が暖かくなっていけば自然と眠気に誘われる。
僕はいつの間にか眠りに落ち、そして真夜中にふいに目覚めたのだ。
あれ?
目が覚めた瞬間に最初に浮かんだのは疑問符だった。
どうして僕は目を覚ましたんだろう。
普段なら一度眠ってしまえば、たいてい朝までぐっすり眠ったままだった。母さんに何度も声をかけられて、布団を引きはがされようやくのろのろと起き上がる。それが僕の日常だ。
だけれども、その時は真夜中に目を覚ました。
こんな時間に目を覚ます理由は一つだけ。トイレに行きたい時だけだ。
だが今日は違うようだった。だからどうして目が覚めたのか分からない。
しばらく布団にくるまったままでいると、少しずつ周囲が見えてくる。
そうして僕は、カーテン越しの窓の外がおかしなことに気がついた。
明るい。
夜明けほどの明るさではなく、街頭の人工的な明るさともまた違う。
雪がしんしんと降り積もり、その白さで窓の外が明るくなって見えるような。いや、それよりももう少し明るかった。
どうしたのだろう。
時計を確認してみると、時刻はまだ夜中の二時を少し回った頃合いだ。
夜があけるのにはほど遠い。
それに歌が。
歌ともいえない曖昧に低く流れるたくさんの声が、窓の外から聞こえて来る。
僕は恐る恐る布団から抜け出して、そっと窓に近づいた。
窓に近づけば近づくほど、歌のようなそれが聞こえてくる。
一人ではない。もっと沢山。低いけれど男の声とはまた違う、かといって女の声にも思えない。だが沢山の歌う声。
カーテンの隙間から窓の外を覗いてみる。
それが、青い葬列だった。
葬儀。死。
幼かった僕には理解できない難しいもの。でもそれが葬列であるのだと僕はなぜか分かったのだ。
沢山の青白い骸骨が歩いている。
自らが薄く発光し、ゆらりゆらりと揺れながら。もの悲しげな歌を歌い、骸骨たちが歩いていく。
きっとこの街で誰かが死んで、彼らに運ばれていくのだろう。
しばし呆然と葬列を見詰めていた僕は、ふいに恐ろしさが込み上げて慌てて窓辺から逃げ出した。
両親は同じ部屋で眠っている。
「ねえ、ママ起きてよ」
声を潜めて母を揺り起こそうとしたものの、何故か母は目覚めない。隣で眠る父も何度も何度も揺すっても、どうしてか何の反応もしないのだ。
まさか死んでしまったのではなかろうか。
僕は焦って、泣きたくなって、母と父を揺り起こそうと必死になった。それでも、どうしたって両親は目覚めない。
この時になって、僕ははじめて絶望というものを思い知った。
恐怖だけならば、耐えられる。
けれど、どこにも逃げ場のない絶望は。安全圏を奪いとられた恐ろしさは、ただの恐怖を上回る。
起きない。
起きてくれない。
もしかしてこの街で生きているのは自分だけなのではなかろうか。
そんな風にすら思えてくる。
僕はめそめそと泣きながら、母の布団に潜り込んだ。そうして、母の体温が暖かなことにようやく少しばかり安堵した。
そこからの事は詳しく覚えていないけれど、僕はきっとそのまま寝てしまったのだろう。
幸いにも、朝はいつものように訪れた。両親はなにごともなかったかのように目覚めたし、昨晩の痕跡は何も残っていなかった。強いていえば、母の布団で寝ていたことで少しばかり気恥ずかし思いをしただけだ。
僕はあの葬列について母や父に尋ねたが、二人とも首を傾げるだけだった。
「きっと悪い夢を見てたのよ」
母にそう言われて、僕はむりやり納得した。
だけれども、僕はそれからも幾度となく、青い葬列を目撃することになったのだ。
青い葬列。
それはたいてい酷く寒い冬の日で、僕はあの低い歌声に目を覚ます。二回目は、最初の時ほどの恐ろしさは覚えなかった。
朝になればすべてが元通りになることを知っていたし、あの骸骨たちがただ通り過ぎていくだけだと分かっていた。
だから僕は窓が青白く染まる夜は、布団の深くに潜り込んで、耳を塞いで気付かないふりを決め込んだ。
青い葬列がいったいぜんたい何なのか。
彼らが何をしたいのか。
僕にはさっぱり分からない。
確実なのは、それは気付かないふりをするのが一番だということだ。
