大統領候補の演説 (02)
ドラマ『秘密の森』+エラリー=クイーン著『十日間の不思議(Ten Days' Wonder)』の二次創作です。
(4)
ハンヨジン警部がソウル特別市警察庁に戻ると、監視カメラの捜査報告が届いていた。パクテウォンが言った通りの、鍔の広い紺色の帽子を被り、黒いサングラスをかけ、マスクをして、藍色のワンピースと濃紺色のジーンズを着て、茶色のシューズを履き、茶色のバッグを持った女性が、バスターミナルで、鉄色のステーションワゴンから降り、午前9時45分発、アンソン市行きのバスに乗っていた。
アンソン市の警察からも、キムサランの捜索報告が届いていた。
鍔の広い紺色の帽子、サングラス、マスク、藍色のワンピース、濃紺色のジーンズ、茶色のシューズ、茶色のバッグを持った女性が、昨日の午前10時45分、アンソン市のバスターミナルで、ソウルから到着した高速バスから降りた。彼女は、市内バスに乗り換えた。彼女が降りたのは、完成間近の美術館の近くの停留所だった。
美術館から一番近いバスの停留所まで、500mある。更に、一番近い監視カメラは、停留所から500m離れた交差点にある。
パクヨンギの家は、その交差点に近いが、市街地からは、はずれている。
交差点の監視カメラに、キムサランらしき女性の姿は残っていなかった。
アンソン市警察のマ刑事とチョ刑事とが、バスの運転手たちに聞き込みをしたが、そういう服装の女性を美術館の近くの停留所からターミナルに戻るバスに載せた、という証言はなかった。
マ刑事とチョ刑事とは、美術館に行った。美術館では、設備の点検をしているところだった。
敷地の出入り口と建物の玄関に監視カメラがあるが、昨日まで作動していなかった。今日の総点検で美術館全体に通電して初めて作動したのである。
それらとは別に、建築中、敷地の出入り口と建物との間に設置していた監視カメラがあった。建物全体を見ることができるように設置されてあり、建物から離れたところは見えない。そのカメラのモニターは建築会社にある。マ刑事とチョ刑事とは、後で、その建築会社のモニターを見ることにした。
正面玄関から、向かって右斜め手前に少し離れた所に、大きな彫刻がある。今は、シートをかけてあるが、明日の落成式の前に、白い布に換える、とのことである。
美術館の建物は大きくなく、庭園を広くとってある。というのも、屋外彫刻の展示に使うからであった。庭園は、建物の周囲は整備できているが、建物から離れるほど、まだできあがっておらず、全体として、敷地の半分は、まだ、造園できていない。庭園から山に続く小道がある。ハイキング帰りの人が美術館に寄っていけるように考えてある。美術館に入らなくても、庭園を散歩して、屋外彫刻を見たり、お茶を飲んでいったりできるようにする予定である。そのための四阿がある。ちょうど、既に造成できている所とできていない所との境界あたりに、四阿があった。
美術館の館長、といっても、美術館そのものはまだ開館していないから、そういう意味では、これから館長になる予定の人が、総点検の立ち会いに来ていた。刑事たちの質問に対して、昨日は休日で誰も美術館に仕事をしに来なかったはずだと答えた。しかし、誰かが来ていたらしく、その証拠に、一昨日にはなかった物を玄関で見つけた、という。
キーホルダーだった。小さな黒い猫が付いている。片方の前足を掲げて、ドアをノックするような格好の。
マ刑事は、白い手袋をはめて、そのキーホルダーを受け取り、透明なビニールの証拠品保全袋に入れて、チョ刑事と、パクヨンギの家を訪ねた。
敷地は広く、まわりに木が植えられているが、門も塀もない。門のかわりに、木と木の間が広くあいているところがあり、間を通して、二階建ての六角形の家が見えている。二階はガラス張りのアトリエであった。
マ刑事とチョ刑事とは、木と木の間が広くあいているところから、入って行った。
敷地の左端に、車庫があり、シャッターが開いていて、車が入っているのが見えた。普通型の自動車である。
六角形の母屋の一階の正面の壁には、窓も扉もない。向かって右隣りの壁から、庇が出ており、そこが玄関だとわかった。玄関のインターホンを押した。返事がないので、二手に分かれて、両側から、ぐるっと、まわっていった。玄関の右隣りの右隣り、すなわち、正面からは左隣りの左隣りの左隣り、真裏側に、裏口があった。玄関と裏口と正面の壁以外は、窓があった。
表側からは二階建てに見えたのに、裏側にまわると三階建てだった。土地の高低差を利用しているのだった。
