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【90年代小説】 シトラスの暗号 #5
関東ローム層でできた小高い丘の上に、わたしたちの高校はあった。
ローム層特有の赤茶けた土の校庭は、雨が降ると立入禁止になり、風が吹けばS高嵐と呼ばれるすさまじい砂嵐に見舞われた。
そのものすごさと言ったら、教室の窓を閉め切っていても隙間から入り込む砂埃で、窓際の生徒のノートが茶色くなるというほどだった。
と言っても、わたしたち3年生は道路側の北館に隔離されているので、とりあえずその心配はない。
ただ、授業に飽きたからと言って、校庭を眺めて暇つぶしができないのが難点。見えるものと言ったら、中庭に1本だけある桜の木くらい。それも今は葉桜になっている。
正門を出たら向かって左。〈心臓破り〉と呼ばれる、雪の日には車が上らないほど急な坂道(本当。わたしなんて、道が凍るたびに何度滑って転んだか数え切れない)を、下って上ってまた下って。延々20分歩いた末に、やっと駅にたどり着く。これが競輪の日以外は混んだことがないという、地味なJRの駅だ。
その駅に向かって佐智子とふたり。ダラダラと坂を上りきったところで、前方に黒っぽいスーツの後姿を見つけてしまった。
すんなりと伸びた背筋、あくまでも長い脚。間違いない、織田修司だ。
今日は13日の金曜日だったかな。13日はわたしの誕生日だ。今年は確か土曜日だったはず。いや、関係ないか、そんなことは。
またもや空回りを始めるわたしの思考回路。
どうか佐智子が気付いてませんように。祈りつつ窺うと⋯⋯
オーマイガッ!
近眼のせいで潤んだ瞳にお星様を散りばめて、キラキラ輝かせているではないか。
「おっだせんせえー」
名前を呼ばれて振り返る。声の主を見つけて、片手を上げて微笑を返す。全てがスローモーションで。あたかも恋愛ドラマのオープニングの如く。きっと画面の右下には、彼の名前がクレジットされているに違いない。
「キャーッ! 一緒に帰りましょー」
鞄を振り回しながら下り坂を利用して、佐智子は時速40キロで走ってゆく。それはもう、アラレちゃんみたいな勢いで。
これも恋のパワーってやつか。お願いだからわたしを巻き込むのだけはやめてよね。リーダーの対訳、写させてあげたじゃない。
またしても祈り空しく、坂道一杯に現役放送部員佐智子の、マイクなしでもオールオッケー! な声が響き渡った。
「清香ちゃんたら何してんのー! 早く早くー!」
電車を待つ駅のホーム。
恋する乙女モード全開の佐智子が、バックにお花のトーン満開にして、延々おしゃべりし続けている。
その後ろで、ヘビ縄しょって立っているわたし。
「先生、大学どこだったんですか? やっぱ慶應とか立教とか?」
「いや、実はね、私学って通ったことないんだ。高校も県立だったし」
「えーっ、じゃあ大学は国立だったんですか? すっごいなあ。あ、うちの学校って国立出身の先生、あんまり居ないんですよね」
「そうらしいね。でも、国立とか私立とか、教師やるのに関係ないよ? 僕は国立志望の生徒にアドバイスはできるけど、国立私立で教え方のうまい下手はないと思う。実際、僕も自分の教え方が悪いんじゃないかと悩んでるところだし」
「どうかしたんですか?」
「君たちのテストの結果がひどすぎて」
「あー、えへへ」
えへへじゃない! あ、わたしもか⋯⋯。
理系でしかも国立。ますます許せなくなってくる。
都内で理学部がある国立大学は⋯⋯お茶大、東工大、東大。お茶は女子大だから除外して。
近県だと⋯⋯埼大、千葉大、筑波⋯⋯茨城大?
こんなもんだっけ。
「前の物理の先生って、すっごい変なオヤジだったって話ですよ。ハゲだしスケベだし、おまけに戦争オタクだとかで。空気抵抗の授業で、必ず日本軍の風船爆弾の話をするんですって」
「へえー、それ面白いかも。今度僕も使わせてもらおうかな」
「やめてくださいよー。先生までハゲちゃいますよ」
「なんだそれ。ひどいなあ」
あはははははは、はあ。つまんない話。
上り電車の到着を告げるアナウンスが入り、地下鉄線と相互乗り入れしている、銀色の電車が滑り込んでくる。
「先生、上りですか?」
「うん、千駄木」
千駄木!?
「もしかして、ひとり暮らし?」
「そう。残念ながら」
住居は千駄木、ひとり暮らし。いやな予感がする⋯⋯。
いやいや、今はそれどころではない。佐智子は下りなんだ。ということは!!
「じゃあね、佐智子。また明日」
言うが早いか、2両先のドアに向かってスタスタと歩き出した。続いて彼女の甲高い声。
「バイバーイ、清香ちゃん。また明日ねー」
あんなのと一緒に帰るなんて、冗談じゃない。わたしはミーハーな佐智子とは違うんだから。
背中で閉まったドアにホッとひと安心。さながら刑事に追われる犯人の気分。
ところがどっこいパート2。
油断しきっていたわたしを、再び恐怖が襲った。そう、忘れちゃいけない。電車の車両はつながっていたのだから。
「サーヤカちゃん」
ぎっくう!
