見出し画像

さよならトウザイ線のまち

地下鉄トウザイ線は市で最も古い路線だ。トウザイ線沿線の中でも僕の住む最寄り駅周辺は古い賃貸物件がひしめく。若い学生や単身者、売れない芸人、そして僕のような売れないバンドマンが多く住む。
そんなこの町に区画整理の波が押し寄せる。
都心から郊外へ伸びる大きな道路が敷設されるのだ。その対象は僕のアパートと目の前の風俗街があるエリアだった。
駅からアパートの間にあるこの風俗街は活気のない、すっかりくたびれたエリアだ。老朽化した風俗店舗は取り壊されその跡地はコインパーキングになっている。今では風俗店よりもコインパーキングのほうが多いくらいだ。やけに見晴らしのいい空間にぽつぽつと西洋風なのか何風なのかわからない装飾の建物が点在している。
ともかく立ち退きである。僕は引っ越すことにした。今度は別の路線の物件を選んだ。もう少しこぎれいな落ち着きのある町にした。
アパートを引き払った日、駅のホームで電車を待っていた。
もうこの駅に降りることはないだろう。快速の止まらない駅で各駅停車が来るまでじっと待つ。都心から距離が近いわりに結局移動に時間がかかる。地価の安いゆえんだ。
不意に声をかけられた。その男はあの風俗街でいつも見かけた客待ちの男だった。
あのエリアではどの店先にも客待ちと思しき30代か40代くらいの男性が立っていた。何をするでもない風に立っている。
みんな、紺のスーツと白いワイシャツ、濃色のネクタイといった格好をしていた。今どきサラリーマンでもネクタイを常用することはあまりないだろう。風俗のイメージを越えてきちんとしている。黒スーツ黒シャツでネクタイは光沢のある赤くらいでないと風俗っぽくないぞと物足りなく感じてしまうくらいだ。
その、客待ちの男もまた僕の顔を覚えていたのだ。
駅のホームから一緒に電車に乗り、別々に電車から降りるまで、僕と男は思いのほか話し込んでしまった。
聞けば男もまたその店で働く最後の日だった。店は当然立ち退き取り壊し、他店で働くことはせず彼はそのまま退職するという。
別れ際、1枚のチケットをくれた。風俗店員とは別にもう一つの仕事をしているという。そのライブのチケットだ。
行ってみた。ライブはお笑いのライブだった。
舞台で漫才をする彼のそのいでたちはまさに黒スーツに黒シャツ、ネクタイは光沢のある赤だった。そっちのほうがそっちだったのかい。
家に着いてもまだ僕の胸には彼らの漫才の余韻が残っていた。
あの歯抜けた風俗街の停滞した空気とはまるで違う熱気を舞台は放っていた。
夜じゅう、彼の相方が放ったフレーズを僕はギターで繰り返した。メロディーを転がし、僕の歌ができるように祈りながら繰り返した。
「キャラメルは、銀歯泥棒」、と。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?