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あの日の駅

 私がはじめて不思議な老婆に出会ったのは、中学生3年生の晩秋のころだった。
 私の通う学校は私立の小中高一貫校だったために学区がとても広く、特定の駅までスクールバスが迎えに来てくれるようになっていた。朝は駅前からバスに乗り、帰りは学校前からバスに乗ってまた駅まで戻ってくる。
 スクールバスと聞くとアメリカの映画によく出てくる黄色いバスを想像する人もいるだろう。かくいう私も、小学校に入る時にスクールバスに乗れると聞き、あの黄色いバスに乗れるのだと興奮した。
 だが残念ながら、私の学校のスクールバスはよくある四角い路面バスを塗りかかえて、ポップなイラストと学校名を書き込んだものだった。初登校の日こそ残念に感じたものの、バスに乗っている間はバスの外観を見ることもない。結局、私は、すぐにスクールバスに馴染んでいた。
 学校前の坂道は銀杏並木になっている。
 今年の秋はどうしてか銀杏が色づくのが随分と遅く、もうじき秋も終わりだというのにほとんどの葉が鮮やかな緑色のままだった。
 校庭にある桜の木は赤や黄色、それに紫がかったものや、まだ緑のものまで様々な色合いになっている。なのにどうして銀杏は紅葉が遅いのだろうか。私はぼんやりとそんなことを考えていた。
 スクールバスは時間通りにやってきた。
 見送りには必ず先生が引率し、運転手と一緒に生徒の数を確認する。
 私はいつも通り、ステップを上がろうとして老婆の存在に気が付いたのだ。
 バスの座席の最前列。運転手のすぐ後ろの席に老婆が2人座っている。
 双子なのだろうか。老婆はうり二つで、お揃いの紫のコートを着込んでいる。
 思わずぎょっとして足を止めると、すぐ後ろからステップを登ってきた生徒に小突かれる。はやく、と急かされ私は老婆たちを横目にみながら空いている後ろの席へと移動した。
 彼女らはいったい誰だったのだろうか。
 時折、先生や、あるいは学校に呼び出された保護者がバスに同乗することはあったが、彼女らは誰かの保護者には見えなかった。校内で見かけたこともなかったから恐らく先生でもないだろう。あんな目立つ老婆がいたら、きっと気付く筈だった。
 一体、何者なのだろう。
 何となく釈然としない気持ちのまま、だがバスはなにごとも無かったように発進する。
 先生も、運転手も何も騒いでいないのだから、きっと関係者なのだろう。
 だがやはり私は、違和感を拭いされないままでいた。



 「え、お婆ちゃん? 知らないよそんなの」

 翌日、学校で同じバスに乗っていたクラスメイトに尋ねてみると、皆が概ね同じ答えをかえしてきた。
 知らない、見なかった、覚えていない。
 多少の差はあるものの、誰も老婆を見ていないのだ。
 それは奇妙なことだった。老婆達が座っていたのは最前列で、それもかなり目立つ容姿だった。たとえ友達とのお喋りに夢中になっていたとしても、全員が全員、見過ごす筈はないだろう。
 私が見間違えた?
 でも、あんな個性的な老婆の双子を何と見間違えるというのだろう。
 なんだか狐に摘ままれたような気分だった。そういえば、この学校には裏庭にひっそりと小さなお稲荷さんが建っている。その狐に騙されでもしたのだろうか。
 馬鹿馬鹿しい。
 そんなことある訳がない。
 きっと私はとても疲れていたのだろう。
 疲れ故の幻覚。
 私は不思議な老婆のことを、そんな風に結論付けた。



 再び双子の老婆に出くわしたのは、もうじき冬休みになる頃だった。
 期末テストもなんとか終わったこの時期は、クリスマスと正月に向けみんなが浮足だっている。多くの中学三年生は、高校受験にバタバタと追われているのだろう。だが、一貫校は内部進学のため定期テストをしっかりとこなしていれば問題ない。年の瀬も皆がおだやかだ。
 並木道の銀杏はようやく色づき、鮮やかな黄色が青空によく映えている。
 いつも通りにバスに乗り込もうとしたところで、老婆の存在に気が付いたのだ。
 老婆は前回と同じように最前列に座っていた。いささか驚きはしたものの、今度は立ち止まることなくステップを登り、老婆の横を通り過ぎた。運よく老婆のすぐ後ろの席があいている。普段ならばもっと後ろの席に座るのだが、その日は老婆の1つ後ろの座席を陣取った。
 少し遅れて、クラスメイトのユウカちゃんが私の隣に腰を下ろす。
 ちょうどいい。
 私はバスが走り出すのを見計らって、小声でユウカちゃんに「前のお婆ちゃんたちって誰だか知ってる?」と話し掛けた。