裏口にもインターホンがあった。それを押したが、やはり、返事がなかった。
裏口は、納屋と相対していた。納屋の裏側は、交差点に続く道路に面している。敷地の植木は、納屋のそばまで続いているが、そこで曲がって、納屋の裏側の前に空間をあけて、その両側に垣根を築いていた。
納屋は四角形で二階建の高さがある。中は吹き抜けで、二階部分の壁が窓になっている。
マ刑事は、納屋に近づいた。両開きの戸が付いている。マ刑事は、片方の戸を手前に引いて開けた。チョ刑事も、そばに来て、もう片方の戸を引き開けた。
中は、がらんとしていた。
突き当りの道路側の壁には窓がなく、電動のシャッターが上に開いて、コンテナトラックに彫刻が乗せられて美術館に運ばれていったのだった。シャッターは、今も、半分、開いている。つまり、向こうの道路が見えていた。
マ刑事に近い側の手前の隅に棚があり、道具が置いてあった。反対側の、チョ刑事に近い方の隅に、シートを被せた山が二つあった。一つは、石のかけらであることが、裾から食み出した部分でわかり、もう一つは、四角い大きな箱らしきものが、すっかり、シートで覆われていた。
戸が開く音が聞こえて、マ刑事とチョ刑事とが、振り返った。六角形の家の裏口の戸を、パクヨンギが開けたのだった。
刑事たちは、納屋の戸を閉めて、身分と用件を話した。
パクヨンギは、二階のアトリエに籠っていてインターホンの音に気がつかなかった、納屋の前に人がいるのが見えたので降りてきた、と言った。
二階のアトリエは、道路から見れば三階で、一帯で一番高い所になる。美術館は、更に土地が高くなっていて、二階のアトリエから、ちょうど同じ高さで見通せるのだった。
マ刑事が黒猫のキーホルダーを見せると、パクヨンギは、義母の持ち物だと認めた。何の鍵かは知らないが、家の鍵でも車の鍵でもないことは知っている、こういう黒猫が好きで、いろいろな大きさのものを身の回りに揃えています。
チョ刑事が、美術館の玄関の鍵穴に差し込まれていた、と告げると、パクヨンギは、それは義母のいたずらにちがいない、と言った。
マ刑事が納屋の扉を見たので、パクヨンギが、「納屋を御覧になりたいのですか」と、きいた。
マ刑事「いや、さっき、美術館で見た彫刻は、あそこで造られたんだなと思って」
パクヨンギが、肯いた。「今は、何もないので、納屋に鍵はかけていません。道路側のシャッターも開けっぱなしです。きのうは、父が車を停めていましたよ」
マ刑事「納屋で彫刻を造っているときは、鍵をかけるんですか」
パクヨンギは、にっと笑って、答えた。「いや、鍵をかけたことがありません。シャッターも、冬や、雨風が強いとき以外は、開けてあります。夏は暑く、冬は寒い」
チョ刑事「こっちの母屋のアトリエでは、何を造るんですか」
パクヨンギは、「スケッチをしたり、粘土で塑像を造ったりします」
マ刑事が、手元にスマホがあるかときくと、パクヨンギが、取って来るというので、その間に、刑事たちは玄関にまわることにした。
玄関で、マ刑事は、キムサランとスマホが通じるかどうか、試してほしい、と頼んだ。パクヨンギは、試してみた。つながらなかった。
刑事たちは、パクヨンギの家を辞去した。
マ刑事とチョ刑事とは、美術館を建築した会社、すなわち、パクテウォンと弟が経営する会社の、アンソン市出張所に行った。そこで、建築中の監視カメラの、昨日の記録を見た。午前11時に、鍔の広い紺色の帽子、サングラス、マスク、藍色のワンピース、濃紺色のジーンズ、茶色のシューズ、茶色のバッグを持った女性が、美術館の建物の近くに来たのが映っていた。彼女は、建物のまわりで、スマホで自撮りを繰り返していた。玄関の扉に近づいて、スマホを仕舞ってハンカチを出して、更に何かを取り出してハンカチで包んで、扉に、何かをした。そして、ハンカチを仕舞うと、スマホを出して、玄関の扉を撮影した。撮影が終わると、また、スマホを仕舞ってハンカチを出して、扉のそばで何かした。たぶん、黒猫のキーホルダーを、汗がつかないようにハンカチに包んで持って鍵穴に差し込んで、撮影したのだろう。彼女は何もかもバッグに仕舞って、意気揚々と、建物から離れて行ったが、その後は、どこへ行ったか、彼女の姿はカメラから消えてしまった。彼女が建物から離れてから2時間ぐらいたって、パクテウォンが現れた。彼は、建物のまわりをまわったり、庭園の方へ歩いて行ったりしたが、玄関のそばまで近づくことはなく、また、いなくなってしまった。
