
【90年代小説】シトラスの暗号 #14
Ⅵ.SHAKE ME BABY
織田先生の部屋は、千駄木駅近くのマンションの3階にあった。1LDK。
いきなり来たのに、男の人のひとり暮らしにしては片付いている。と言うか、物がない。理系の部屋ってこんな感じ?
「あー、答案出しっぱなしだ。片付けてシーツも替えるから座って待ってて。トイレは玄関の横。あ、着替えたいよね。なんか持ってくるわ。ちょっと待ってて」
ダイニングのソファにちょこんと座る。そこで初めて、転んだ時に左の膝をすりむいたことに気が付いた。でも、血は出てないからいいや。
テーブルの上には空の灰皿と新聞と雑誌。WinPC って書いてある。ページをめくってみたら、この前のハードカバーと違って本当にパソコンの本だった。
「はい、でかいかもしれないけど」
Tシャツとランニングパンツを手渡された。
洗面所で化粧を落として着替えていたら、オーデコロンが置いてあるのに気が付いた。
インポートもの。ブルーとゴールドのラベルに、4711という数字が書かれている。
ヨン・ナナ・イチ・イチ。どこかで聞いたことのあるナンバーだと思った。
「⋯⋯そうか」
思い出した。あれは確か、真実のキャッシュカードの暗証番号。そして、その数字の意味は⋯⋯。
鏡に映った自分をまじまじと見る。すっぴんのわたしは、眉も太いし本当に幼い。でもこの顔、嫌いじゃない。
1番大事なのは、自分で自分をごまかさないこと。自分に嘘をつかないこと。
「そうだよね。嘘をついちゃいけない。わたし、ちゃんと女子高生してるもん」
コロンの瓶を手に取って、背中に吹き付けてみた。
青いライムを絞ってハーブを混ぜたような、穏やかなシトラス系の香りが広がった。
リビングに戻ると、先生はソファで缶ビールを飲みながら新聞を読んでいた。
この前と違うビール? キリン⋯⋯一番⋯⋯? その先を読もうとしてかがみ込んだら、チラッと目を上げて、
「見えるよ?」
とだけ言った。
「え?」
意味を理解するのに、1ナノ秒ほどかかった。つまり、瞬時に理解したってことよ。
「見たの!?」
「やっぱメンズはでかいか」
「どこまで? どこまで見たの?」
「あー、なんつーか、あれだ、限りなく水平に近いブルー?」
「げっ、インテリギャグ」
「インテリですから」
「ブラの色までしっかり見てるじゃん!」
「谷間が平らなのも見えたよ」
「失礼ね! これでもBカップあるのよ! ちゃんと見たの!?」
「見てません。何も見てませんから」
「もー、信じらんない」
首の後ろで髪が揺れると、コロンの香りがふわっと漂う。
「あ? 俺のコロン使った?」
「好きなの、この匂い」
「そう? 女の子には似合わないと思うけど」
Dr.コパより、このコロンを買って帰ろうかな。こっちの方が効き目ありそう。
「4711って、先生の誕生日なんでしょ?」
「ああ、あれね。そうだけど、よく知ってるね」
「わたしも女子高生だからね」
「どういう意味?」
「自分に嘘をつかずに生きようってこと」
「⋯⋯はあ。いや、全然わかんない」
「ねえ、喉乾いた。なんか飲むものある?」
「冷蔵庫適当に漁って」
言われて冷蔵庫を勝手に開ける。⋯⋯牛乳、グレープフルーツジュース、ミネラルウォーター、⋯⋯後は全部ビール?