「お婆ちゃん?」

 ユウカちゃんは一瞬、目を丸くした。それから2度、3度と目を瞬かせ「ああ、そういえば」と口に出す。

「座ってたね。誰だろうね」

 あれ? なんだろう。
 ユウカちゃんの様子に私は首を傾けた。
 ユウカちゃんは、私に聞かれてはじめて老婆の存在に気が付いたかのようだった。いや、気が付いてはいたが、すっかり忘れてしまったことを思い出したと言った方が近いだろうか。
 それはおかしな話だった。
 老婆は双子で、しかも紫色のコートを着込んでいる。あんなに目立つ二人組をそうそう忘れる筈がない。

 「誰かの保護者かな」
 「ええと、どうだろう、そうかもしれない、かな?」

 重ねて尋ねると、ユウカちゃんは何故だかぼんやりとした顔になり、言葉もどこかあやふやだ。もしかして疲れているのだろうか。だがユウカちゃんが隣に座ると、たいていはバスから降りるまでずっと喋り続けている。だから、お喋り好きなユウカちゃんが話に乗ってこないのはとても珍しいことだった。それに、まだ席は空いているのに私の隣に来たのだから、嫌われているという事はない筈だ。
 だのに、ユウカちゃんは老婆の話題を持ちかけると、やけに反応が鈍くなる。
 変なの。
 私はユウカちゃんから老婆に関して聞き出すことは諦めて、今度は老婆たちの会話に耳を傾ける。

 あれ?
 私は再び首を傾けた。
 分からない。老婆たちが何と言っているのかが分からないのだ。
 どうやら日本語ではないらしい。だが、例えば外国の言葉でも、なんとなくどこの国の言葉なのかは分かるものだが、それすらもまったく分からない。
 英語ならばすぐ分かる。中国語と韓国語も直感で聞き分けることが出来たし、フランス語やドイツ語もなんとなく耳が音を覚えている。インド方面の言葉も、独特のリズムで聞き分けられる筈だった。内容までは分からなくても、何語で話しているかくらいは分かるのに、老婆2人の話す言葉はそれすらもよく分からない。
 響きはゆっくり穏やかで、フランス語や京都弁に近いだろう。そこに謡いのような独特の音程がついている。なんとも不思議な響きだったが、意味はさっぱり分からない。
 変なの。
 もう一度、ユウカちゃんに尋ねようと隣を見ると、彼女はすっかり寝入っていた。
 そればかりか、通路を挟んだシートに座る生徒も口をあけて熟睡していたし、腰をあげて周囲を確認してみれば他の生徒もみなが船を漕いでいるようだった。
 確かに眠い。
 ふわっとあくびを1つすれば、身体がシートにずるずると沈み込むように強烈な眠気が押し寄せる。
 そういえば、前回もそうだった。老婆に初めてであったあの時も、こんな風に酷い眠気に襲われた。
 なんでだろう。
 思考を巡らせようとしても、頭はどろりっと溶けだすように鈍くなる。なぜ、考えなければいけないのか。疑問符や、気力を麻痺させて、意識にとばりが降りていく。
 ああ、だめだ。
 ねむい……、………………。



 プシュウっとバスのドアが開く音で、はっと慌てて飛び起きる。
 降りなくちゃ。
 頭はまだひどく重く、思考がうまく回らない。だが、降りなくちゃという気持ちだけは先行し、鞄を担いで立ち上がる。
 このバスは学校と駅の間を行き来する。つまり、ドアが開いたら駅についたという事だ。以前にもすっかり眠り呆けていて、運転手におこされてしまった事がある。
 だから私は、とにかく急いでバスから降りなければと、そのことだけを考えた。あまりの眠さに他のことはいっさい考えられず、隣席のユウカちゃんがまだ眠っていたことにも、何も思いつかないままにとにかくバスから飛び出した。
 そうして、アスファルトに降りたった瞬間に、ぱっと頭が冴え渡る。

