【4711】 情熱の赤いバラ #3
愛子さんは俺が入店して初めて付いた指名客だった。俺の何が気に入ったのかは知らない。
ひとつの扉が閉まれば必ず別の扉が開く。扉を開けてくれたのが愛子さんだ。
歳は42。離婚していて、広尾にある4LDKのマンションにひとりで住んでいた。
オヤジさんは都内にいくつもビルを持ち、飲食業、美容業などを手掛ける実業家。
彼女はその傘下で、渋谷にオフィスがある女性スタッフのみのコンサルティング会社を経営していた。
初めて指名をもらった土曜の夜、閉店まで居た彼女を送るために一緒にタクシーに乗り込んだ。
マンションの車寄せにタクシーが止まる。
彼女が支払いを済ませる間、俺は先に降りて運転席後ろのドアを開ける。
お客様が乗り降りする際は、開けたドアを片手で押さえ、もう一方の手で頭をガードしてあげて、「頭ぶつけないように」と注意を促す。
「乗って帰っていいわよ。タクシー代あげるわ」
「いえ、お部屋までお送りします」
答えて肩を抱いた。
部屋は14階だった。
ドアを開けて彼女は言った。
「入って。コーヒー淹れるわ」
「いいえ」
俺は微笑んで軽く首を振る。
「今日のところはここで失礼します」
「ダメなの? どうして?」
「ダメじゃありません。でも、またすぐお会いできますから」
腑に落ちない顔の彼女に、俺は深々と頭を下げた。
「今日はありがとうございました。また来週お待ちしております。おやすみなさい」
鉄のドアが閉まるまで、俺は頭を下げたままでいた。
カチャリ、鍵が下りる音を聞くと、メモ帳を出してマンション名と部屋番号を書き留めた。
機嫌悪くしてもう来ないだろうか。
いや、来る。
その頃俺はやっと19になったばかり。そんな小僧におあずけ食わされるのはさぞかし悔しかろう。
だから絶対に来る。
保険として、翌日の出勤前に店の近くのゴトウ花店に寄って、土曜の朝イチで広尾のマンションに花を届けてくれるよう頼んだ。
心理テストと称して、好きな花と色は訊き出しておいた。
1番いい赤いバラを1ダース。『今夜お待ちしております』のカードを添えて。
次の土曜日、店に現れた愛子さんは、既にどこかで飲んできたらしく頬がわずかに上気していた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
「ヒカルくん、お花」
最後まで聞かずに足元に膝を付いた。右手を取り、手のひらに口付ける。
席へ案内する途中、すれ違った三上が俺に向かってヒュウ! と口笛を吹いた。
その日の閉店後。店の前でタクシーを待つ間、ふと空を見上げると満月。
「愛子さん、空を見て。月がきれいですよ」
「あらほんと、満月ね。あの光り輝く月が手に入るなら、わたしは死んでもいいわ」
この返しが来るとは思わなかった。しかも光り輝くは俺のことか。
難しいことは何も考えず、ただ見上げた月がきれいだったから言っただけだったが。
この人、侮れない。
同乗したタクシーの中で、俺は前を見たまま言った。
「月なんて簡単に手に入ります。あなたがそれを望むなら」
その日は何も言わずにドアを開けた。
俺も何も言わずに中に入った。
「座ってて。コーヒー淹れるから」
リビングのソファを指差しキッチンへ入ってゆく。
俺は上着をソファに投げてあとを追い、後ろから抱き締めた。
「コーヒーよりも」
ショートカットのうなじに口付ける。
ブラウスの襟元から微かに甘い香水の匂いがした。
俺が贈ったバラはベッドルームに活けられていた。
ガレか? クリーム色の地に赤い小さな花と大きな葉の絵が描かれた花瓶。
百万はしそうな花瓶に2万もしないバラの花束。
まるで俺とこの人みたいだな。
事が終わったあと、俺はその1本を引き抜いて愛子さんの胸元に置いた。
「どうしてわたしが赤いバラ好きって知ってたの?」
それには答えない。
「これは僕の情熱の赤いバラです」
「情熱? わたしへの? 仕事への?」
「物理です」
「物理……大学で物理を勉強してるのね」
彼女は茎を持って自分の顔の上でバラをくるくる回しながら言った。
「で、ヒカルくんのお願いは何?」
「わかってたんですか」
「手のひらは懇願のキス。ナンバーワンが取りたい?」
「いいえ、僕はプロになるつもりはありません。だからナンバーワンなんて要らない。それより、僕を直接支援してください」
それが、俺と愛子さんの「ある事情」だった。
客を裏引きするのは当然ルール違反だ。
彼女から直接金が流れるようになったので、掛け持ちしていたバイトは全部辞めた。平日の夜は自由な時間が取れるようになった。
金をもらってはいたが主従関係ではなかった。会っていない時間は俺の自由にさせてくれた。
ただひとつだけ、彼女と居る時はタバコを吸ってはいけない。それだけが決まりだった。理由は単純に「嫌いだから」と言う。
その程度のことはなんともない。タバコをやめろと言われたわけではないのだし。
いい機会だと考えてやめてしまえばよかったのだろうが、多少意地になっていたかもしれない。
16の時に吸い始めたタバコをやめようとは思わなかった。