バドワイザーというラベルを見つけて手に取る。5秒考えてタブを開けた。
味がわからないように、一気に飲む。半分くらいで軽くむせた。やっぱ苦い。
「あっ、こらっ! ちょっと!」
ヤバい、見つかっちゃった。
「未成年! 一気飲み禁止!」
慌てて残りをごくごくやったけど、飲みきらないうちに取り上げられた。
「漁ってとは言ったけど、なんでビール? ジュースあったでしょ?」
「『ビール嫌い?』って前に訊かれたから、好きになろうと思って。だって先生、ビール好きなんでしょ?」
なんか急激に体がふわふわしてきた。
「俺が悪かったよ。まだ好きにならなくていいの。大人になってからね」
「でもせんせーのことは好きいぃぃ」
どさくさ紛れで抱きついておく。
「俺はビールと同レベルかよ。てか、もう酔った?」
「酔ってないです」
「嘘つけ」
「体がふわふわしゅるだけ」
「それ酔ってますから。危ないからもう寝た方がいいよ」
強制的に隣の部屋に連行されて、ベッドに座らされた。
「いい? パソコンは立ち上げないこと」
「エロ動画入ってる?」
「入ってない」
「引出しその他、勝手に開けないこと」
「コンドーム入ってる?」
「入ってない」
「入ってないの?」
「入ってないよ」
「ダメじゃん」
「何がだよ」
「ちゃんと避妊しないと。保体で習ったよ」
「やらないから!」
「えー」
「えーじゃないでしょ。そういうことは、大人になってからにしなさい」
「じゃあ、わたしが大人になったら話し合いましょう」
「はいはい、了解」
「約束ね!」
「はいはい」
「わ! 約束しちゃった♪」
「はい、もう寝なさい」
さっさと出ていこうとする。
「せんせー」
「何」
「淋しいから一緒に寝て」
「念のため聞くけど、普段は誰と寝てるの?」
「くまちゃん」
はーっと大げさなため息をついた。
「あー、そうですか。お願いですからおとなしく寝てください。土下座でもなんでもしますから」
ちぇっ。先生の土下座も見てみたかったけど、イイ男が台無しだから、ひとりで寝てあげることにした。
目が覚めると、そこは知らない部屋だった。ここはどこ? わたしは誰? 状態になりそうになって、デスクの上のパソコンを見て思い出した。エロ動画が入ってないパソコンだ。
左手にしたままのベビーGを見ると、9時半だった。
そっとドアを開けてリビングを覗くと、部屋の主はソファの上でタオルケットにくるまって眠っていた。かわいー♪
いいこと思い付いた。寝室に戻ってポーチから口紅を出す。
鏡に向かって唇に近付けた時、もっといいことがひらめいてしまった。わたしって天才。
音を立てないようにソファに近付いて、無防備な寝顔をしばらく観察。
寝息が規則正しいのを確認して、ゆっくりと顔を近付けた。
息を殺してそーっと唇を重ねる。
上書き完了。
残りのミッション遂行のため、わたしはまた静かに体を離した。

この後わたしは口紅をまんべんなくぬりぬりして、眠る王子様のほっぺに派手なキスマークを付けた。
もし、夢うつつにキスされた感覚を覚えていたとしても、頰のキスマークでカモフラージュされて、そっちだと思い込むだろう。
I WIN!
わたしは小さくガッツポーズして、玄関のドアをそっと閉めた。
エントランスの重いガラスのドアを開けると、さあっと風が吹き込んできて、わたしの髪をかきあげた。さっき付けてきたコロンが、ふわっと匂い立つ。
その青く切ない香りに、一瞬抱きしめられたような気がして、喉の奥が熱くなった。
地下鉄の駅に続く乾いた道を、わたしはひとりで歩いてゆく。
シトラスの香りが耳許で揺れていた。
試験休みが終わって、職員室前にはいつものように、成績ランキング表が貼り出された。
2限の後の休み時間。中央館への通路を歩いていると、
「あ〜〜、水木さーん!」
けーこたんが手をぶんぶん振りながら駆け寄ってきた。
「トップ10復活おめでとぉー!!」
大げさにハグしてくる。
「あ、ありがとうございます」
「ね、ね、こっそり教えて。織田先生とデートした?」
「えっ? えっ! ちょっ、ええっ!?」
何? なんで!? 思わず身じろぐ。
「応援してるからね♪」
「おうえ、ちょ、何、何を!」
「成績と、その他もろもろー!」
両手でチョキをして、るんるんしながら去っていった。相変わらず謎のテンション。
気を取り直して、ランキング表の前に立つ。
わたしの名前は5番目にあった。
物理と数学が100点。それでも5位か。まだまだ修行が足りんかな。
腕組みをして考えていたら、足音が近付いてきて、背後で止まった。わたしがゴルゴ13だったら殺されてるところよ。
「5位か。まずまずってとこかな」
頭の上から声が降ってきた。振り向くと、この暑いのにネクタイを締めて、白衣と教科書、出席簿で完全武装した織田先生が立っていた。
「遠山先生がね」
「ん?」
「織田先生とデートしたかって」
「あー」
先生は額に手をやって、
「あの人、絶対どっかの組織の情報部員だぜ」
不穏な発言をする。
「もろもろ応援してるって言われた」
「それは俺も同じだよ。応援してる」
「何を?」
「君が本当に望む人生を送れるように」
「ふーん」
「でもその前に」
少し声を落とすと、
「お願い3つ聞いてあげた代償をいただかないと」
悪魔みたいなことを言って、わたしの頭をポンと叩いた。
「次だけじゃなくて、卒業するまでずっと100点。これは命令」
「ドS?」
「こんなの優しい方だろ?」
行ってしまおうとして背を向けた後で、
「あ、それから」
思い出したように振り向いた。
「君、飲み会にはなるべく参加しない方がいい。あれじゃ100パーセント持ち帰りされるパターンだ」
「何が? 飲み会?」
「覚えてないの?」
「だからなんの話?」
「覚えてないならいいよ。でも、アルコールは飲まない方がいい。ソフトドリンク推奨」
そう言って、3階への階段を上っていった。
全部覚えてるなんて、誰が教えてやるもんですか。
わたしだって、たまには本能に忠実になりたいのよ。
お酒って便利よね。「酔ってたから覚えてない」で、大抵のことはすまされちゃうんだもん。うまく使うに限るわ。