 「え?」

 夕焼けだ。
 まず最初に目に飛び込んだのは、あまりにも目に鮮やかな赤色で、私は呆然と立ち尽くす。
 そうして改めて周囲を見回すと、そこは一面のすすきの原で、いったいぜんたい、何が起こったのかが分からない。

 「うそ、え、……ちょっと!」

 異変に気付いて慌てて振り返った時には遅かった。
 バスはとっくに走り出し、どんどんと遠ざかっていってしまう。

 「うそ、でしょ?」

 大海原のように続くすすきの原。真っ赤な太陽が地平線でゆらゆらと揺れている。
 当然だが、ここが駅前であるはずなどなかったし、学校から駅にいたるまでの道のりでも、こんな場所はない筈だ。
 どうしよう。
 途方にくれて振り返ると、バスの停留所標識が目に入る。

 『幽霊デパート前』

 その文字に、まるで強風がゴォっと吹き抜けるようにして、昔の記憶が蘇る。
 それは家から駅に向かう間にかつてあった建物だ。かつては街の中心地としてにぎわっていた場所だが、私が小学校に上がるころにはすっかり廃れてしまっており、店舗が数軒のみ残る廃墟のようになっていた。
 通称、幽霊デパート。
 記憶が一気に蘇ると同時に、目の前にはいつの間にか見慣れたデパートが建っていた。
 今度はもう、驚きすぎて声をあげる気力もない。

 「どうしよう」

 再び標識の時刻表を見てみても、そこには1つも時間が書いていなかった。デパート以外にはどこまでもすすきの原が続いており、歩いていっても駅まで辿り着ける気がしない。
 「あ」っと思わず声をあげたのは、デパート入口のガラス越しに双子の老婆が歩いていく姿が見えたからだ。
 こうなったら、あの老婆に尋ねてみる以外ないだろう。
 私が大きく息を吐くと、すすきをかき分けデパート入口へと歩き出した。



 デパートが出来たのは昭和の終わりの頃だという。
 隣町にできた大きな百貨店に対抗し、地元の商店街が商業施設を作ろうと一致団結したそうだ。
 そうして生まれたのが幽霊デパート、いや、当時の名前はスキップタウンと呼ばれていた。建物は4階建てで、1、2階までが商業施設になっている。3、4階はマンションとして売り出された。
 創業当時、デパートは大いに盛り上がり、市民の憩いの場になっていた。
 母曰く、週末になればアドバルーンと呼ばれる、宣伝用の気球が「本日大売出し」の幕を垂らしてデパート上空にゆらゆら浮かび、アイスクリーム屋や、ドーナツ屋の屋台も来たという。
 年末の大セールの前には、太鼓や笛を鳴らしながら奇抜な着物を着たチンドン屋がにぎやかに練り歩いた。
 だが時代は変わっていく。
 大企業がショッピングモールを建設し、一気に経営が傾いたのだ。
 焦ったスキップタウンが起死回生の一手をかけ、店舗の大改装を行ってみたものの、市民の心を取り戻すことは出来なかった。それに加えて交通の便が大幅によくなり、もっと大きな街へと買物に出る住民も増えていった。
 もとよりスキップタウンは地元の商店街がより集まった店だった。
 靴屋、金物店、文房具屋、雑貨屋と、そういった店舗の売り物はすべて大型スーパーでまかなえる。親の店を引き継ぐ子供も少なくなり、1つ、また1つと店が消え、そうしていつの間にか入口付近の数店舗だけが残ることになったのだ。
 デパートの上のマンションもどんどんと入居者が減っていき、荒れ放題になっていく。
 その結果、デパートは入口に近い数店舗だけが営業し、それ以上奥に進むと閉ざされたシャッターばかりが並ぶ場所になっていた。
 店舗によっては、恐らく閉店作業を終える前に店主がいなくなってしまったのだろう。埃を被ったままに放置されている店もあり、まさしく幽霊デパートの名に相応しい。
 3階より上の居住区も入居者は国籍不明の外国人と、老夫婦ばかりになっていた。
 コンクリートの壁は剥がれ落ち、廊下や階段は雨漏りのためにすっかり苔むしてしまっている。ここまでくれば、何をしてもいいだろうと、ビニールゴミを投げ落とす住人もいたようで、デパートの裏はゴミの山が出来ていた。