マ刑事が、キムサラン捜索報告書をまとめて、建築会社の監視カメラの録画のコピーと黒猫のキーホルダーの写真も添付して、ソウル特別市警察に送信した。
ハンヨジン警部は、アンソン市の警察署に電話をかけた。キムサラン捜索報告書の責任者のマ刑事に、キーホルダーが見つかったときの状況について尋ねた。
マ刑事「美術館の館長、にまだなっていないが、なる予定のイさんが、猫のキーホルダーを見つけたとき、スマホで写真を撮っておいたんです。その写真をコピーしました。玄関はカードで開くようになっていますが、鍵穴もあります。停電したとき、美術館に入れなくなっても別に構わないが、出ることができなくなったら、そりゃ困りますからね。その鍵穴に挿し込んでありました。そうすると、黒猫がドアをノックするような格好になるんです」
ハンヨジン「キムサランさんの政党の事務所の入り口のカウンターに置いてあった、黒猫の置物も、仕切りの方を向いて、ドアをノックするような格好をしていました。NPOの事務所の壁に描いてあった、大きな黒猫の絵も、道の方に背を向けて、入口の戸を叩くような格好をしていました」
マ刑事「猫の人形やキーホルダーはいくらでもありますが、よく、そんな、ドアをノックする猫ばかり、見つけてきたもんですね」
ハンヨジン「NPO事務所の壁の絵は、パクヨンギさんが描いたものだそうです」
マ刑事「ほう、そうですか。しかし、キーホルダーの猫は、パキヨンギさんが自分で作ったとは、言いませんでしたよ」
ハンヨジン「パクヨンギさんは、どんなようすでしたか」
マ刑事「気にはしているけれど、心配しているというほどでもなさそうでした。きのうの夜から、父親が騒ぐもんだから、自分も何度か、スマホをかけたが、つながらない、と言っていました。わたしの目の前でも、つながりませんでした」
ハンヨジン「パクテウォンさんも、わたしの目の前でスマホをかけてみたけど、つながりませんでした。キムサランさんは、美術館から、どこへ行ったのか。もう少し、詳しい、美術館周辺の地図を見たいんですが」
ハンヨジン警部の求めに応じて、キム刑事は、美術館の敷地全体の地図と、美術館の建物の設計図を、送信してきた。
ハンヨジン警部は、パソコンにアンソン市の地図を出して、美術館の地図と見比べながら、キム刑事に言った。「美術館の庭園から山に続く小道がありますが、その小道と反対側に、国道に降りる道がありますね」
キム刑事「ああ、そうです。国道に登山口があるんです。登山口といっても、200mほどの低い山で、気軽にハイキングや散歩に、よく行きます。登山口から近いところに、高速道路のサービスエリアもあります。サービスエリアのレストランは国道からも入って利用できるようになっています」
ハンヨジン「きのうの日曜日も、ハイキングや散歩の人たちが、いたでしょうか」
キム刑事「いたでしょうね。その人たちが、キムサランさんを見ているかもしれないと思うんですか」
ハンヨジン「そうですね。キムサランさんが、美術館から、そっちの山の方に行ったんじゃないかとも、思うんですけど」
キム刑事「そして、国道の方に降りたか。しかし、車がないと、ソウルに戻るのはもちろん、アンソン市の隣の市に出るのも無理です。バスターミナルのある市街地になら、ちょっと遠いが、歩いて戻ることができます」
ハンヨジン「美術館の庭園から続く小道と、国道の登山口に降りる道と、そのほかに、その山の道はないんでしょうか」
キム刑事「いや、いくらでもありますよ。藪の中をくぐっていくようなものまで含めれば。地元の人は、よく、知っています」
ハンヨジン「たとえば、パクヨンギさんの家の近くに降りる道もありますか」
キム刑事「あります。パクヨンギさんの家からは、大きな彫刻を大型コンテナトラックで美術館に運ぶ道は、監視カメラのある交差点を通るしか、ありませんが、納屋からでも表からでも、徒歩か自転車で山に登る道も、普通型の自動車やワゴン車で、美術館まで行ける道も、町に出る道も、あります。そっちの道には、監視カメラがありません」
ハンヨジン「パクテウォンさんには、キムサランさんを見つけた場合、無事であることは知らせますが、御本人の許可なく、居場所を知らせることはできないと伝えて、了承を得てあります。どうですか、キムサランさんの無事な姿を見ることは、できなさそうですか」
キム刑事「パクヨンギさんは、あくまで、キムサランさんの居場所はわからない、連絡が取れないと言ってるし、家探しするわけにもいきません。まあ、明日、登山口のある国道の監視カメラで探してみましょう。パクヨンギさんにも、キムサランさん本人の許可なく、パクテウォンさんに居場所を知らせることはないと話してみますよ」
