ただいま
「佐久間怜士の場合」
十日ぶりの自宅。リビングのソファで静かな寝息を立てる妻の姿に照れくささからくるむず痒さを感じる。
夜更かしが苦手な彼女には、先に寝ていいといつも言っているにも関わらず、こうして毎回待っていてくれる妻からの出迎えには未だ慣れない。今日は眠気に耐えきれずそのまま寝落ちてしまったようだが。
政略結婚に近い見合いで彼女と出会い、親交を深める間もなく一緒にさせられたばかりの頃はこんな気持ちは沸かなかった。この二年の間に彼女、佐久間ハルはそのマイペースさを持って僕のずっと近いところにまで入り込んでいた。
ソファでは休まらないだろうと彼女を横に抱き上げる。いつものことながら彼女の身体はとても軽くて柔らかい。
持ち上げた僅かな衝撃で彼女が目を覚ましたようだ。普段は見ることの叶わない細い碧眼が長い睫毛から覗く。ぼんやりとした瞳はこちらに気がつくと柔らかな笑みと共に隠れた。
「あー怜士くんだー」
「起きたか」
「私、寝ちゃってたねー。おかえりなさい」
「……ただいま」
そのまま寝室へと向かう。寝室にはすでに布団が二組並んで敷かれており、またあのむず痒さに似た照れ臭さを感じる。いつの間にか同じ部屋で睡眠を共有するようになった事にもまだ慣れなさそうだ。
だが、嫌ではない。彼女が近くにいることがむしろ心地よいとさえ思っている。
「怜士くんご飯は? お風呂は?」
「台所に置いていた夕飯は貰った。風呂も」
「じゃあ私は?」
「早く寝なさい」
「はぁい」
クスクスと冗談めかしに笑う彼女を布団の上に下ろす。あらかじめ捌けておいた掛け布団を被せようとして、しばし立ち止まる。彼女の僕を呼ぶ声を聞き流し、そのまま自分も彼女の布団に入り込む。
狭くなった布団の中で、彼女はそれでも嬉しそうに微笑んだ。
「えへへ。一緒に寝たくなっちゃった?」
「……先に誘ったのは君だろう」
「え、あ、えーっと?」
「冗談ですよ」
「……もう」
顔を赤らめて慌てたかと思えば、子どものようにぷう、と頬を膨らます。その顔すら可愛いと思ってしまう僕は相当なのだろう。
しばらく他愛のない会話をしていたが、元々うたた寝をしていた彼女は本格的に限界だったのか、気がつくと静かな寝息が聞こえてきた。僕の手を握りしめたまま眠る彼女の緩みきった寝顔を眺める。
彼女の笑顔に、安らかな寝顔に安堵するようになったのはいつからだろう。いつの間にかここが僕の帰る場所になっていた。
おやすみ。
夢の中の彼女に小さく呟いて、握られた手はそのままに彼女を抱きしめて僕も眠りについた。
***
「佐久間伊代の場合」
その日は用事があり外に出ていた。すっかり日も暮れた頃に用事を終え、新居の前まで帰ると、家の明かりがついていることに気づく。どうやら信二さんの方が先に帰っていたらしい。
十五の時に家を出て、信二さんと結婚するまでずっと一人で暮らしてきた。誰かのいる家に帰るのは……とても久しぶりだ。
扉の鍵を取り出そうとして、ふとそのまま扉を開けてみる。難なく開いた扉に思わずくすぐったい気分になった。鍵を開けてくれているというだけで、こんなにも温かい気持ちにさせられるなんて。
そのまま玄関で靴を脱いでると奥から慌ただしい足音がこちらに向かってきた。誰か、なんて確認するまでもない。
その人は、信二さんは、足音が止まると同時に、とびきりの笑顔を浮かべているのだろうと見えなくとも分かるほどに明るい声で言った。
「伊代ちゃん、おかえりなさい!」
……ああ、帰る場所に誰かがいるって、こんなにも幸せな事なのか。
思わずまろび出る笑みもそのままに私は、どこまでも温もりをくれる彼に言葉を返した。
「ただいま」
***
「佐久間仁の場合」
散々な一日だった。
喫茶店で客同士が喧嘩するわ客に絡まれるわ、おまけに今日は裏仕事まで任され上司にこき使われ、気づけば定時をとっくに過ぎていた。
ストレスと、思い出したかのように襲いかかる空腹と戦いながら帰路につく。
昼は食べられなかった。当然ながら晩飯も作っていない。遠方ならともかく家路までの田舎道に夜遅くまでやってる店などあるはずもなく、結局俺はイライラしながら帰る羽目になっている。あーくそ、店で何かガメてくれば良かった。
すぐにでもありつけるようなあり合わせのメニューをあれこれ考えながら家の扉を開けると、何やらいい匂いがした。次いで、職場では再三聞き慣れた何かを炒める音と上機嫌な鼻歌。
まさか、と思いつつ台所に向かうと、そこには俺が家で使っているエプロンをぶかぶかの状態で身につけ、鼻歌交じりに野菜と肉を炒めるあいつの後ろ姿だった。
俺が呆然としていると物音で気づいたのかあいつが振り返り、フライパンの火を止め、花が開いたかのような笑顔を向ける。
「あ、仁さんおかえりなさい! 今日は遅かったね」
「……何で」
「今日ね、お仕事早く上がらせてもらったの。んで、いつもご飯は仁さんが作ってくれるから今日ぐらいは私が作ろうかなーって……あの、仁さ……っん!?」
天使。いや女神か。
言葉の途中だったが耐えきれず明日香の口を口で塞ぐ。いつも以上に疲れていたせいもあって俺の理性は簡単に決壊した。俺のサイズの合ってないエプロン着て、鼻歌歌いながら料理してる嫁を見た瞬間もう駄目だった。可愛い。愛しい。可愛い。
何度も口づけを交わし、唇を解放した後も膝をつき力の限り、ただし小さなあいつが潰れない程度に正面から抱きしめる。
「仁さん今日は大変だったんだねえ。お疲れ様」
俺の様子に明日香も何かを察したのか、頭を抱えるように撫でられた。子ども扱いされるのは癪だがそんなつまらない意地さえ吹き飛ぶほど今の俺は疲れていたし、それ以上にこいつに癒やされている。
我ながら現金だが、それでも明日香が側にいる現実を心の底から感謝した。……口にはまだ出せないが。