 「幽霊デパートには近づいちゃ駄目よ」

 あの付近の子供たちは親から厳命されていた。
 だが禁止されれば、返って行きたがる子供も現れる。肝試しにと訪れた高校生が行方不明になっただとか。そんな噂も耳にしたが、本当かどうかは分からない。
 結局、デパートは数年前に取り壊されて、今は駐車場になっている。
 だが何故か、そのデパートは今、私の目の前に現れた。いったい中はどんな有様なのだろう。
 おそるおそるドアを開いた私は、大きく息を飲み込んだ。

 ――そこは、活気にあふれた場所だった。
 入口から入れば2階フロアまで吹き抜けになった天井があり、円形の広場から通路が東西に伸びている。
 広場の中央には噴水があり、それをぐるりと囲むように軒を並べる店舗は、洋服屋から飲食店までと様々だ。
 だが、私はすぐに異変に気が付いた。
 客が、いや、客だけでなく店員も皆、様子がおかしいのだ。
 あるものはどう見てもタヌキだった。それも動物のタヌキではなく、酒屋の入口に置いてあるような置物のタヌキにそっくりなのだ。その癖、タヌキは動いている。置物の材質や見た目そのもので、なぜか動いて喋っている。
 他にも、鳥獣戯画のウサギやらカエルやらがそのまま抜け出したような生き物が歩いていたし、かと思えば絵本で見たような一つ目小僧やらぬりかべやら。そんな古風な妖怪が商店街を闊歩して、買物を楽しんでいるようだった。
 呆気にとられて眺めていると、中には少数だが人間もまじっていることに気が付いた。
 むしろ人間の方が見つけるのが大変だなんて、なんとも奇妙なことだったが、多少なりとも人がいることに安堵する。
 それならば、私が中を歩いていても怒られることはないだろう。
 改めて周囲を観察する。
 薬局の前ではどこかで見たようなオレンジ色の象がくるくると周りながら接客をしており、洋服屋ではとても古い着物から、刺繍が施されたスカジャンなど幅広い商品が並んでいる。
 飲食店は、通路まで机や椅子が並んでおり、お酒おぼしき飲み物も振る舞っているようだった。
 がやがやと騒がしいが、何を話しているのかは分からない。
 バスの中で聞いていた老婆たちの会話のように、どこの国の言葉なのかもあいまいだ。あるいは、言葉とは思えないような鳴き声をたてる者たちいれば、動きまわる食器たちはカチャカチャと蓋を鳴らして会話をしているように見える。
 私はすっかり途方にくれていた。
 意を決して入ってみたは良いものの、どうすればいいのか分からない。
 勇気を振り絞って、通りすがりの提灯に話し掛けてみたものの、蛇腹の紙がぱっくり割れてカラカラと笑われただけだった。

 「お嬢ちゃん、こんなところでどうしたんだい?」

 ふいに声をかけられて、飛び上がるくらいに驚いた。
 ふり返れば、中華飯店の屋台から店主が手を降っている。
 良かった。人間だ。
 私はほっと息を吐くと、なんだか分からないものたちをかき分けてカウンターへと近づいた。カウンター席も満席で、たくさんの何かたちが美味しそうに中華を食べている。私は彼らの合間にお邪魔して、少しばかり身を乗り出した。

 「ええと、私は……その、バスを降りたら、ここに」

 しどろもどろに答えると、「ああ、なるほど」と店主は手を叩いて頷いた。

 「それで紛れ込んでしまったのか。でもおかしいなぁ。縁がなければ、うっかり紛れ込むなんてことはないんだけれどね」

 首を傾げる店主の顔を見ていると、何かが心に引っ掛かる。
 私はこの人を知っている。そんな気がしてじっと食い入るように見詰めると、店主は困り顔になる。
 歳は60歳を超えているだろうか。禿げ上がった頭と、愛想よく垂れた目尻。特徴的な頬の大きなほくろを私は確かに覚えている。