ハンヨジン「そうですか。わかりました。とりあえず、キムサランさんが美術館に行ったことはわかったと、パクテウォンさんに伝えます。こちらは、今日は、ここまでとします」
キム刑事「はい。それじゃ、ごくろうさまでした」
ハンヨジン「そちらこそ。ありがとうございました」
アンソン市警察のマ刑事との通話を終えると、ハンヨジン警部は、美術館の監視カメラの録画と黒猫のキーホルダーの写真を添付したメールを、パクテウォンに送った。
数分後、パクテウォンから返信が来た。黒猫のキーホルダーの鍵は宝石箱のものだと書いていた。中が空っぽの箱に鍵は要らないとばかりに、持っていったのであろう。自分が美術館に行ってサランを探したときには、黒猫のキーホルダーに気がつかなかった、録画も見て、彼女が美術館に行ったことは確かだとわかった。しかし、彼女が自分の意思で立ち去ったとはまだ認められない。あるいは、美術館からは本人の意思で離れたとしても、その後で不測の事態が起こって、ヨンギの家に行くこともできず、連絡が取れなくなっているのではないか、との懸念を示していた。
ハンヨジンも、キムサランが美術館を離れた後で奇禍に遭ったということは、絶対にないとは言えないと認め、引き続き、明日も、アンソン市警察と協力して捜索をすると、返信した。
パクテウォンから、折り返し、返信が来た。明日は、本来なら、キムサランとヨーロッパに旅立つ予定だったが、キャンセルした、代わりに、美術館の落成式に出席する。
ハンヨジン警部は、パクテウォンの返信を読み終えた後、考え込んだ。
建築会社が美術館の建築現場に設置した監視カメラは、その会社の社長であるパクテウォンが見ようと思えば見ることができたはずである。昨日の夜から、キムサランの行方が知れないと心配し始めて、今朝になって、キムサランの実家や、探偵や、ソウルの警察に行った。
妻が姿を消したら、結婚生活への不満ではないかと考えて実家に行ってみるのは順当だし、侵入者がないのに紛失した宝石の探索を探偵に依頼するのも順当である。
だが、ソウルの警察にキムサランの捜索を依頼する必要はなかった。アンソン市の出張所から監視カメラの録画を取り寄せて、それを見てから、アンソン市の警察に捜索を頼めば済んだのだ。ソウルの警察がしたことといえば、キムサランがバスターミナルでパクテウォンの車から降り、アンソン市行きのバスに乗ったことの、確認だけである。
パクテウォンは、ソウルの警部がキムサランの事務所に聞き込みに行くことを望んだ。そこでは、キムサランの秘書のカンセジョンが、キムサランはアンソン市に行っていると言った。キムサランは昨日の日曜日にアンソン市に行ったのだが、カンセジョンは、今日、月曜日に、キムサランがアンソン市に行っていると答えた。ハンヨジン警部は、カンセジョンはキムサランの頼みで口裏を合わせているのだと思った。だが、それも、パクテウォンの期待通りではなかっただろうか。
同じように、アンソン市の警察がパクヨンギの家に聞き込みに行くことも、パクテウォンは期待していたのだろう。
ハンヨジン警部は、マ刑事の報告書を読み返した。パクヨンギの家について、二度、三度、読み返した。そして、もう一度、アンソン市の警察に電話をかけた。電話に出た夜勤の巡査に、マ刑事から折り返し電話をくれるように伝えてほしい、至急、と言った。
日付が変わって、火曜日の午前3時半頃であった。パクヨンギの家の敷地に、懐中電灯を持った人が入ってきた。その人は、六角形の母屋を通り過ぎて、納屋まで行き、戸を開けて、中に入った。隅の、シートをかぶせた山に近寄っていった。石のかけらの山ではなく、四角い箱のシートを取りのけた。箱は、折り畳みのできる、ワゴン車用の保冷庫だった。懐中電灯で照らしながら、保冷庫のカバーを開けた。その途端、納屋の天井の照明が点き、保冷庫の前で愕然としているパクテウォンの姿がさらされた。
パクテウォンは、ゆっくりと、振り返った。納屋の照明は、リモコンで点くようになっている。リモコンを持って、パクヨンギが、納屋の反対側の隅に立っていた。
パクヨンギの隣に、マ刑事とチョ刑事とがいた。
道路側の、開けっぱなしのシャッターから、ハンヨジン警部が、入ってきた。
ハンヨジン警部は、納屋のまんなかで立ち止まり、マ刑事とチョ刑事との方を見た。マ刑事が、肯いて、パクテウォンに近づいていった。
