断髪小説 冬の別れ
この作品は「五輪カット」とつながっています。
今年最初の作品です。
無料部分にも断髪描写あります。
第1章 初めてのヘアカット
「ねぇ。最後に私のお願い聞いてもらっていいかな。髪を切って欲しいの」
8年前の1月、オレはジュリから初めて散髪を頼まれた。
ジュリとオレは高校2年生の学園祭から付き合い始めた。
オレは古い床屋の三男坊でジュリはいわゆる帰国子女のお嬢さん。
高校を卒業した後、2人は理容の専門学校と名門の外国語大学という全く別の道に進んだのだけれども交際は続いた。
理容師の専門学校を卒業して、オレはジュリよりも早く社会に出て、一人暮らしをしながら、先輩の紹介で街中にある理容室で働き始めた。
ジュリとは少し離れた場所で生活することになったが、土日は彼女がオレが借りている安アパートに泊まりに来て愛を育んだ。
だけどジュリは早い時期から大学を卒業したらイギリスに留学することが決まっていた。ぎこちなく交際は続いていたのだが、クリスマスが終わり年が明けていよいよ別れの時が近づいた。
ゆくゆくはこういうことになると覚悟はできていた。
ジュリは中学生の頃までイギリスに住んでいて、やがてはまた外国に行きたいって夢を語っていた。
いくら愛し合っていても、小さな理容室で働くオレとは住む世界が全く違うってことはわかり切っていた。
だけど今まで別れを切り出すことができなかった。
こう言っちゃなんだが、結構モテるのだけど一途にジュリのことが好きだった。
未練がましいかもしれないけど、今もジュリのことがあきらめきれない。
煮え切らないまま、そうこうしているうちにジュリがイギリスへ旅立つ日まであとわずかとなった。
旅立ちの準備を終えて、オレの部屋にやってきたジュリは最後のお願いと言って、背中まで届く美しいロングヘアを切ってほしいと言ってきた。
あぁ…ジュリは別れたいんだって、わかりたくないけど理解した。
突然の事だからワンルームの狭いアパートの中でジュリの髪を切ることになった。
「髪濡らしてくるね」
ジュリは手早くユニットバスでシャワーを浴びて、下着姿のまま湿った髪で部屋に戻って来た。
エアコンの暖房は効いているけど、きっと寒いだろうに。
この部屋には椅子もない。
ジュリにはベッドに座ってもらって髪を切ることになる。
今までジュリはオレに髪を切らせてくれなかった。
理容師の免許をとって、ジュリの髪を切ってみたいと言っても断られ続けてきた。
前髪のカットでさえも「絶対にイヤ」と拒否された。
オレのことが信用できないのかとへそを曲げたこともあったが、それくらい髪を大事にしてきたのだ。
突然の頼みだったから、仕事で使っている道具は店に置いてきていた。
家にある道具は専門学生の頃に使っていた安物の道具のセットだけ。
かれこれ1年くらいは使っていない道具をクローゼットから取り出した。
下着姿のジュリに家に置いてあった練習用のケープを被せ、湿り気を帯びた髪を櫛でゆっくり整えた。
彼女の漆黒のロングヘアはきっと外国では美しいともてはやされるに違いないのにもったいないなと思った。
「日本人っぽくクラシックな感じのボブにしてよ」
ジュリは少し笑みを含んだ表情でリップラインのあたりを指差しながらオレにオーダーをしてきた。
背中まで届く濡れたストレートヘアが蛍光灯の少し青白い光を反射させて、幾重にも天使の輪を幾重にも浮かび上がらせる。
最初で最後のジュリの断髪。
別れの淋しさだけじゃなく、心のどこかにこの美しい髪をばっさり切ることができるという興奮が湧き起こり複雑な感情が入り混じる。
オレは心を落ち着かせる為に何度も何度も櫛で髪を整える。
反対にジュリは時間が経つにつれて宝物のように大事にしていた髪を切ることに躊躇と緊張が湧き起こっているに違いない。
美容室のように鏡はない。
最後の姿を名残り惜しむことができないジュリは、目を瞑って覚悟を決めろと自分に言い聞かせるようにフーと息を吐いた。
「大丈夫?」オレはたまらず手を止めてジュリに聞く。
