
ひとやすみ
ライナーノーツ、と電子辞書に打ちこむ。
CDやレコードに付いた解説文、とある。
解説ってそんな、大層なこと、わたしには荷が重い。
途方に暮れて、日々に忙殺されて現在。締切まで残り2日を切っている。
しかしずっとその存在が視界の隅でちらついて、やっぱり書かないわけにはいかないわって風呂あがり、缶ビールを一本ひっかけてノートパソコンを開く。
私が唯一長いこと好きで聴き続けているバンドの新しいアルバムが発売されたのは師走も始まりのころ、長い夏の名残がしぶとく居座る晴天の日であった。職場最寄りのコンビニで店着日の朝に受け取れるよう前々から予約していたのだが、そんな日に限って午後出勤。だったらはじめから家の近くのコンビニにしときゃよかった・・・と落胆。もどかしく、時間をやり過ごすだけの午前を経て、働いて、一応やり残した仕事がないかを念入りに確認して退勤。確認したのに何かひとつ忘れるのがわたし。情けない。しかし一抹の不安も今日は早々に忘却の果て、そそくさとコンビニへ向かう。今回のCDジャケットのデザインがとっても格好良くてこれはぜひ壁に飾りたいなとポスターの特典付きのお店を選んだ。人気のない帰路で人と人と人とを歌いながらふわふわと歩く。誰かが通行したら歌うのをやめて、いなくなったらまた歌いながら家路に着く。帰宅後はお風呂もご飯も犬のご飯も歯磨きも皿洗いも通常の二倍速で済ませた。向かうべきはただ一つ。目の前で神々しい光を放つ一枚のCD。いつもCDを再生しているパソコンは修理中で使えないから、テレビに外付けしたレコーダーにCDを託してヘッドホンを繋ぎ、そっと耳に当てる。
汗ばんだ手でリモコンを握って押す再生ボタン。
ままごと
耳を刺すのは、はちきれんばかりのクリープハイプ。
ああ、クリープハイプの音だなって安心させる彼らの持つ魅力ってのは、もし本人がその、クリープハイプっぽさから抜け出したいと思ったとしても、抗えない力があってどうしたって溢れ出てしまうものなのではないか。この四人がそろえば、私たちが知っている、クリープハイプの音になる。
これから、今から、さよなら、からはじまる2014年リリース「一つになれないなら、せめて二つだけでいよう」の一曲目とは対照的に、このまま、そのまま、ふたりでいよう、と目を逸らしたいほど輝かしい二人の背中がみえる。小言を挟みながらも結局お互いをお互いに許容していて、うう、これが愛なのねって、直視できない。恋をしたり、人を愛したり愛されたり、そんなことからほど遠い暮らしのなかにいる私には、二人になる、という感覚がサッパリわからないのである。とほほ。焦燥感と劣等感に苛まれつつ、まんまとそのテンポとメロディーに乗せられて気付けばままごとの一味に仲間入り。
人と人と人と人
今年一番聴いた曲。
昨日のコピーアンドペーストみたいな今日を繰り返す生活にこの歌が彩りを与えてくれ、まるでこの歌のミュージックビデオに出演しているような錯覚に。「毎日何しててもなんか面白くない そんな不満の中の確かな幸せ そんなの知ってるけどやっぱり気に入らない」
痛たたた、核心をついてこないでー。
人間とはないものねだりの我儘な生き物であり、どんなに羨望していたものも手に入れてしまえばああこんなものか、と無いもののほうがより際立って見えてくる。このなんかわからんけど物足りない、という気持ちこそがきっと幸福であること、頭では理解しているのにやっぱりイライラしてしまう傲慢さを、この歌詞はずばり言い表しているのだ。日々感じてはいるけれど、わざわざ人に言うほどのことではない、言ってもスピードラーニングされてしまいそうなほど邪魔くさい感情をこんなにも丁寧に掬って、とくべつに難解な言葉を用いることなく表現するというのは、なんと繊細な道のりであろうか。
青梅
クリープハイプっぽい曲と聴いて咄嗟に浮かぶあの歌やあの歌があって、「青梅」はその真反対側にある曲。
爽やかでお洒落なアレンジ、歌詞も甘酸っぱくてなんともかわいらしい。
とここで、またも、ふたりになろうか。と来た。うぐぐ。
「ふたり」という言葉が現れると自身のコンプレックスを刺激されて私はいてもたってもいられず、思わず土に還りたくなる。わたしこのバンドの事がこんなに好きなのに、クリープハイプの曲を聴く上で避けては通れない三文字であるというのに、年々この言葉に対する自意識が研ぎ澄まされていくのを感じる。しかしそこで終わらせてくれないのがクリープハイプの恐るべきところで、何を言ってもやっぱり曲が良い。身体が反射的にゆらゆらと揺れてしまって不思議。音楽って解体したら一体どんな構造をしているのだろう。
生レバ
Kアリーナ横浜で初めて聴いた時の、動揺と困惑は今も鮮明に思い出せる。ステージから遠く離れた客席で観ていた私もじんわりと汗をかくほどに巨大な炎が立ち上る演出、それから迫力満点の格好いいサウンドの中で連呼されるのはまさかの、「生レバ食べたい」