マ刑事「パクテウォンさん。キムサランさんは、6時間前、病院に搬送されました。その保冷庫の中に、石油缶と一緒に入れられていました。どうするつもりだったんですか。あとで供述してください。息子さんの前では、手錠をかけません。我々と、署に同行してください」
パクテウォンは、ハンヨジン警部の方を見た。
ハンヨジン警部は、一歩、二歩、三歩、パクテウォンに近づいて、再び、立ち止まった。そして、話した。
「昨日の月曜日に、ポヌンパダ党の事務所で、カンセジョンさんに、キムサランさんはどちらにいますか、と尋ねたら、アンソン市に行っていると教えてくれました。わたしは、その時は、カンセジョンさんは、キムサランさんと口裏を合わせていると思いました。ほんとうは日曜日に行くけど、ひとには、月曜日に行くと言ってと頼まれたんだろうと。けれども、そうじゃなかったんですね。ほんとうに、キムサランさんは、月曜日に、アンソン市の美術館に行く予定だったんですね。あなたと一緒に。日曜日には、あなたと一緒に教会に行く予定だったんですね。だから、あなたは、月曜日に、キムサランさんの実家には行ったのに、その隣のポヌンパダ党事務所には行かなかったんですね。キムサランさんの秘書のカンセジョンさんは、キムサランさんのスケジュールを管理しているから。あなたが、キムサランさんが行方不明になったと騒いでも、警察は家出とみなすことも、見越していましたね。宝石を全部持って行ったという話も、家出との見方を強めました。昨夜、9時半に、キムサランさんは、強い睡眠薬の作用で36時間以上眠り続けていたと診断されました。昨日の月曜日も一昨日の日曜日も、自分の足で歩いてどこかに行ける状態ではなかった。一昨日、ソウルのバスターミナルであなたのワゴンから降りて、アンソン市まで行き、美術館で自撮りをしていた人は、キムサランさんと同じ服を着た、別の人ですね。その人は誰か、あとで供述してください」
マ刑事が、ハンヨジン警部の顔を見た。チョ刑事が、マ刑事の顔を見たり、ハンヨジン警部の顔を見たりして、つぶやいた。「口癖がうつったのかな」
(5)
火曜日の早朝、パクテウォンは、アンソン市警察署に連行された。それから、24時間、マ刑事とチョ刑事と、ハンヨジン警部は、休みを取った。前夜は徹夜だったのである。
そして、水曜日の朝、マ刑事とチョ刑事が、病院のキムサランを訪ねた。キムサランは回復していた。そばにパクヨンギがいた。
キムサランは、日曜日の朝、パクテウォンが淹れてくれたコーヒーを飲んだ後、強い眠気に襲われた。気がつくと、ベッドに寝ていて、パクテウォンに起こされたのだった。何が何だかよくわからないうちに、お手洗いに行って、戻って、パクテウォンに手伝って貰って着替えて、また、パクテウォンが淹れてくれたコーヒーを飲んだ。そして、また眠ってしまった。次に目が覚めたのは、病院のベッドだった。パクテウォンから贈られた宝石は銀行の金庫に預けてある。家にあるのは模造品である。ただ、母の形見の真珠の首飾りは化粧台に仕舞ってある。
パクヨンギは、キムサランが月曜日にパクテウォンと一緒に来る予定だったので、日曜日の午後にパクテウォンが来て、サランはいないのか、と言った時、意外に思った。パクテウォンが美術館まで彼女を捜しに行って、戻ってきて、いない、と言ったときも、変だなとは思ったが、心配はしなかった。パクテウォンが、ソウルの家から、サランが帰ってこない、と連絡してきた時、初めて、気になった。何度も、スマホをかけてみたが、彼女の方の電源が切れたままだった。それでも、パクテウォンに言えないことでも、というよりも、それならば、なおさら、彼女の方から自分に連絡してくるはずだと思っていた。
パクヨンギは、刑事たちに、自分は、パクテウォンの養子だと打ち明けた。親が誰なのか、わからない。まだ小さいときに、叔父から、おまえは捨て子だったと聞かされた。パクテウォンに尋ねると、ほんとうに捨て子だったのだと教えられた。なまえもパクテウォンが付けてくれたのであった。パクテウォンは愛情深い父親だった。キムサランと立場が同じだから、お互いのことが、誰よりもよくわかるのである。
パクテウォンが、キムサランの命を奪おうとしたとは、信じられない。この目で見ても、まだ、信じられない。何かの間違いだとしか、思えない。パクテウォンが、ヨンギに罪を着せるつもりだった疑いがあると言われても、ますます、信じられない。
マ刑事とチョ刑事とは、キムサランとパクヨンギの聴取を終えて、警察署に行った。パクテウォンには、弟のチェウォンの手配で、弁護士が付いていた。弁護士同席のもとで刑事たちは聴取をおこなった。パクテウォンは黙秘した。
