ばらばらのまま
私は星野のファンである。
逃げるは恥だが役に立つの「恋」から好きになったアーティストだが、それ以来、彼の日常的で普遍的な感情を穏やかに綴った歌詞や、多様な曲調で表現する一つひとつの曲に励まされ、曲を聴くたびに大好きになっていった。
今年の紅白歌合戦では「地獄でなぜ悪い」を歌うと発表された時、率直にとても嬉しかった。
今年一年、個人的な用事(就職活動や部活動)で精神的に苦しかった時、この曲に何度も励まされてきた。そうだ、世界は地獄なんだ。だから気にせず安心して前に進もう。聞くたびにそう思えた。
そんな一年の締めに、2015年にリリースされたこの曲を、世界が地獄みたいになってきたこの時に、今の星野が歌ってくれることが楽しみだった。
発表後にあったのは、曲目の変更だった。
入り組みすぎた事情を説明することは省くが、この曲は今歌うべきではないという番組と星野サイドの協議により、曲目の変更を余儀なくされた。
変更後の曲は「ばらばら」
冒頭の歌詞は、2010年にリリースされた曲のものである。世界が、人と人が、自分自身がばらばらでも、そのままでいこう。諦観とも受け取れるこの曲を、私は希望と受け取っていた。この曲も(それ以外のすべての曲も)大好きであるため、紆余曲折あっても紅白の舞台で歌ってくれることが嬉しかった。
テレビの前で正座待機、Vaundy、椎名林檎のポップで軽快な曲の後に待っていたのは、ギター一本弾き語りの星野源。一言で表すとそのパフォーマンスは「狂気」だった。
カメラに映ってからの歌い出す前の間、原曲より幾分かゆっくり目の曲調、感情が読めない表情、一部分変えられた歌詞、カメラをまっすぐ見据えた目と最後の歌詞までに込められた無言と「良いお年を」のメッセージ。
今までのテレビパフォーマンスとは一線を画した、ある意味では星野源らしい、星野源らしくないような数分間だった(彼はきっと、「〇〇らしい」といった決めつけを一番嫌うだろう)。
含みを大いに持たせたある種狂気的な歌い方を見て聞いて、Xでは様々な憶測や感想が入り混じっており、またその大多数はポジティブなものだった。
今回の一連の流れは星野自身に全く責任はなく、曲目も紅白サイドからの依頼があり、そこから(勝手に)変更された。はっきり言って理不尽である。しかし、星野はその理不尽を受け入れている。その上での「ばらばら」である。
彼の思考の根底は「ポジティブな諦観」だと思う。理不尽なことに対して、ニコニコしながらも受け流す。しかしその腹の中は中指が立っている。いや、ニコニコしながら中指が立てているといってもいい。歌詞には「糞」や「Fuck you」も出てくる。塩顔の裏に隠されているのは、ドロドロこってりの感情である。
アーティストは作品を作り発表するところまでが役割で、彼らの手から離れた作品は無抵抗に私たちの手元へ広がってくる。そこから先は私たちがその作品を評価する。作り手の意思を汲み取られないまま、有象無象の評価が無根拠に広がることもある。
しかし彼はこのことを理解し、曲に込められたメッセージや感情を押し付けないと同時に、受け手の感性や感情を否定しない。ニコニコできなかったらキレればいい。中指が一本で足りなかったら両手で立ててもいい。もし後ろ指を指されたり仲間はずれにされたとしても、世界はそのままなんだから、そのままいこう。そう言ってくれる。
紅白の舞台で星野のパフォーマンスを見て、それまで感じていた自分自身のアイデンティティの不確定さや未来への焦燥感を薄らげることができた。自分は自分、彼は彼、人は人、世界は世界のまま、私たちはばらばらのまま進んでいく。
ばらばらに進んだ先で、みんなが笑って穏やかに過ごせる日が訪れることを願って、2025年を迎えたい。