音楽とは、言葉とはただの音の集まりに過ぎないのだと尾崎さんは度々仰っていたけれどこの曲はまさにその思考を形にしているようだ。
ただの音に対してこんなに忙しなく感情を動かしている私って一体。
仕事終わり、疲労困憊の帰り道によく口ずさみます。
「ダフ屋になって誰かの利益で楽して生きてたい」
I
恥を忍んで申し上げると、この曲はクリープハイプの一ファンに過ぎない私が、クリープハイプやボーカルの尾崎世界観さんに対して抱いている感情に限りなく近いものが歌われているのだが、しかしその気持ちはおそらく大変に馬鹿馬鹿しく、むなしく、恥ずかしく、下手をすれば人に石を投げつけられそうなものなので可能であれば誰の目にも触れる事のないまま蓋をしておきたい。今のは聞かなかったことにしてねって、笑って誤魔化して、靴の裏で踏みつぶしてなかったことにしたくなるような恥ずかしさを、笑わないで真剣に聞いてくれているような歌。勘違いで構いません。
インタビュー
野球の試合後に行われるヒーローインタビューで幾度となく目撃してきたあの光景。額に汗を輝かせ、選手がぎこちない笑顔で叫ぶ「最高でーす!」が脳裏をよぎる。一方でこれは、あらゆる媒体で数々のインタビューを受けてきた尾崎さんの心の中を映し出した歌なのかも、と想像する。私はただの受け手なので、想像をするしかないのだけれど、曲の後半で訥々と語るように繰り返される「喜びと悲しみと苦しみと痛みと憎しみと信頼と慰めと諦め」では未だこの世にないものを新しく生み出す表現者として、またクリープハイプというバンドの舵取りを続けてきたフロントマンとしての尾崎さんの姿を思い浮かべずにはいられない。ステージの上のヒーローは、ここに至るまでにどれだけのものを失って、傷ついて、這い上がってきたのだろう。その労苦と執念が滲み出る曲である。
べつに有名人でもないのに
インタビューに続きローテンポの楽曲。
跡形もなく消えるまで燃やされる、テレビの人とか、別に有名人でもないのにやたらとお気持ち表明したがるインターネットの人とか、正直絶望的に興味がない。見ず知らずのあなたに構っていられるほどこちらも暇ではないのだよ。尾崎さんは何を見て、何を感じてこの曲を作ることにしたのかがとても気になる。この曲のように、自分の想像の範疇を超えた作品に出会えることは幸せだ。それは小説にも、映画にも言える。すぐに理解できてしまったらそれ以上の楽しみがないし、つまらない。長く深く味わい続けたい一曲。
星にでも願ってろ
今作に限らず、クリープハイプのアルバムやEPを聴く上で長谷川カオナシさんの楽曲がもたらす影響は大きく、これは、只者じゃないぞ、と思わしめる奇妙な存在感は、火まつりをはじめて聞いたあの日から変わることがない。尾崎さんとはまたひと味違う種類の湿っぽさがあって、ちゃんと孤独を持て余している。長谷川さんの曲を聴くといつも、小学生の頃に3DSのうごくメモ帳や家庭用のパソコンを使ってYouTubeでこそこそと見聞きしていた音楽を懐かしく思い出す。
dmrks
Twitter(現 X)でたまに見かけた文字列。今初めて自らの指を使ってこの文字を入力してから案外手間のかかる羅列であることに気が付く。エゴサーチをして見つけた投稿に怒りを沸かし、さらにアプローチを変えて検索窓に打ち込む自分の名前、自分で自分の心の火に油を注いで、こんなことなら、と後悔する。この滑稽さが面白く、でも他人事に思えなくてなんだか切ない。エゴサーチに限らず、我々の日常の中でも絶対に良い未来がないことをわかっていながら、ついやってしまったこと、言ってしまった事、行ってしまった場所が確かにある。この曲はそんな救いようのない自分自身の弱さを自分自身でボコボコに打ちのめす、ある意味、救済の曲である。
喉仏
こいつは一体何を言っているんだ?といくつもの顔。私だってあなたを困らせたいわけじゃないんだけど自分でも自分が何を言いたいのか分からないんです。心にもないことは口にもしたくない。でも何か言わなきゃ。その結果、支離滅裂で行き場のない音がポロポロと零れて転がり落ちていく。きっと自分が思っているほど周りの人は人の話を深く聞いてないもので、だから自分ももっと肩の力を抜いて人と話をするべきなのだが、自意識が過剰に稼働しているせいで、人にどうみられるか、またこうみられたいという虚栄心が発生し、そのうえ言葉の使い方を誤って人を傷つけたり怒らせたりするのが怖くて、必要以上に慎重に言葉を選んでしまう。結局それは相手を思いやった言動ではなくて、あくまでも自分を守る為にやっていることなのだ。人との衝突や摩擦を恐れずにちゃんと人と向き合える人間になりたいと、この曲を聴きながら考える。
本屋の
