遺書
遺書
この手紙は旧日本軍軍曹、佐久間伊代の死亡が確認された際、✕✕✕✕大学四年生、須藤信二に送られる手筈になっている。
もしも私、佐久間伊代がまだ生きていたり、あるいは須藤信二以外の人間がこの手紙を受け取っていた場合、即座に本部へ返却もしくはその場で破棄してくれ。
今一度問う。私は死んでいるか?そこにいるのは須藤信二か?そうであれば続きを読んでくれ。違うのなら、あるいはこの先を読む気がないのなら、この手紙は終いだ。
どうやら私は本当に死んじまったらしい。
本来、遺書ってのは家族とか友人なんかに送るもんで、母と兄には既にもう書いてある。数少ない友人は皆毎日顔を合わせ、死を覚悟し合った軍人ばかりで、今更手紙で言うことなどない。
ただ、あんたは別だ。あんたにだけはどうしても手紙で言わなきゃならないことがある。だからあんたにはこの遺書を書くことを決めた。
まどろっこしい前置きはこの辺にして、単刀直入に言う。須藤信二、私はあんたが好きだ。友達としてではなく、一人の女として、男であるあんたを好ましく思っている。
自覚したのは今さっきだ。笑えるだろう。上官に遺書を書けと言われて、家族の分を書き直してたら何故かあんたの顔が思い浮かんだ。何故かを考えたら、このような結論に至った。
とはいえ、私はあんたとどうこうなりたい訳ではない。そもそも私は死んじまってるしな。
ただ頼みはある。あんたが今まで私に散々言ってきた、私を好いているという言葉や気持ちが本物なら、私の最後の望みを聞いてくれ。
須藤信二、幸せになれ。
あんたは普段消極的だしどこか頼りない。けどあんたは、何というか、人を幸せにする力がある。私が保証する。
私の人生はろくでもなかったし、軍人としての日々は殺伐としたものだったけど、それでもあんたといる僅かな時間はすごく安心したし、幸せだったよ。ありがとう。
だから、死んだ私のことなどとっとと忘れて誰か、もっと笑顔が絶えなくて、化粧や服装や身のこなしに気を使っててあんたを支えてくれるような、そんな魅力的な女を見つけな。
そしたらさ、あんたも、あんたが好きになった女も幸せになるだろうさ。
私との最後の約束だ。幸せになれ。そんで惚れた女を幸せにしろ。大丈夫、何だかんだ言ってあんたは約束を必ず守る男だから。
死後の世界なんぞ信じちゃいないが、あんたがヨボヨボの爺さんになって、家族に囲まれておっ死んで来た時にゃ盛大に祝ってやるよ。
じゃあな、信二。さよならだ。
幸せになれよ。
追伸
あんたが私の誕生日プレゼントに寄越した、あんたが作ったと言った青いドレス、派手すぎじゃないか?
試しに一度袖を通してみたが、やっぱり私には合いそうにない。
けど、嬉しかったよ。ありがとう。
今度は私なんかじゃなく別の、もっとドレスが似合う女に作ってやりなよ。
佐久間伊代
***
佐久間伊代さんからの遺書が送られて一週間が経った今日。遺書を持ってきてくれた彼女のお兄さんが再び家を訪れ、すぐさま同行を頼まれた。軍からも死んだと思われていた佐久間伊代さんが帰ってきたらしい。重体ではあるが会話は問題なくできるそうだ。僕は二つ返事で承諾した。大学にはすでに軍の方から連絡してくれているそうだ。
着いたのは軍本部に併設された病院。長い廊下を歩く間、僕は少しも落ち着くことができなかった。佐久間さんが、生きていた。生きて、帰ってきてくれた。それだけでこみ上げてきそうな涙をぐっと堪え、案内された彼女が入院している部屋に入る。
案内を終えた佐久間さんのお兄さんが「仕事があるから」と一礼してその場を去った。きっと気を使ってくれたのだろう。僕は一声かけてカーテンを開ける。
待ち望んでいた彼女は、佐久間伊代さんはそこにいた。
彼女は全身に包帯を巻いていた。所々血で滲んでいるのが痛々しい。けど、それよりも目元にしっかりと巻かれた包帯から目を離せなかった。もしかして、これは、つまり。
