
家鳴り/裏
僕の家の近所には、人が居着かない家がある。
青い屋根瓦の一軒家は、少しばかり古いものの庭もベランダも駐車場もついている。陽当たりだって悪くないので、良い物件だと言えるだろう。
なのに何故か、人が居着かない家なのだ。
事故物件ではないはずだし、困ったご近所さんがいるなんて話も聞いていない。
引っ越してくる人はいるのだが、だいたいは二、三か月でいなくなる。ついこの間、引っ越しのトラックが止まっていたと思ったら、いつの間にかまた空き家になっている。
そんな奇妙な家だった。
僕はなんとなく、その居着かない家が怖かった。
理由ははっきりとは分からない。ただ漠然と怖いのだ。
影の家、と、僕は勝手に呼んでいた。
その家の前に行くと、なぜだか日陰に入ったように感じるのだ。ふいに太陽がかげって暗くなる。なんでこんなに暗いんだろう。
そう思って顔をあげると、だいたいが件の居着かない家の前にいる。
見上げた家は、逆光のように真っ暗で高い壁となって立ちはだかり、そのままどっと倒れて来るかのようだった。
だから僕は、出来る限りあの家の前を通ることを避けていたし、どうしても通らなくてはいけない時には、駆け足になって一気に通りすぎるようにした。
――彼女が、あの家に越して来るまでは。
はじめて彼女に出会った時も、僕は全力で家の前を駆け抜けようとしていたのだ。
けれど途中で小石に躓いた。
あっと思った時には目の前に地面が迫っていて、なんとか両手をついたものの、膝をアスファルトに打ち付けた。
痛い。
最初の激痛が退いたあとにも、じわじわと別の痛みが沸きあがる。
地面にしゃがみこんだまま、ぶつけた膝を恐々としながら確かめる。小さな石が皮膚に食い込み、あるいはアスファルトで皮がところどころ擦りむけて血が滲みだしている。
これはきっと、明日になれば酷い痣になるだろう。
「ちょっと、大丈夫?」
ふいに声をかけられた。顔をあげれば影の家から女の人が慌てた様子で走ってくる。
このあたりでは見たことのない制服だ。多分、高校生だろう。
まだ小学校の僕にとって、高校生はとても遠い存在だ。大人ではないけれど、子供でもない。
綺麗な女の人に話し掛けられた僕は、すっかり気が動転してうまく言葉が出て来ない。
「うわ~、擦りむいちゃったね。頭は打ってない?」
「え、あ、はい、だいじょうぶです」
しどろもどろに答えれば、女の人はにっこりと微笑んだ。
「痛かったでしょ。でも泣かないのえらいね」
よしよしっと頭を撫でられてますます僕は混乱した。膝はずきずき痛むけれど、それ以上に頬が熱くて仕方ない。
「家はこの近所? 一人で帰れそう? 痛いならうちで少し休んでいってもいいよ?」
「だいじょうぶです。近所です」
僕は慌てて首をふった。
影の家には入りたくない。けれど、不思議なことに彼女がいれば、周囲はいつもよりずっと明るいように感じられる。いつものように、日陰に入ってしまったような、あの嫌な感覚が沸いてこない。
むしろぽかぽかとした日向にいるような、そんな気持ちになってくる。
「そっか。近所なんだ。私はね、先週ここに越してきたんだ。これからはご近所さんだね」
握手と差し出された手を、恐る恐る握りかえすと、柔らかくて暖かい感触に驚いた。
それに彼女が動くたびに、とても良い匂いが漂ってくる。クラスメイトの女の子や、母親とはまるで違う、ふわふわしていい匂いのする女の人。僕の心音は早くなり、顔はきっとトマトにように赤くなってしまっているに違いない。
「私はナツミ。よろしくね?」
「僕は、ケントです」
それだけは精一杯に絞り出す。ナツミさんは「よろしく、ケント君」とひまわりみたいに微笑んだ。
それから僕は影の家の前をわざと通るようにした。
偶然を装って、でも運よくナツミさんに会えるのを期待する。僕にとってそれは、きっと初めての恋心で、だから家の前を通るだけでもドキドキしたし、それだけでなぜか嬉しくなってくる。