缶蹴りの鬼みたいな調子で名前を呼ばれて、わたしは縮み上がった。
連結部のドアを開けて入ってきたのは、うまく撒いて逃げきったはずの敵、織田修司その人だった。わたしってバカ。
「サヤカちゃん、可愛い名前だね」
ザ・誰にでも言うほめ言葉。
「可愛いって言えばさ、嶋崎さん。ほんっと可愛い子だよね。ちょっとおしゃべりだけど。放送部だから仕方ないのかな」
おしゃべりって言ったらあなたもそうでしょ。わたしが答えもしないのに、ひとりでしゃべってる。ヘリウムより軽いなこいつ。
嶋崎佐智子は確かに可愛い。
いや、正直言って女のわたしにはよくわからないんだけど、男子にモテまくっているから、きっと可愛いってことなんだと思う。
彼女は1年の時からのクラスメイト。わたしのいわゆるトイレ友達だ。
特徴と言えば、小作りな体と顔に似合わない、転げ落ちそうに大きな目、それを囲む丸メガネ。カリメロそっくりにカットされた髪。全教科中、数学だけが異様に得意だという不可解な頭脳。人懐っこい性格。そして前述した通り、おしゃべりな口と甲高い声。
彼女と居ると、知らない間にわたしは引き立て役になってしまっているようだった。もしかしたら、それを知っててわたしとつるんでるのかも、なんて。
こんな考え方は性格悪いな。反省、反省。
おしゃべりで軽薄で国立出身の物理教師は、わたしの右隣に少しだけ間隔を空けて座った。
瞬間、ふわっといつもの香り。
一瞬、クラッとするわたし。敏感な嗅覚が恨めしい。
わたしとは反対側に向けて脚を組む。制服のスカートに気を遣ったつもりかもしれない。
そういえば、さっき並んで歩いてた時も、わたしと佐智子には車道側を歩かせなかった。
フェミニスト。カッコつけ過ぎ。
「はい」と差し出されたものは、クロレッツの板ガムだった。
キスの前でもないのに。考えてしまってから、ひとりで赤面する。バカ! バカだわたし!
ガムを受け取ろうとしてふと見た左手。そこに「マジで!?」を100連発しそうな、とんでもないものを見つけた。
腕時計。ただし、キティちゃんとか、ミッキーの手が動くやつとかじゃない。
「先生、これ!」
声が裏返っていた。まるでglobeと朋ちゃんを続けて歌った後みたいに。
「何?」
「これクロノスペースでしょ? 本物でしょ?」
わたしは思わずその左手を握りしめていた。
クロノスペースはスイスのブライトリング社が出している腕時計だ。ミッドナイトブルーの文字盤に、アナログとデジタルがデュアルで組み込まれている。もともとはNASAの宇宙飛行士用に作られたものらしい。少し前から日本でも売られるようになった。
「よく知ってるね。女の子で珍しいな。こういうの好きなの?」
「持ってる人が身近に居るなんて! これ、17万もするのに!」
そうなのだ。ファッション雑誌で見つけて、カッコイイ! ほしい! と思った次の瞬間、値段を見て悲しくなった。17万。どんだけバイトしたら買えるだろう。いやムリだ(反語)。
それがこんなところにあるなんて。
「値段大声で言わないでくれる? ロレックスに比べたら、全然たいしたことないでしょ」
でも、わたしには買えない。
「あの、手、離してくれる?」
うわっ! 慌てて両手を広げた。はずみでガムが膝に落ちる。
なんてことしてんだわたし、信じられない。もうやだ、死にたい。
「ところでさ、サヤカちゃん。僕のどこが嫌いなのか教えてくれないかな」
「清香ちゃんて言うの、やめてください」
馴れ馴れしいのよ、全く。これも全部佐智子のせいだ。もうリーダーのノート、見せてやらない。
「教えてくれないとやめません」
何それ、どういうつもり? 子供じゃないんだから。ほんっとムカつく男ねえ。
「わたしが買えなかった腕時計してるところです」
「それは今知ったんでしょ?」
「じゃあ、顔がいいとこ。二重まぶた。きれいな歯並び。糊の利いたシャツ。上等なスーツ。長い脚。清潔な爪。甘い声。女の子に優しいとこ。頭脳明晰。品行方正」
思いつく限り、ズラズラと並べてみた。まるでイイ男の見本市。
人が真剣に話しているというのに、先生は途中からクスクスと笑い出していた。
「なるほど。確かに、愛の告白に聞こえなくもないな」
「はあ!?」
「じゃあね、お返しに僕からもひとこと言わせてほしいんだけど」
何よ、言ってみなさいよ。
「気の強い女の子ってね、僕は結構好きだよ」
頭の中が真っ白になった。その中に、どういうわけだか最後の4文字だけが、いつまでも浮かんでいた。
ハッと我に返ると、いつの間にか電車は駅に到着していて、発車予告のメロディが流れている。
「降りなきゃ」
「さよなら」も言わずに立ち上がり、慌ててホームに降りた。
動き出した電車の窓から、彼がニヤニヤ笑いながら手を振っている。
からかわれたんだ。しっかり仕返しされてしまった。悔しい。メッチャ悔しい。どうしてこんな目に遭うわけ? 何も悪いことなんかしてないのに。⋯⋯ああ、したんだった。
「ちっきしょー!」
下品な言葉を吐きながら、改札へ続く階段を下りようとしたら、何か違っていた。ここ、わたしの降りる駅じゃない。気付かない間にひとつ乗り越していたみたい。
本当にバカね。
口の中のクロレッツが、辛かった。
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