”サスティナブル”を言い出せば潰れてしまう
ここのところ、町を歩くとSDG'sのバッジを付けている人をよく見る。下手するとスーツを着ている人の2~3割はバッジを付けているんじゃないかと思うくらいである。
そんな中で「SDG'sの本当の意味を理解していない会社や人が多い」という話を良く耳にする。
SDGs:Sustainable Development Goalsは「持続可能な開発目標」である。持続可能な開発目標は、「すべての人にとってより良い、より持続可能な未来を達成するための青写真」となるように設計された、相互に関連する17の項目からなるものである。
何が「持続可能」なのか
一体何が「持続可能」なのか。結論から言えば地球環境、人間の営みであり、民主的なガバナンスと平和構築、気候変動や災害に対して強靱であることを「持続可能」としていると解していいだろう。
貧困、飢饉といった社会的、経済的な不平等をなくし、先進国と新興国の格差がない、誰も取り残されることのない開発を目指すのがSDG'sである。
間違っても、自分の会社が「持続可能」であるということではない。企業が生き残って自然環境が破壊され、低賃金で劣悪な労働環境で働く人が増えるのならばそれは決して「持続可能な開発」とは相容れない。
知識があると物は売れない
チラホラ聞く話であるが、営業マンは余計な知識がない方がいいという。
物というのは使うメリット、デメリットを必ず持ち合わせている。しかし、物を買う時に人は高揚感の中で決断するから、夢のあることだけを聞きたい。デメリットを話すことは顧客にディスカウントの口実を与え、決断を鈍らせるだけだから営業マンが言うのは御法度である。仮に顧客がデメリットを持ち出してきたら言葉巧みにうまく振り払うのが優秀な営業マンである。
「営業マンは物を売るのではない、人柄で売るのだ」などといった"心得"もよく聞く。が、人柄を信じて買っても物が悪くてはいいのかと思う。
買ってすぐはいいけど、数年経つとゴミになって処分に困る物だったら、営業マンの人柄で買うことが本当に正しい選択なのだろうか。
現実は、その辺をよく考えずに売る人と買う人がいるから経済が成り立っている。物が売れなければ経済は回らないのである。
”サスティナブル”を言い出せば潰れてしまう
不動産関係の方と意見交換をするとき、最近は空き家や廃墟マンションの話題になることが多い。例えば経済的に利用価値に乏しい建物がある場合、建物を修繕するか、建物を取り壊して更地にするか、いずれかの選択になる。
ところが、改修をしても改修費用を回収することができなかったり、建物の取壊し費用が更地の価値を上回ってしまう場合、手を付ければ損になってしまうから、誰も手を出せなくなってしまう。しかも、こうした建物はこれからどんどん増えていく。今は最先端・最新鋭の高層建築物でも、時代が変われば輝きを失い、陳腐化してしまう。古い建物を壊してまで使う価値のある土地であればいいのだが、そうでない場合は廃墟になる。
誰も手を付けられないような物は、もはや経済サイクルの中にはない。
建物の寿命は木造で25年、鉄骨造で40年、鉄筋コンクリート造で50年と言われる。建物を建てた時は有用であっても、それが25年、あるいは50年後有用であるかは分からないし、予測は難しい。それどころか、投資用と銘打って実は誰も住んでいない新築マンションを見かける。新築で廃墟のようになっている建物が数十年後に果たして使われるのだろうか。
建築関係はとにかく建物を建てないと儲からない。だから、後先は考えずどんどん建てる。それが彼等の"サスティナブル"である。だから、地球環境の”サスティナブル”を言い出して建てなければ潰れてしまうのである。
環境性能がポイント?
建築や不動産の世界でSDG'sが語られるとき、テーマになるのが"環境性能”である。CO2をいかに出さないかがポイントで、太陽光発電を付け機密性を高めて冷暖房の効率を高めたり、外光を採り入れて照明の利用を少なくしたりといったことに重点が置かれる。
そこでは、「使いもしない建物を建てない」だとか、「空き家がこれだけあるのだから新築よりも再利用」なんて議論は起こらない。むしろ古い建物は環境性能に劣るものとして駆逐の対象になる。
果たして、古い建物をつかうこととそれを壊して新しいものに建て替えるのではどちらが持続可能性に貢献できるだろうか。
建てるときはみんなで夢をみるけど、使えなくなったら誰も知らん顔で持続可能と言えるか。マクロな視点で考えた方がいいと思うのだが、なかなかそちらの方向に行かないのが歯がゆいところである。