僕は幸いにして、幾度か偶然に恵まれた。
ナツミさんは僕を見つけると、いつも笑顔で声をかけてきた。ナツミさんが駅に向かう道と、僕が学校へ向かう道が同じだったこともあり、並んで歩く会もあったのだ。
僕はとても幸せだった。
同級生に見つかって揶揄われたって全然気にならないくらいに、僕はナツミさんに夢中だった。
彼女にとって、僕はせいぜい弟程度にしか思われていないことは分かっていた。それでも幸せだったのだ。
だが、ナツミさんのことがあっても、やはり影の家は僕にとって恐ろしい存在のままだった。
彼女が家の中に入っていくのを見送ると、いつも不安な気持ちになる。まるであの家が彼女を食べてしまうのではなかろうか。なぜだかそんな風に思えるのだ。
実際彼女は、少しずつ元気がなくなって来ているように思えたし、対して家は、前よりもずっと、黒く暗く闇が深まって来ているように見えたのだ。
あの闇がナツミさんを飲み込んでしまう。
僕はずっと、そんな幻想に怯えていた。
「うちの家、おかしな音がするんだよね。家鳴りって言うらしいんだけど」
ある日の帰り道、ナツミさんはぽつりとそう打ち明けた。
「お父さんは、古い家ではよくあるって言ってたけど、なんかおかしいの。ねぇ、ケント君はあの家で何かおかしな事はあったとか、そういう話を聞いたことある?」
問われて僕は考えこむ。
あの家は「居着かない家」だ。けれど事故物件ではないのだと父や母が言っていた。
「……ううん、知らない」
僕が首を振るとナツミさんは「そっか」と小さく呟いた。
見上げた横顔は最近はずっと疲れているようだったし、以前に比べてあまり笑わなくなってしまった。
でも、僕に出来ることはない。あの家は影の家だなんて言ったところで、余計に不安にさせてしまうだろう。
あの家に向かう道のりは、駅前の商店街を抜けてから緩やかな坂道を登っていく。今日のナツミさんは足取りも重く、坂道を登るのも億劫そうだ。
僕は心配になりながらも、結局、何も言えなかった。
影の家まで辿り着くと、ナツミさんは相変わらず塞ぎ切った様子で、門扉をゆっくりと押し開ける。キィイっと錆びついた蝶番が軋む音を響かせた。
「じゃあね、ケント君、気を付けて帰ってね」
「うん」
ナツミさんも気を付けてね、だとか、あんまり落ち込まないで、とか、頭の中では沢山の言葉が浮かぶのに口に出すのは難しい。いつだって僕はナツミさんの前ではうまく喋れなくなってしまう。
それでも、今日はなにか少しでも言わなくちゃ。
こんな僕の言葉でも少しくらい励ましになることもあるだろう。
一歩、二歩と歩き出してから、僕はぐるぐると考える。大丈夫。簡単だ。ふり返って、にっこり笑って、「元気出してね」と伝えればいい。
僕は意を決してふり返って、大きく息を飲んだ。
知らない人。
玄関を開けようとするナツミさんの隣にはのっぺりとした影が立っている。
明らかにその人はおかしかった。
だって、玄関の前にただ立っているなんて意味が分からない。その人は多分、男の人で、でもなぜか家と同じく逆光になっているように、真っ暗で顔が分からない。
それにナツミさんはすぐ隣に人がいるのに、まるで気が付いていないようだった。
ナツミさんはふり返った僕に気が付かずに家の中へ入っていく。そうすると、真っ黒な影もすうっと吸い込まれるようにして、家の中へと消えていく。
なんだ、アレは。
僕はしばらくじっと玄関を見詰めていた。
そうして、ふと目を離してはじめてそれに気が付いた。
リビングの窓から、僕を見ている人がいる。
いや、一人じゃない。その人達も影のように真っ黒で、窓際に並んで立っている。
悲鳴をあげそうになるのを我慢して、僕は一目散に逃げ出した。
それからしばらくして、ナツミさんは引っ越していってしまったようだった。
ある日、家の前を通りかかると表札の名前が消えていた。家はきっちりと雨戸が閉じられて、今までも何度かあったように、人の気配がなくなっていた。