神イントロ製造メーカー、クリープハイプ。湯船に浸かりながら音楽を聴いているとき、この曲のイントロが流れてくると意思とは別の身体の働きによって、勝手にこぶしが天井へ突き上がる。尾崎さんの幼少期のエピソードで、出掛けたときのおねだりは、本であれば許されていて、それ故に幼い頃から本をよく買ってもらっていたという話があるが、初めてそのエピソードをきいたときは、えっわたしと同じやん!と驚き、嬉しかったことを覚えている。児童書コーナーの狭い世界を飛び出して、広大な文庫本コーナーに降り立ったときの興奮たるや。何年経っても本屋は街のオアシス。くたくたに疲れているときほどあの匂いと光に惹かれ、吸い込まれる。本を買う、本の世界に没頭して現実から逃避する。その行為で自らの心を慰める。大好きな本屋をテーマに、大好きなバンドが作ってくれた歌。宝物の一曲。
センチメンタルママ
「電話してくれるママもいない 相変わらずまた震えてる ここには悪寒だけ」これぞ尾崎節。悪寒(おかん)のダブルミーニングに身震いする。
2021年、情熱大陸に尾崎さんが出演された回で、体調を崩し、とても辛そうに薬袋を握りしめていた尾崎さんの姿が脳内で自動再生される。
体調不良の時って、この世で一番かわいそうなのはわたし、あぁこんなにも孤独、って必要以上にセンチメンタルな感情になること、この曲を聴いて思い出してちょっとほほえましく思った。曲中に挿入されている尾崎さんのつぶやき「あーくそ・・・」は曲の為に録ったのだろうか。それとも発熱にあえぎ苦しみながら、これ何かに使えるかもしらんって、録音したのだろうか。
もうおしまいだよさようなら
歪むギターの音から始まり、不穏な曲の幕開けを感じさせる出だし。「サウジアラビア」を彷彿とさせる、激しくてアップテンポの曲なのかなと思わせて、突然の抱擁。あったか〜い。私がクリープハイプを聴くようになって重ねた年月は、小学校一年生だった子が気が付けば中学生になっていた、くらいの長さ。いろんな人に出会って、いろんな人と疎遠になった。中にはクリープハイプを通じて出会った人もいる。元気にしているのか、今もクリープハイプを聴いているのかさえわからないけど、もうきっと会う事のないひと達に、こんな新曲が出たんだよ、聴いた?って言いたくなるような、戻れない過去の断片を愛おしんで、大切にしたくなる曲。しかし、私たちは過去を振り返ってばかりでは生きてはいけない。今日を、明日を突き進んでいかなくてはならないから。懐かしい話はもうおしまいだよさようなら。
あと5秒
シングルとしてリリースされていた曲がアルバムの中で別の表情をみせる感動や驚きはそれなりに知っているつもりだったが、前曲での尾崎さんのアカペラ「ララ、ラララ」から静寂の5秒が明けて、じわっとカーテンから朝日が漏れ入るかのごとく、あと5秒のイントロが流れてきた時全身にぞわぞわと鳥肌が立って、胸がぎゅっと締め付けられてなんだか泣きたくなるような感覚に包まれた。こんなに愛おしく、すばらしい作品の誕生に立ち会えるなんて、なんと幸せなことだろう。あと何回、こんな気持ちになれるのだろう。
天の声
この曲との出会いはおよそ半年前。2024年5月に上野恩賜公園で開催された弾き語りライブ。その時から私にとって、またクリープハイプにとっても大切な曲になるだろうと確信していた。それから2024年11月16日、バンドで演奏してくれたあの日も、アルバムの最後の曲として流れるのを聴いた日も、わたしの涙腺を見事に突き刺す。最近は重い霧の中にいるような日々が続いていて、もちろん良いこともあったけど基本的に心は暗い。張り詰めた心にずんと重く響く天の声という名の歌の鍼。「どのみちダメなら寄り道しながら そのうち着くから寄り道しながら どのみち雨なら寄り道しながら そのうち止むからずっとずっと」この、ずっとずっと、に詰まった祈りと期待と諦念。Kアリーナ横浜でのワンマンライブを思い出す。約二万人の観客が収容された大空間に響き渡る静寂。その緊迫した空気は尾崎さんの言葉でより濃度を増す。「お前のためにやってんのにな。」進んでも進んでも辿り着かない道、止んだと思えばまたすぐに降る雨。心が折れそうになったとき、この歌は私の道しるべになるだろう。夜、部屋に籠ってひとり、一日のご褒美として聴く天の声がわたしの今を照らしている。
-おわりに-
世間の共感を呼ぶような表層の感動ではなくてもっと深層にある、人間の不器用さや醜い部分、人には言えない感情、はたまた自分でも気が付けずにいた気持ち。クリープハイプはその死角にこそ光を与えてくれる。ひとつの音楽にどれだけ感動して、気持ちが救われて、涙を流したとしても、抱えている現実は何ひとつ改善されないし、うまくいかない人との関係が突然良くなるわけでもないし、陰気な性格を明るく変えられるわけでもない。しかし、私はクリープハイプが差し伸べてくれた手の温もりをちゃんと知っている。私だけがわかっている。それだけで充分だ。