僕は嵐の夜に怯えるように、ただただ葬列が去るのを待っていた。
妹が出来たのは僕が小学3年生になった頃のことだった。
しわくちゃの赤ん坊を見た時は、正直なところまったく可愛いとは思えなかった。それに妹はとにかく四六時中よく泣いた。
朝も昼も真夜中もお構いなしに泣き喚いたし、妹が出来てから家族でのお出かけがなくなった。
最初こそ僕は妹ができたことを喜んではいたものの、次第にそれは薄れていった。
真夜中に起こされるのは嫌だったし、そのせいで母さんは不機嫌に過ごしていることが多かった。旅行にも遊園地にも行けなくなり、レストランに行くこともなくなった。
もう少し。
あと少し大きくなるまでの間だから。
母さんはそう言っていたけれど、どうやらそれは少なくとも数年はかかるらしい。
まだ小学生の僕にとってはたった一年、遊びに行けないことだって大ごとだ。
それだけじゃない。
母さんも父さんも僕に構う時間が少なくなった。風邪をひいても一人で寝ている時間が多くなり、なにかにつけて「もうお兄ちゃんなんだから我慢してね」と言われるようになったのだ。
お兄ちゃんってあまり良いものじゃないらしい。
それが僕の感想だった。
僕は望んでもいないのに、ある日突然、お兄ちゃんにされてしまった。
妹を恨んではいなかったけれど、可愛らしいとは思えない。そんな曖昧な存在だった。
妹が出来てから初めての冬、再び青い葬列がやってきた。
僕はずいぶんと慣れてきていたので、夜中に目を覚まして窓の外が薄明るく見えている時も、気が付かないふりをしてすぐに布団に潜り込むようになっていた。
その日も、ふと夜中に目を覚まして、葬列がやってきたのだと気が付いた。
知らない。
気にしない。
どうせあれは僕に何もしないのだから、布団をかぶって寝てしまおう。
そう思って布団に潜り込もうとしたところで、ふいに妹が火が付いたように泣き始めた。
僕は飛び上がりそうになるほど驚いた。
静けさの中で響き渡る泣き声にももちろん驚かされたのだが、それ以上に、妹が葬列の最中に起き出したことに驚いたのだ。
今まで誰もあの葬列の時間に目を覚ました人はいなかった。
たまたま従兄弟たちの家族が泊まりに来た時があったけれど、その時も誰一人目を覚ましはしなかったのだ。
どんなに声をかけても。肩を揺さぶって起こそうとしても、みなはまったく何の反応も示さなかった。
だからこの時間に起きていられるのは僕だけだと思っていたのだ。
だが違う。
妹が大声で泣いている。
お腹がすいたのか、おしっこが出たのか、あるいは異様な気配を感じ取って目覚めたのか、その理由は分からない。
とにもかくにも妹も僕とおなじく、葬列が来る時間に目覚めることが出来るのだ。
驚きと奇妙な安堵感。自分一人だけがこの時間に取り残されている訳ではない。
だが、驚きがおさまってくれば、だんだんと不安がわきあがる。
以前の僕は両親と一緒の部屋で寝ていたが、妹が出来てからは僕は一人部屋になったのだ。そうして、今は両親の部屋で妹いるのだが、泣き声は隣の部屋まで響いてくる。
こんなに大きな声で泣いていたら、彼らに気付かれてしまうのではなかろうか。
じわりじわりと這い上がってくる嫌な予感に、僕はそっと布団を抜け出した。
寒い。
葬列の夜はいつだって寒いけれど、今日はことさらに寒かった。まるで床が氷で出来ているかのように冷たくて、屋内だというのに吐く息が白くなっている。
それでも僕は恐る恐る歩きだした。
すぐ隣だ。
いつもだったら十歩もあれば着くほどの距離なのに、やけに遠く感じてしまう。
見慣れた家がまるで別の場所になってしまったかのようで、部屋の暗がりのいたるところに何かが潜んでいる気がするのだ。
怖い。
怖い。
そろりそろりと足を進めて廊下へ一歩踏み出した僕は、大きく息を吸い込んだ。
青白い骸骨。
窓ガラス越しに見ていた彼らが家の中に立っている。
吸い込んだ息が吐き出せない。喉の奥で凍り付いてつっかえる。
妹の泣き声はますます大きくなっていく。それに引き寄せられるかのように、骸骨たちは壁をなんなくすり抜けて家の中へと入ってきた。
気付かなかったふりをするんだ。