「別に無理しなくていいよ」と言葉をかける
だけど
「いや。髪を切って欲しいの」とジュリはきっぱりと答える。
強がっているのは分かりきっている。
だけど願いを聞き入れないといけない。
失敗しないようにオレも覚悟を決めてハサミの刃を開き、ジュリの右側の顎のあたりに位置を定めて…
サクリ、サクリ…サクリ、サクリ…
ジュリの髪をゆっくりと切り始めた。
サイドの髪はジュリの肩をに叩くようにパサリパサリと落ちていく。
濡れた髪があっという間にベッドのマットレスの上に溜まる。
それからもオレは息を整えながら時間をかけて、耳が隠れる程度の長さに
サクリ、サクリ… サクリ、サクリ…
と髪を切り進めていく。
静かな時間が流れていく。
壁が薄いアパートだ。隣の部屋からお笑い番組の笑い声が聞こえてきた。
きっと2人がこの部屋で言い争ったり、愛を確かめあっていた声も聞こえていたんだろうなぁ…
なぜかそんなことに少し気を取られながら、オレはハサミをジュリの後ろ頭にすすめていく。
サクリ、サクリ…サクリ、サクリ…
背中を覆う長い髪がマットレスの上に落ちると、隠れていたジュリの細い首筋や肩が露わになって首筋の大きめのホクロが現れる。
そこから丁寧に櫛でジュリの髪をとかしながら、真っ直ぐに綺麗にカットラインを整えていく。
サクリ、サクリ… サクリ、サクリ…
さっきよりも数センチ短くなっただけで、雰囲気は全然違ってくる。
オレは緊張と興奮を抑え、必死で息を潜めながらジュリの髪をまっすぐきれいに切り揃えて整えていく。
マットレスに片膝を付いて、ジュリの頭頂部を覗くようにしながら髪をとかしているときに頭の近くで鼻で息をした。
洗い立てのジュリの髪の匂いが鼻の奥に届いてなんとも言えない興奮を感じる。
分け目から覗く彼女の白い頭皮はテラテラと滲むように光って見えた。
ベッドに膝をつきながら、櫛を当てて真っ直ぐに揃えて。
決して失敗をしないように終始無口で
チョキ、チョキ、チョキ…
チョキ、チョキ、チョキ…
ジュリの頭の上に手を置きながら左右の高さを揃えていく。
横顔を伺うけど、彼女はじっと目を閉じて口をつぐんだままだ。
前髪は眉がしっかりと見える長さまで真っ直ぐに切っていく。
(この散髪が終わったら、ちゃんとオレから別れを告げよう。)
ジュリの意思が強そうなくっきりとした眉が顕わになった時、オレはそう決意した。
ついに細身の彼女の身体を覆うように伸びていたロングヘアはすべてなくなり、顎より少し短い位置で切り揃えられた。
仕上げに細い首筋や肩が隠れないボブになったジュリのうなじの後毛を、本来は眉毛を整えるトリマーを使って剃っていく。
ジジジジ…ジジジジ…
くすぐったそうに肩をすくめるジュリのうなじはなかなかに毛深くて、剃りにくい。
時間をかけて丁寧に剃ったのだけど、うなじには青々と剃り跡が残ってしまった。
だけどそれが妙に色っぽい。
カットが終わり、タオルを使って顔や首筋についた髪を取りケープを取り払ってあげた。
「終わったよ」オレはボブになって少し寂しくなったジュリの肩に手を置いてポツリと言った。
別れの散髪が終わったのだ。
髪を切り少し幼い感じになったジュリは、髪がなくなった首筋を撫でて「あはは。頭が軽い…」と苦笑いをしている。
「もう一回シャワーを借りるね」
そう言って照れくさそうに立ち上がろうとしたジュリの背中を、オレはしがみつくように抱きしめた。
ジュリは拒まないで黙ってオレを受け入れてくれた。
改めて顔が合う。
2人は黙って長い髪が散らかっているマットレスの上で抱き合い、最後に長いキスをした。
8年前のことだった。
第2章 ズルい女
「ごめん。別れよう…」散髪終えるとタクミは私を抱きしめながら別れを切り出してくれた。
「ジュリにはもっともっと幸せになってもらいたいから。オレのことは忘れてイギリスで頑張ってほしい」って。ボロボロ涙を流しながら私に言ってくれた。
私はズルい女だ。