引っ越すならばせめて一言、声をかけてくれたら良かったのに。
僕は少しばかりナツミさんを恨んだけれど、きっと仕方ないことなのだろう。
近所に住んでいる、たまに通学路が一緒になるだけの小学生。彼女は僕の家を知らないし、このところは会う機会が少なかった。だから態々、僕の家を探し出して引っ越しの報告をしないのはきっと当たり前のことだろう。
仕方ない。
それでもやはり寂しかった。
僕にとってナツミさんは特別な人だけれど、ナツミさんにとって違っていた。
それは、僕の初めての恋であり、初めての失恋だったのだ。
僕はそれでも、影の家の前をたびたび通ってはありもしない偶然に期待していた。もしかしてナツミさんが戻って来るのではないだろうか。例えば、忘れ物をしただとか、かつて住んだ場所が懐かしくなっただとか。
あるいは、僕に会いに来てくれたとか。
そんなこと、あるはずもなかったが、それでも僕は影の家の前を通るのをやめなかった。
あの家は怖い。
それでも僕は、ナツミさんに会いたかったのだ。
僕の願いがかなったのは、ナツミさんが引っ越してから数か月経ったあとのことだった。
「ケント君」
懐かしい声で名前を呼ばれて、僕は思わず飛び上がった。
それはちょうど影の家を通り過ぎた時だった。
その頃には僕も、ナツミさんにもう一度会える可能性をすっかり諦めていたけれど、それでもまだ学校帰りには影の家の前を通っていた。
僕は驚いて足を止め、それからゆっくりとふり返った。
ナツミさんは庭に面したウッドデッキに座っていた。
家の影になっているせいか、ナツミさんの姿は真っ黒で、その影がゆらりと立ち上がる。
「ケント君、久しぶり」
僕は恐る恐る影の家の門扉に近づいた。
ナツミさんもゆっくりと門に近づいてくる。その顔はやはり日陰になっていて酷く暗く、その癖、顔は病人のように白かった。
「引っ越したのかと思った」
僕の言葉にナツミさんは首を振る。
「戻って来たの。ここが私の家だから」
「それじゃあ、これからもここにいるの?」
問いかけると、ナツミさんはにっこり笑って頷いた。
「うん。そうだよ。ずっと、ここに住んでるの」
なら良かった。
でも何故か、僕の心は嬉しくて仕方ない筈なのに、言いようのない不安がじりじりと背筋を這い上がる。
なんだろうか。
ここは暗いし、それに何故だか寒かった。
「そうだ、ねぇケント君。良かったら家に入らない? お茶もあるし、お菓子もあるよ」
どうしようか。
ナツミさんとお喋りはしたいけれど、影の家に入るのはやはり怖かった。
恐る恐る家の様子を伺うと、未だに家は雨戸が閉められ、庭は荒れ放題になっている。だが、二階の窓を見上げると、そこには、今までも幾度か見かけたナツミの両親が「おいでおいで」と手招きをしながら笑っている。
それに、その隣には。
恐らくはナツミさんのお婆さんだろうか。
初めて見る老人もニコニコしながら、僕を手で招いていた。
みんな笑顔だ。
それにとても歓迎されている。
けれども僕の足は地面に氷ついたように、そこから一歩も動かない。
「どうしたの? ケント君。お茶もあるし、お菓子もあるよ?」
「うん、でも、その、勝手に、人の家に入っちゃ駄目だって、お母さんに言われてるから」
僕はごにょごにょと早口でまくしたてると、ナツミさんはちょっと悲しそうな顔をした。
「そう。それじゃあ、今度、私がケント君の家に遊びに行ったら入れてくれる?」
どうだろうか。それなら問題ないだろうか。
「分からない。お母さんがいいって言ったら、大丈夫だと、思う」
「そうなの? それじゃあ、必ず行くね。必ず」
ナツミさんの声は、やけに平坦で、機械が喋っているようだった。
僕は釈然としない気持ちのままに頷くと、影の家をあとにした。
翌日は朝からしとしとと雨が降っていた。重くのしかかる灰色の空は、太陽の光を遮断して昼間でも家の中は薄暗い。
気温もあまりあがらずに、肌寒く、暗い一日だった。