「……須藤か?」
呆気に取られていると、僕に気づいた佐久間さんがこちらに顔を向ける。久々に聞いた彼女さんの声は、とても弱々しかった。
「久しぶりだな。二週間ぶりか?」
「……佐久間さん、よくご無事で」
「はっ、無事じゃねぇよ。全身痛ぇし、しばらく動けねぇし。おまけに目も使い物にならなくなっちまった。処置もほとんどしてねぇのに包帯だけ巻きやがって邪魔ったらありゃしねぇ」
「…………」
「上官と兄からは除隊を勧められた。ふざけんなよ、散々人をこき使った挙句敵地にほっぽり出したくせに。今更軍人以外の生き方なんざ知らねぇよ。それに、」
それに、と呟いた瞬間、それまで一気に捲し立てるように話していた佐久間さんの声が一変して小さなものになった。見えない目で、それでも何かを探すように遠くを眺めていた佐久間さんは、彼女が言うには何の意味もない目元の包帯を外し、今度は顔を下に向けた。よく見ると彼女の肩は震えていた。
「……声が、聞こえるんだ」
「声?」
「目を失くしたからかな。やけに耳が敏感になっちまった。今まで聞こえてこなかった声がやたら耳に入ってくる。耳を塞いでも何しても消えねぇんだ。隣の病室でたった今死んじまった部下の声が消える瞬間とか、そいつの知り合いのすすり泣く声とか。さっきここに見舞いに来た上官が病室出た瞬間話し始めた私の陰口なんかもな」
「……佐久間さん」
「私の元を訪れてきた連中は皆、私から離れると好き勝手言いやがる。何故軍人らしく戦地で死ななかったとか、仲間を置き去りにした裏切り者とか、もう使い物にならないとか」
「…………」
「帰りを待つ仲間はもういない。私が生きていることを喜んでくれた隊長も仲間も目の前で死んでしまった。私は……私は、何のために帰ってきたんだろうな……」
考える余裕などなかった。気がつくと僕は彼女の肩を引き寄せ抱きしめていた。驚く佐久間さんの身体が強張るのを感じたが無視した。周りには他にも何人か入院患者がいたが、それも無視した。初めて抱いた彼女の身体は想像していたよりずっと小さかった。
「なっ、お前何して、」
「佐久間さん、いや……伊代さん、結婚しよう」
「……はい!?」
「結婚して、家族になろう。写真もたくさん撮ろう。そして、君がどこへ行こうとも僕はいつまでも待つ。君が帰って来る理由なんて僕がいくらでも作るよ」
「え、あ、落ち着け。そもそも付き合ってないだろう私らは。いきなり何で、」
「僕は! ……僕は君の言う通り頼りないし情けないし、僕よりもずっと強い君を守れる自信もない。けど、君を幸せにする自信はある。何より君自身が保証してくれたんだ」
「…………」
「君を一人にしない。約束しよう。僕は何だかんだ言って約束を守る男なんだろう?」
「…………」
「僕と結婚してください」
反論がすっかりなくなってしまった佐久間さんに不安になって体を離し、彼女の顔を覗き込む。耳も頬も首元も熟れた林檎のように真っ赤だった。焦点の合わない、それでも綺麗な赤い瞳からは大粒の涙が溢れている。
彼女は震える唇で、それでも気丈に言葉を発した。
「……私の、気持ちは、無視か?」
「ごめん、君からの手紙を見た」
「……遺書、読んだのか」
「読んだ。君の気持ちも知った。今更嘘なんて言わないで。君に嘘は似合わないよ」
「私、みたいな女と結婚しても……幸せになれんぞ」
「なるよ。僕が、君を幸せにするんだから。そしたら絶対に僕も幸せになる。……それで、返事は?」
僕の問いに無言でゆっくりと頷く佐久間さんを見て、ようやく安心して再び彼女を抱き寄せる。瞬間、何かの糸が切れたかのように腕の中の彼女が嗚咽を漏らした。今まで堪えてきたものをぶつけるように僕の胸元の服を掴んで泣きじゃくる彼女の短い黒髪を、できるだけ優しく撫でる。
「幸せになろう、伊代さん」
決意と約束を込めて腕の中の愛しい人に再び言葉を送った。