廊下に立ったまま凍り付いた自分に、頭の中で声がする。
僕はなにも見なかった。
いつも通り、葬列が来たから布団に潜って寝てしまったんだ。
だから、見なかったことにして今すぐベッドに戻るんだ。
だって僕にはどうしようもない。ぞろぞろと壁から湧き出してくる骸骨に、僕がいったい何をできると言うんだろう。
恐怖と寒さで涙と鼻水がわいてくる。
なんで僕が。どうして僕が。妹を助けなくちゃいけないのか。
それは両親がやるべきことではないのだろうか。
ぐるぐると頭の中で様々な言い訳が駆け巡る。
でも僕自身でも分かっていた。この時間に起きていて動けるのは僕だけだ。妹を助けられるのは僕にしか出来ないことなのだ。
嫌だよ、嫌だ。帰りたい。
そう思いながらも、僕は全身の力を振り絞るようにして一歩を前に踏み出した。
理由は僕にも分からない。でも結局、いくらあれこれ悩んでも妹のところに行くことしか選べない。僕の中で精一杯喚いている臆病者を押しのけて、知らない感情が急き立てる。
歩いて。一歩、もう一歩。がんばれ。ほら次の足を出して。もう一歩、もう一歩。
自分を必死に振るい立てて両親と妹の部屋に辿り着く。
ドアをあければ、狭い室内には沢山の骸骨がベビーベッドを取り囲むようにして立っている。
いやだ、行きたくない!
僕の中で僕が悲鳴をあげたけど、それでも足を踏み出した。
妹に近寄ってゆっくりと小さな体を抱き上げる。前に一度だけ抱かせて貰ったことがある。その時はどうして良いか分からなくて、すぐに母に返してしまったけれど、今度はちゃんと抱きかかえる。
背中を優しく撫でながら、ゆっくり身体を揺らしながら、大丈夫、大丈夫だと語り掛ける。
大丈夫だから。僕がいるから。
君はたった一人の妹で、僕は君のお兄ちゃんだ。
そうだ。
その瞬間、僕を急き立てた感情の名前に気が付いた。そう、僕は「お兄ちゃん」になったのだ。それだけのこと。たったそれだけの事だけれども、驚くほど大きな感情だ。まるで勇者にでもなったかのように「お兄ちゃん」という言葉は僕の中でどんどん大きくなっていき、凍えそうだった心の熱くする。
「大丈夫だよ。泣かないで。怖くないよ」
僕が君を守るから。
そう言って語り掛けると、妹はふいに泣き止んだ。そうしてそのまん丸な瞳でじっと僕を見詰めてくる。
そのきらきらした瞳を見ていると、不思議と恐怖心が消えていく。完全に怖くなくなった訳じゃない。でも、こうして妹を抱き上げて、絶対に守ってやると思っていると強くなれる気がするのだ。
妹はじっと僕を見詰めていた。
僕もまた、妹の瞳をただただじっと見詰めていた。
そうしている間に周囲を取り囲んでいた骸骨が、壁に吸い込まれるように消えていく。
やがて骸骨はすべて部屋から消え去って、青白い光もなくなった。前よりも部屋は暗くなったけど、それでももう怖くない。
僕はそっと妹をベビーベッドに寝かし直すと、小さな体を包み込むように丁寧に布団をかけてやる。
「おやすみ。また明日」
出来るだけ優しく声をかけ、僕は部屋へと戻っていった。
その日から、僕は少しずつ変わっていった。
妹によく話し掛けるようになり、母が食事の支度をしている時には、妹を膝にのせて一緒にテレビを見て過ごしたり、簡単な絵本を読んで聞かせたりして過ごすようになったのだ。
そうしていると、妹も僕に向かってきらきらと笑顔を見せてくれるようになり、僕はますます妹を構うようになる。
僕が妹の面倒をすすんでみていると、母も随分と気が楽になったのか、少し前よりずっと機嫌がよくなった。近くにある公園ならば、家族みんなで出かけられるようにもなったし、外食にいった時には交代で妹の世話をした。
僕はこうして「お兄ちゃん」になったのだ。
それ以来も、葬列はたびたび僕らの街に訪れたけれど、僕はそのたびに妹を抱きかかえて二人で寒い夜を乗り越えた。
もしかして、もしかしてだけれども僕が妹を助けただけじゃなく、僕自身も妹に救われたのかも知れないと、そんな風にも思えてくる。
僕はもう、葬列の夜は怖くない。
いつの日か、いつの日か、遠い未来の先までは。
青白い死を、僕らの家に入らせない。