自分の方が勝手に日本を離れていく立場なのに、自分から別れを告げられなかった。
本来なら私からちゃんと別れを切り出さないといけなかったのに。
タクミに辛いことをさせてしまった。
彼の部屋の中で、私は髪を切ってもらうことにした。
初めてのことだった。
彼との思い出を断ち切って次に進むためでもあり、大事にしていた髪を切ることで私の我儘を許してほしいという罪滅ぼしでもあった。
シャワーを浴びて濡れた髪に初めてハサミが当たった。
ジョキジョキジョキ…ジョキジョキジョキ…
耳元でゆっくりとすごい音を立てながらハサミが通り過ぎていく。
肩に髪が当たっている感触が徐々になくなっていく。
バサバサと髪が落ちていく音を聞いているとタクミとの思い出が走馬灯のように押し寄せてくる。
首の後ろにもハサミが当たった。
バサバサとさっきよりも大きな音で髪が落ちていく。
頭が軽くなる感じと同時に何か大事な思い出まで自分から喪失していく気持ち…。
長かった前髪も眉の上からザクリザクリと切り離された。
目の前に覆い被さっていた髪がなくなるとすごく前が見やすくなった。
だけど、同時にすごい虚無感にも襲われる。
散髪が終わってケープが取り払われると、タクミは軽くなった私の頭を胸に埋めながら泣いた。
そして…
タクミから別れを告げてきた。
だけどなぜか私の目から涙が出てこない。
なぜだろう。私はそんなに冷たい女なんだろうか。
辛い別れのはずなんだけど、感情を露わに泣きわめくタクミのようには泣けない。
私はただ「うん…うん…」と彼の胸の中で呟くように頷いただけ。
ありがとうもさよならも言えず、最後に長い口づけを交わすと私はシャワーを浴びて部屋を出て行った。
第3章 それぞれの8年後
10月に私は日本に帰って来た。
4月から日本の会社で働くことにしたのだ。
ただ帰国して半年は暇だ。
新しい生活の準備を整えながら学生時代の友だちと予定を合わせて再会する。
昔の思い出話に花を咲かせていると、友だちがタクミのことを話してくれた。
タクミは結婚をして地方で理容室を営んでいるという。
なぜか結婚をしたと聞いた途端に心が激しく動揺した。
別れの時、あれほど泣きじゃくっていたタクミが結婚しているなんて、想像がつかなかった。
この間、お互い気まずくて一度も連絡をしていなかったし、8年も経っていれば違う人生を歩んでいて当然なんだけど、しっくりこなかった。
それからというものタクミのことが気になって仕方がなくなってしまった。
よりを戻したいとかそういうことではなくて、8年前にちゃんと別れを告げることができなかった自分の不甲斐なさが気になって仕方がないのだ。
もう一度だけタクミに会って、区切りを付けたいという思いが抑えきれなくなり高校時代の共通の友人に彼の居場所を聞くとこっそり会いに行くことに決めた。
お正月が終わったばかりの木曜日。
東京から車で2時間ほど走ってそこそこ栄えている地方都市に着いた。
この街の中心駅から歩いて10分ほどの場所にタクミが営む理容室があると聞いた。
ナビで駅近くのコインパーキングを探し当てて、車の中で少しメイクを直し、スマホのナビを設定した。
車を降りて設定したスマホのナビどおりに歩き始める。
それにしても寒いし風が強い。
山からの冷たい空っ風が髪をバサバサと舞い上げるかのように吹きつけてくる。
(全くもう)
いたずらな風に少し腹を立て、バサバサになった髪を後ろにかきあげるようにしながら歩いていると、道の向かいにトリコロールの回転ポールがクルクル回る新しい店構えの理容室が見えてきた。
(あそこだ!)
胸がバクバクと高鳴った。
あの店の中にタクミがいるはずだ。
私は道を渡ってお店の数軒隣にある蕎麦屋の前に移動した。
さてとタクミと会ったらどう声をかければいいかな。
強い風を避け、髪を直しながら胸を落ち着けていると、突然タクミのお店のドアが開いて誰か出てきた。
中から出てきたのは白いダウンを着込んだ緑色のバズカットの女性だった。
(えっ?もしかしてこの人がタクミの奥さんなの?)