ソウルでは、ハンヨジン警部が、パクテウォンの家宅捜索をおこなった。「表」と「裏」に設置された監視カメラは、36時間で自動的に消去されるようになっていた。日曜日の記録を見ることはできなかった。パクテウォンの部屋で、睡眠薬を押収した。キムサランの部屋では、宝石箱の中の模造の宝石も、真珠の首飾りも、なくなっていた。
ハンヨジン警部は、パクテウォンの会社も捜索した。アンソン市の美術館の建築に関する書類を押収した。パクテウォンの秘書にも事情聴取をした。それで、この秘書が、キムサランの身代わりを務めたことが、わかったのである。
パクテウォンが、秘書のイソウォンに、キムサランの身代わりを依頼したのは、4月の初めだった。アンソン市の美術館の建築が完成したら、落成式の前に、キムサランが美術館の前で自撮りをしてブログに載せて宣伝に使うつもりだった。キムサランの顔は見せないようにして、会社の宣伝ではない、ただの観光のように見せる計画だった。ところが、スケジュールの管理に失敗して、他の予定とブッキングしてしまった。それで、キムサランの身代わりになって、美術館で自撮りをしてきてほしい。これも会社の仕事だから、特別手当を出すが、絶対、秘密にしてほしい。
イソウォンは仕事を引き受けた。4月17日の朝、ハイキングに行くような服装で、パクテウォンの家の裏門から入った。「表」の家に行き、キムサランの服に着替え、スマホを受け取った。パクテウォンのワゴン車でバスターミナルに行き、アンソン市行きのバスに乗った。美術館のまわりで自撮りをして、黒猫のキーホルダーの鍵を玄関の鍵穴に挿してスマホで撮った。それから、庭園の四阿に行き、自分の服に着替えた。庭園から続く小山に登り、国道の登山口に降りた。高速道路の休憩所に行き、パクテウォンのワゴンに乗り、キムサランの服とスマホを返し、アンソン市の西隣のピョンテク市のピョンテク駅まで送ってもらった。そして、急行に乗って、ソウルに帰った。宝石のことは何も知らない。
パクテウォンが、アンソン市の出張所から監視カメラの録画を取り寄せなかったのは、秘書に知られてはならないから、という理由もあったかと、ハンヨジン警部は思った。
ハンヨジン警部は、アンソン市警察のマ刑事に電話して、パクテウォンの秘書がキムサランの身代わりを務めたことがわかったが、キムサランの宝石が見つからないので、もう一度、パクヨンギの家を捜索してほしい、と伝えた。
マ刑事とチョ刑事とは、パクヨンギの家の納屋に行った。そこで、彼らは、石のかけらの山から、シートをはずして、石を、一つ、一つ、取りのけていった。その結果、10個の宝石の装身具の模造品と、真珠の首飾りが見つかった。刑事たちは、それを、パクヨンギの六角形の家に持って行った。キムサランが退院してきてそこにいた。彼女は、10個の宝石の装身具の模造品と真珠の首飾りを、自分のものだと認めた。
パクテウォンは、ソウルの検察庁に送致された。キムサランが睡眠薬を飲まされたのはソウルであり、この犯罪は、加害者と被害者とがソウルの同じ家に住んでいたから起こったと、アンソン市の刑事たちも、ソウルのハンヨジン警部も、認めたからであった。
パクテウォンは、弁護士同席で、ファンシモク検事の取調べを受けることになった。
ファンシモク検事は、パクテウォンに嫌疑を説明した。「キムサランさんに、無断で、過剰に、睡眠導入剤を2回連続して摂取させ、合計36時間、睡眠状態に置き、そのうち、24時間、石油缶と一緒に約1㎥の箱に閉じ込めて、パクヨンギさんの家の納屋に置き、殺害し、放火しようとした、傷害、殺人未遂、および、放火未遂の嫌疑があります」
パクテウォンは黙秘した。
ファンシモク検事は、証拠について説明した。「キムサランさんは、ソウルの家で、4月17日の午前7時と午後9時の2回、あなたが淹れたコーヒーを飲んだ後で睡眠状態に陥ったこと、2回とも、キムサランさんと、あなた以外の人は家の中にいなかったこと、あなたの部屋に、キムサランさんが摂取したのと同じ睡眠導入剤が残っていたこと、キムサランさんがワゴン車専用の保冷庫に、石油缶と一緒に閉じ込められていたこと、あなたがその保冷庫を注文した記録があること、あなたがワゴン車を所有すること、パクヨンギさんはワゴン車を所有しないこと、4月19日午前3時頃、あなたは、パクヨンギさんの家から少し離れたところに駐車し、懐中電灯を持って、パクヨンギさんの家の敷地に入って行き、パクヨンギさんに無断で納屋に入り、保冷庫を開けたこと、その直後、警察官があなたの身体検査をして、マッチを発見したこと、以上が証拠です」