 「あの、おじさんは、ずっとここのお店をやってた人ですか?」
 「ああ、そうだよ。もう30年以上になるだろうねぇ。見習いの頃を入れたらもっと長い」

 そうだ。思い出した。
 幽霊デパートに最後まで残っていた数店舗。その中の1つが美味しい中華屋さんだった。あの中華屋がなくなるまでは、私の家も何度か足を運んだのだ。有名なホテルで修行をつんできた店長の作る中華料理は、街にある中華飯店でも唯一無二の店だった。私は未だにこの店よりも美味しい中華屋に出会ったことがないほどだ。
 だが、いつの間にか店は閉店し、家族の皆で随分と悔しがったものだった。閉店と分かっていれば、ぎりぎりまで店に通ったのに。そんな風に思ったのだ。

 「あの、ええと、お店、また始めたんですか?」

 私が首を傾げながら尋ねると、店主は垂れた目尻をなおも下げて笑って見せる。

 「そうだねぇ。店をたたむって時になってお声がかかったんだよ。こっちで店を開かないか、ってね」
 「こっち、っていうのは」
 「連中は駅だとか、宿だとか、そんな風に呼んでるよ。こっちの連中と縁があれば来れるんだ。ここには俺以外にもそんなのが何人もいるんだよ。中にはゲームが上手いってだけで呼んでこられた奴もいるから、連中が求めてるもんは不思議だねぇ」
 「あの、その、……ここって、もしかして、その、……天国、とか、ですか?」

 恐々と尋ねると店主は声をあげて笑って見せた。店主の声に釣られたのか、カウンターの客たちもきゃらきゃらと笑ったり、お椀を箸で叩いたりと楽し気だ。

 「いやいや、大丈夫だ。ここは天国なんかじゃないし、お嬢ちゃんは死んじまった訳じゃない。ここはどっちでもない場所だ。誰かとおかしな縁が繋がってうっかり迷い込んだだけだろうさ。何か思い当たることはないのかい?」

 思い当たるのはあの紫のコートの老婆だけだ。
 私が素直に答えると、店主はふむふむと何度か頷いた。

 「なるほど。あの双子か。彼女らならきっと屋上にいるよ。会いに行ってみるといい」
 「はい。ありがとうございます」

 深々と頭を下げると、店主は昔見たのとそっくり同じ笑顔で手を振った。もうずっと前の記憶。私が小学生にあがる前に見た顔と、店主は何一つ変わらない。
 懐かしい。けれど少しばかり怖かった。ここにずっと留まっていたならば、竜宮城にいった浦島太郎の物語のように、いつの間にか沢山の時間がたっていたりしてしまうのではなかろうか。そんな不安が押し寄せる。
 私は少し足早に、ごった返す商店街をすり抜けるように歩いていく。
 商店街の奥へ進めば、格闘ゲームのやけに古めかしい掛け声が聞こえてきた。みっちりと並んだアーケードゲームにも沢山の客がつめかけて、ゲームに熱中しているようだった。さらに奥には針灸や麻雀の店なども軒を連ね、どの店もにぎわいを見せている。
 きっと、かつては。
 母さんが若かった地代には、これがこのデパートの日常であったことだろう。
 胸が痛む。ぎゅっと手を握りしめて、私はようやく階段フロアへ辿り着く。階段ですら客たちでいっぱいで、それをかきわけるようにして、上へ上へとあがっていく。
 商店街エリアを通り過ぎ、居住区エリアに入ったあたりで、ようやく客たちが少なくなってきた。
 屋上へ続くドアノブを掴んで一気に開けば、どっと冷たい風が流れ込む。



 その時、私は、昔の出来事を思い出した。
 屋上にある小さな小さなお稲荷さん。
 家族でここに食事に来ると、私は何故だか屋上にあるお稲荷さんに行きたがった。

 「きつねのお姉さんに会っていくの!」

 そんな風に言う私に、両親は毎回、優しく付き合ってくれていた。
 何故だろう。何故、私はここに来たがっていたんだろう。でも心の奥底で、私はその感覚を覚えている。綺麗な2人のお姉さん。その2人が私をとても可愛がってくれたのだ。
 確かあれは、私がこのデパートで迷子になった時のことだった。
 母親と手を繋いでいた筈なのに、いつの間にか見知らぬ場所に迷い込んでワンワンと1人で泣いていた。
 そこにあの、綺麗な2人のお姉さんが話し掛けてくれたのだ。