その日、僕は学校が休みだったので、家の中でゲームをしたり、漫画を読んだりして過ごしていた。
母さんは昼すぎからパートに出かけ、僕は静かな家で一人きりで過ごしていた。一人きり、僕以外には誰もいない。それでも僕はゲームにのめり込むことで、とくに退屈はしなかった。
ドアフォンが鳴ったのは、五時を知らせるチャイムの音を聞いた少し後のことだった。
母さんが帰って来たのだろうか。
もしかして鞄にしまった鍵が見つからないのだろうか。時折、そんなことがある。あるいはスーパーで買い物をしすぎてドアが上手く開けられない時など、母さんはドアフォンを鳴らして僕にドアを開けさせるのだ。
そんな事を思いながら、僕は玄関へ向かっていった。
だが、がちゃりっとドアを開けてみれば、そこにいたのは雨でびしょ濡れになったナツミさんだった。
「こんにちは」
ナツミさんは青白い顔でそう言った。
髪からは水滴がぽたぽたと滴って、体は冷えて寒いのか小刻みにずっと震えている。
「どうしたの?」
僕が驚いて尋ねると、ナツミさんは困った顔をする。
「傘を忘れちゃったの。それで、寒くて仕方なくて。少しでいいから、家の中にいれてくれる?」
何でだろう。
ここからナツミさんの家は遠くない。僕の家に入るくらいなら自宅に戻った方がいい筈だ。
「あの、……」
「お願い。家の中にいれて欲しいの。寒くて、仕方ないの」
ぽた、ぽたっと水滴が落ちてナツミさんの足元に小さな水たまりが出来ていく。
ナツミさんの顔は今にも死んでしまいそうなほど真っ白で、本当に凍えてしまいそうだった。
「お願い。少しだけでいいから」
「うん、分かった」
母さんが戻ってきたら怒られてしまうだろうか。
よく知らない人を家の中に入れちゃ駄目だとか、あるいは、凍えそうな女の人を助けてあげなかったら、それもそれで怒られるかもしれない。
ナツミさんを家の中に招きいれると、ひとまずリビングに連れていく。廊下には水滴がたくさん落ちてしまったが、後で拭けばいいだろう。
リビングの椅子を勧めると、ナツミさんは相変わらず小刻みに震えながら腰を下ろした。
どうしようか。
暖かい飲み物でも出すべきか。
「あの、ココアとか、飲み、ますか?」
問いかけてみても、ナツミさんは俯いたまま震えている。
困ったな。そう思いながら、取りあえずお湯を沸かすことにする。ケトルの中身はすっかり冷めてしまっているから、改めてスイッチを入れ直した。
「傘、持たずに出た、んですか?」
お湯が沸き始める音と、家の外の雨音と。
それだけでは沈黙を埋めるのには足りなくて、僕はナツミさんに話し掛けた。
ナツミさんはやはり俯いたままだった。濡れた髪は顔にはりつき、衣服もじっとりと濡れている。こんな風に濡れるのは、ずいぶんと長い時間、外にいたことになるだろう。
「よく、分からないの。家を出た、はずなのに、いつの間にか、あの家に戻っていて」
ぽた、ぽたと水の垂れる音がする。
湯の沸き終わったケトルは静かになって、余計に水音が耳に届く。
「あの、……」
口を開きかけたところで玄関の開く音がした。
「ただいま~」
間延びした母の声に、心底ほっとして息を吐く。
大好きなナツミさんと一緒なのに、なぜだか息苦しかったのだ。
「ねぇ、三丁目のあの居着かない家ってあるでしょう? あそこまたお引越ししたじゃない? それでね、どうなったかと思ったら、今日、酒井さんが教えてくれたんだけどね」
母は玄関で靴を脱ぎながら喋っている。
僕はその話題に戸惑った。だって目の前には「居着かない家」に住んでいるナツミさんがいるのだ。そんな事を話したら、気を悪くするのではなかろうか。
だが玄関にいる母は、リビングの様子に気付くこともないようだ。
「なんでもね、引っ越しの日に交通事故にあったんですって。大型トラックに突っ込んで、車がぺちゃんこになって、そりゃあ酷い有様だったって。もう、びっくりしたわよ。前に住んでいたご夫婦も旅行中に交通事故で亡くなったって話じゃない?」
なんだって?