パクテウォンは黙秘した。
ファンシモク「以上の証拠を残すに至った事実の、発端と経緯について、供述してください」
パクテウォンは黙秘を続けた。
ファンシモク「では、こちらで調査したことを述べます。
昨年4月、あなたは、自身が理事を務める保育院の院長との定例の懇談会で、キムサランさんが20年振りに保育院を訪問したことを知りました。その後、あなたが探偵を雇ってキムサランさんを尾行させたことが、銀行口座の記録と、探偵事務所から提出させた記録とから、明らかになっています。キムサランさんは、両親の墓地を訪れて、母親の墓碑を造り直しました。新しい墓碑を造ったのはパクヨンギさんでした。その後、あなたは、探偵事務所への支払いを2倍にし、パクヨンギさんも尾行させました。
キムサランさんは、ポヌンパダ党を結成し、実家の隣の不動産屋を立ち退かせて、事務所にしました。また、キムサランさんの両親は、店の経営を息子夫婦に譲りました。
実家の隣にあった不動産屋は、あなたの会社の支店で、入居していたビルは、以前は、あなたの会社の所有でしたが、キムサランさんと結婚したときに譲渡しています。
また、あなたは、キムサランさんと結婚したとき、宝石の装身具を10個、贈りましたが、それらは全部合わせると、アパートが一棟、買えるほどの金額でした。
キムサランさんは、ウィルス感染症対策の規制もあって、宝石を身に着けて人の集まりに出ることがなく、銀行の貸金庫に預けて、自宅に模造品を置いていました。唯一、母親の遺産の真珠の首飾りだけを、身に着けることがありました。
キムサランさんは、元の名をソヨンと言って、幼いときは、両親とスラムで暮らしていました。父親が酔っ払い運転の車に轢かれて亡くなり、その賠償金で、母親は、墓地と真珠の首飾りを購入しました。
キムサランさんの父親が亡くなった当時、あなたは、自分でワゴン車を運転するよりも、運転手付きの車で移動する方が多かった。重要な取引先を接待して、送迎もした。有力な政治家に便宜を図って貰うこともあった。
あなたが雇っていた運転手が、休憩中に、酒を飲んで運転し、キムサランさんの父親を轢き殺した、と、当時の裁判の記録にはあります。運転手は服役し、今は出所して、別の仕事に就いています。あなたの会社が建てた住宅に住んでいます。彼は、元々、酒飲みではありませんでした。
キムサランさんは、彼に会って、父親が、自分から車の前に飛び出していったことを知りました。パクテウォンさんの車と知って、飛び出していった。恨みを晴らすために。
事故が起こった日、あなたが、誰と商談をまとめたのか、どの議員に便宜を図って貰ったのか、わかっていません。当時の秘書は退職しているし、記録が見つかりません。
しかし、その頃、あなたは、ある大学の建設を請け負いました。その仕事は大きな利益を上げました。大学の周囲の土地も安く購入し、幾つもの低層集合住宅を建てて、更に利益を上げました。数年後、それらの低層集合住宅をリフォームしました。安全も衛生も無視して、狭い部屋に区切って、できるだけ多くの人を詰め込む、チョッパンに建て替えました。そして、更に大きな利益を上げました。学生たちがチョッパンに詰め込まれる現状を改善しようと、大学が学生寮の建設を決定しました。その建設もまた、あなたの会社が請け負いました。しかし、学生寮建設反対運動が起こり、立ち消えになりました。あなたの会社は、せっかくの利益をフイにした、と思われましたが、実は、その反対運動を裏で煽ったのは、あなたの会社に雇われた人でした。あなたの会社では、チョッパンの方が、大きな利益を維持できると、計算していました。
この学生寮建設反対運動のことは、キムサランさんと協力してポヌンパダ党を結成した人々の一人が調べたのです。
キムサランさんは、大統領に立候補し、首都の大学の半数を首都圏の他都市に移転することを公約に掲げました。そんなこと、実現できるわけがない。キムサランさんは、現実には、ただ、一校だけ、移転できればよいと考えていた。大統領に落選しても、市議会議員になって、また、移転を訴えればよいと考えていた。ただ一つの大学だけ。あなたの建築会社が建設を請け負い、その周囲にチョッパンを作って、莫大な利益を上げ、その一方、住民たちが劣悪な居住環境で健康を害している、その大学です。