 「あらぁ、どうしたの、お嬢ちゃん」

 屋上のお稲荷さんの目の前には、あの時と同じようにとても美しい女性が2人立っていた。
 紫の着物、切れ上がった怜悧な目。だが、その目に宿る穏やかな光に、私は心底安堵する。

 「あの、その、私、迷子に、なっちゃって……」

 がらんと広い屋上は、街全体を見渡せる。今、そこから見えるのはどこまでも続くすすきの原と、真っ赤に燃える太陽だ。
 広い広い屋上に、ぽつんとたっているお稲荷さん。社の前に並ぶ2人の女性は、こっくりと首を傾ける。

 「ねぇ、わたし、この子のことを知ってるわ。迷子になって、泣いていたあの時の子供でしょう?」
 「あら、わたしも、この子のことを知ってるわ。同じバスに乗ってきた可愛い女の子よ」
 「そうなのね。だったら、わたしは分かったわ。あのときの子と、バスに乗ってきた子はおんなじね」

 交互に話す2人の女性は、よく見れば狐のような尻尾と耳がはえている。

 「どうして、バスのことを?」

 私が不思議そうに尋ねると、2人の女性はコロコロと鈴の音のように笑ってみせた。

 「さっきまでは化けていたからね。この姿だと、余計なもんと縁を作ってしまうんだ」
 「若い男は美味いけど、いろいろと面倒なこともあるからね」

 つまり、この2人が先ほどの双子の老婆だったのか。腑に落ちたような、落ちないような、なんとも不思議な気持ちになる。

 「ごめんなさいねぇ。気が付かずにうっかり連れて来てしまったのね」
 「怖かったわねぇ。うっかり連れて来られてしまったものね」

 2人の言葉に、私は首を横に振る。

 「大丈夫、です。その、怖くは、なかった、です。すごく、懐かしくて。嬉しいような、悲しいような、そんな気持ちになって。でも、その、私、そろそろ、家に帰りたくて」
 「ええ、そうね、大丈夫よ」

 2人の女性が手を差し出す。私がそっと手を乗せると、彼女らの手はとても冷たく柔らかかった。

 「大丈夫よ。またバスを呼ぶから帰りましょう」
 「私たちも学校に戻らないと」

 「学校に?」

 「ええ、そうなの。私たちはあなたの通う学校のお社にうつったのよ」
 「そうなのよ。私たち、あそこのお社にうつったのよ」
 「でも大丈夫、学校に戻る前にあなたを家まで送っていくわ」
 「もう大丈夫、あなたを家まで送ってから、私たちが学校のお社に戻るのよ」

 ああ、眠い。
 途端に私はひどい眠気に襲われて、がくりとその場に膝をつく。「大丈夫、大丈夫よ」と、優しい彼女らの声がする。
 真っ赤な夕日。広がるすすき野に、ぽつんと建つあの日の場所。
 それがぐるぐるとゆっくり周り、そうして重く重く落ちていく。



 プシュウっと、バスのドアが開く音で、私は慌てて飛び起きた。
 隣の席ではユウカちゃんがあくびをしながら、大きく腕を伸ばしてる。皆がいま、目覚めたような様だった。
 窓の外にはいつもと同じ、通勤ラッシュで賑わい駅舎が見えている。
 いつもと同じ。
 これがいつもの光景だ。
 席を建って出口に向かう。ステップを降りる途中で、私は一度ふり返った。
 何故だろうか。
 最前列のシートには、誰かが座っていた筈なのだ。
 思い出せない。
 それはあまりにもあやふや輪郭で、思い出そうとすればするほど、ふわふわと形をなくして消えていく。
 じわりっと込み上げる胸の悲しさの理由がどうしても見つからない。
 懐かしさと暖かさに次の一歩が踏み出せない。

 「大丈夫よ」

 その時、優しい声がした。
 そうだね、大丈夫だ。私は小さく頷くと、現実の上へと降り立った。

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