意味が分からない。
それは一体どういうことなのだろう。
僕は思わずナツミさんを凝視した。
そうして、僕は気が付いた。
ナツミさんの髪をべったりと濡らしているのは、雨水なんかではなかったのだ。
それは、血だ。
真っ赤な血。
髪も、顔も、そして服も、全身が真っ赤に血で染まり、足元には血だまりが出来ている。
ナツミさんは俯いたまま、先ほどからずっと震えている。
「家族全員、いっぺんに亡くなる事故が二度も続くなんて不気味よねぇ。その前に住んでいたお婆さんも、ほら、確か駅の階段から転がり落ちたとか、なんとかって」
ナツミさんがゆっくりと顔を持ち上げる。
そうして、僕らは目があった。ナツミさんは血塗れのまま僕を見詰めて、そうしてにっこりと微笑んだ。
「家に、いれてくれて、ありがとう」
ゾクリッと背筋が寒くなる。
僕はなにかとてつもない間違いを犯してしまったのではなかろうか。後悔と恐怖が喉を逆流するように込み上げる。
「ちょっと、返事くらいしたらどうなの!?」
ふいに大きな声が飛んできて、僕は驚いて振り返る。
そこには買物袋を持った、母が困惑した顔で立っていた。
「……あれ、ケントじゃない。お父さんは?」
「え?」
訳が分からずに問い返すと、母もますます訝し気な顔で首を傾げた。
「さっきまでお父さんが玄関にいたでしょ?」
「いないよ。今日はだって、休日出勤だって言ってたし」
「そうね。そうだったわね。……おかしいわね。だってさっき、確かに玄関に入った時にお父さんが来たような気がしたのよ。って、やだ、濡れてるじゃない!」
はっとなってふり返ると、そこにはもうナツミさんの姿は消えていた。
けれどリビングの椅子の下はびっしょりと水で濡れている。
「ちょっとケント、あんた何か零したでしょう!」
「零してないよ」
「嘘おっしゃい。もう、いいからさっさと拭いて。夕飯作るからちょっと手伝って」
「うん」
ナツミさんはいない。
ナツミさんはいなくなった。
でも一体どこに消えたのか。そもそも、ナツミさんを見たのは僕の幻覚だったのか。
ならば何故、床には水たまりがしっかりと残っているのだろう。
ひどく寒い。とても寒い。それに家の中がいつもよりずっと暗くなったように思えるのだ。
気のせいだ。
僕は頭を横にふって、不吉な思考を追い出そうとしたけれど、それは背筋にべったりと貼りついたままだった。
その日から、僕の家では、たびたび家鳴りが聞こえてくる。
それは普通の家鳴りとは異なって、まるで誰かが歩いているような音だった。
僕の家は暗くなった。
暗く、そして寒くなった。
僕は玄関を開けるたびにぎょっとする。まるで誰か、他人の家に入ってしまったのではなかろうか。そんな気がして立ち尽くす。
「ただいま」
だから僕は、恐る恐る誰もいない真っ暗な廊下に声をかけて、しばらく様子を伺うのだ。
そうしてしばらく待っていれば、ようやく自分の家に帰ってきたのだと安堵する。
大丈夫。ここは安全だ。
何も怖いことは起こらない。
そう、きっと、大丈夫だ。
「お帰りなさい」
家の奥の暗闇から、ナツミさんの声がした。