あなたは、キムサランさんが、あなたに反旗を翻したと思った。父親が亡くなったときの事情を探り出したに違いない、と考えた。20年以上前です。犯罪がからんでいても、殺人罪は別として、時効が成立しているでしょう。だが、その当時の関係者は、今も、現役でいるし、あなたの会社も、彼らの御蔭で利益を得ている。万一、報道されれば、これまでに築きあげたものが、瓦解する恐れがある。
4月17日の日曜日、あなたは、キムサランさんを睡眠導入剤で眠らせました。秘書のイソウォンさんにキムサランさんの扮装をさせて、アンソン市の美術館に行ったように演出しました。その後、自ら、パクヨンギさんの家に行ったり、ソウルの家からスマホをかけたりして、キムサランさんの行方が知れなくなったという演技をしました。そして、日付が変わる頃、キムサランさんをワゴン車の保冷庫に石油缶と一緒に入れて、パクヨンギさんに無断で、納屋まで運びました。それから24時間後、再び、深夜、納屋を訪れました。保冷庫のカバーを開けたところを、マ刑事とチョ刑事とパクヨンギさんに目撃されました。キムサランさん殺害と放火は未遂に終わりました」
パクテウォンの弁護士が発言した。「殺人と放火未遂は立証できません」
ファンシモク「キムサランさんが死ななかったのは、パクヨンギさんが助け出したからです。4月18日、マ刑事とチョ刑事がパクヨンギさんの家に行った時、キムサランさんは母屋のベッドで寝ていました。パクヨンギさんは、そのことを隠したかったので、インターホンが鳴っても出ていきませんでした。二階から、刑事たちが納屋に行くのを見て、裏口に出ていきました。パクヨンギさんは、前の晩遅く、日付が変わってから、目を覚まして、六角形の母屋の二階の、道路側からは三階の、ガラス張りのアトリエに行き、灯りを消したまま、物思いにふけっていました。そこで、車のライトが納屋に近づいて、入っていき、また、出ていったのを見ました。その数時間前に、パクテウォンさんが、キムサランさんが帰ってこないと言っていたのを思い出して、もしや、と思って、納屋に行きました。そこで、シートをかけられた箱を見つけ、シートをはずして、ワゴン専用の保冷庫だと気づき、カバーを開けて、キムサランさんを発見しました。キムサランさんと一緒に石油缶も入っていました。わけがわからないので、とにかく、キムサランさんを病院には連れて行かずに、母屋に運びました。キムサランさんを部屋に寝かせておいて、納屋に戻り、さっきの車が、また、来るかもしれないと思って、石油缶を保冷庫に戻し、元通りにシートをかけておきました。
これだけのことがあっても、パクヨンギさんは、パクテウォンさんがキムサランさんを殺害し、放火し、自分に罪を着せるつもりだったなどとは信じられない、と言っています。なんとかして起訴は避けたい、パクテウォンさんは一時的に精神に異常をきたしたのかもしれない、老年性の痴呆症状かもしれない、と主張しいます。キムサランさんも、同じことを主張しています。
パクテウォンさんの弟のチェウォンさんも、同じことを主張していますね」
パクテウォンの弁護士が答えた。「テウォンさんが、会社の経営から、一切、手を引き、完全にチェウォンさんに任せること、キムサランさんと離婚し、キムサランさんには、慰謝料として財産の一部を渡して、現在の住居から出て行かせることを条件として、自分が後見人になると提案しています」
ファンシモク「キムサランさんに渡す財産には、21年前にパクテウォンさんの会社が建設した大学の周辺のチョッパンの所有権も含まれていますか」
再び、パクテウォンの弁護士が答えた。「含まれています。キムサランさんが、チョッパンを建て替えたり、新しいアパートを建てたりする時には、チェウォンさんが、良心的な価格で引き受けると言っています。大学の学生寮の建設も良心的な価格で引き受けると言っています」
*参照
https://honto.jp/netstore/pd-book_31469048.html
搾取都市、ソウル 韓国最底辺住宅街の人びと
著者 イ ヘミ (著),伊東 順子 (訳)
発売日:2022/03/02
出版社: 筑摩書房
サイズ:19cm/238p
ISBN:978-4-480-83721-9
https://news.yahoo.co.jp/articles/8d56b0433accc8a14c0ca9caae24d0e8d28e7e00
ソウルの「1坪部屋」に住む人たち…それぞれの事情 (上)
2/3(金) 18:03配信
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