また胸がドキドキしてきた。
タクミはロングヘアの女性が好みだったのに、全くタイプの違う外見に正直驚きを隠せない。
彼女は店の前に置いてあった自転車を押しながらこっちに歩いて来た。
彼女と目があった。
気の強そうな感じがするけど美しい女性だ。
すれ違いざま、お互いなぜか初対面なのになぜか会釈をしてしまう。
女の勘なんだろう。
私が何者なのか。彼女は気づいたのかもしれない。
別に悪いことをしているわけじゃないのに少しゾッとした気分になる。
彼女が押している自転車には小さな子どもが座るシートが備え付けてあった。
タクミと彼女の間にはきっと子どもがいるんだ。
8年という時間の経過を痛感する。
(どうしよう…)
急に帰りたくなった。
別に約束をしていたわけじゃない。
このままタクミに会わないで帰っても彼は知らないわけだから何も気を遣うこともない。
私自身の問題だ。
どうしようと強い風が吹くなか髪が乱れないように、手でギュッと握りしめながらしばらく立ち止まって考える。
やっぱりここで帰ってしまったら、ずっと悶々とした気持ちのまま生きていく気がする。
「やらない後悔よりもやって後悔した方がマシ。」
留学を決めた時も私はそうだった。
私は意を決してタクミの店の前まで行き、思いっきりドアを開けた。
第4章 再会
ガタン
少し重いガラス扉を押して店に入った。
どうやらお客さんはいない。
店には黒い長袖のTシャツに赤髪の坊主頭の男の人がいた。
「こんにちはー」と彼の声はとても懐かしい声色だ。
髪型も違うしあの頃よりちょっと太ったけど間違いなくタクミだ。
「久しぶり〜」
私は思わず明るく手を振りながらタクミに声をかける。
タクミは一瞬誰かわからず、私の顔をジーっと見つめて急にびっくりした表情をしながら
「えっ?ウソ?ジュリなの?久しぶり、元気だったの!」と一気に話しかけてきた。
ああ、変わらないなぁ、この感じ…。
「すごいね。自分のお店持って」
「いやぁ…実はオレ婿養子でここに来てさー。店を継いだだけだよ」
「結婚したんだね。おめでとう!幸せそうで何よりだ」
「ジュリはどうなん?いつ日本に帰ってきたの?」
「うん。帰国して4月から東京で働くんだ。」
「そっかー。よかったなー。お客さんいないしコーヒーでも飲んで行きなよ」
コーヒーはサービスエリアで買って運転中に飲んだけど断れなかった。
タクミは店の奥に入るとすぐにコーヒーをコップに注いで後ろのソファーに私を案内して話しはじめた。
屈託のない表情で、幸せそうなタクミを見てるとすごくホッとした。
長い間抱えていた彼に対する罪悪感が消えていく。
だけど、その一方で私はなぜか吹っ切れない。
会えばスッキリするはずだったのに。どうしてだろう。
なぜか悶々とした気分だ。
ソファの端に目を移すと、赤ちゃん用のおもちゃや絵本が無造作に転がっていた。
あの日から2人の人生がくっきりと分岐していることをつくづく思い知る。
タクミは家族のことをたくさん楽しそうにしゃべってくれた。
本当に幸せそうだ。
きっと8年前にあんなに悲しませたことも忘れて許してくれているはずだ。
というか私のことなんかもう忘れられていたのかな…。
ちゃんと「ゴメンね」を言いたかったし、本当は心のどこかでずっと私のことを忘れて欲しくなかったなぁって寂しくなった。
でも私はうまく言い出せない。
タクミはいろいろ私に話を向けてきたけど、つい当たり障りのない簡単な受け答えで、話を逸らしてしまった。
そうしている間にあっという間に30分ほど時間が過ぎた。
「ごめんね。お店の予約とか入ってるでしょ?」と聞くと
「いや。5時くらいまで予約ないし、今日は大丈夫だよ」と返事。
まだ1時間半以上も時間がある。
どうしよう。
この場を去りたい気持ちと、まだここに居たい気持ちが錯綜する。
ちゃんと謝らなきゃ。
そして…ちゃんとさようならをしなくちゃ。
(そうだ…)
私はタクミにお願いをした。
「タクミ。お願いがあるの。もう一度髪切ってよ」って…。
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