全部コロナのせいだ

(注 口調が荒くなる、何言ってるかわからない部分があると思います。ご容赦ください。これが心の叫びです。)

コロナは全てを台無しにした。

完成予想図は崩れ落ちた。

もうだめだ。


そう思ってしまった昨日の夜。

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自分は大学4年で今年卒業論文を書く予定だった。そこでテーマにしたかったのは「災害」だ。東日本大震災から九年、熊本地震から四年、西日本豪雨から二年、台風19号は去年で、これだけの災害がここ数年で起きており、これほど日本は「災害大国」と言われているのになぜ災害用の社会になっていないのか疑問に思ったのだ。自分が目を付けたのは防災教育の可能性だ。東日本大震災の際、岩手県釜石市の「釜石の奇跡」と呼ばれる成功事例があり、今でも公教育で十分な避難訓練がされているとは思えないし、大人でも十分に知識があるかどうかわからない。だから”災害時に行われるコミュニケーション”を調べ、「もし災害が起きたら人々の間ではこのようなやりとりが行われて、その結果こういったことが起こりますよ」と様々な人々に教育する。その過程で得られた「学術的な真実と人々の認識の乖離」や「人々への有効な伝え方」等を卒業論文としてまとめるつもりだった。


でも!


コロナがやってきた。。

こんな時に防災教育なんて人々のノイズでしかないと思ってしまったのだ。「こんな大変な時になんてことを聞くんだ」と。

人々が肉や炭水化物中心の食生活をしているから「野菜が大切」の考え方が発想の転換として心にスッと入ってくる。それで少しずつ受け入れられて日々の生活に溶け込んでいくわけだ。

しかし今の人々は精進料理を食べている。肉がないから仕方なくという状態で。そんな人々に「野菜が大切」と伝えても、仕方なく精進料理を食べてて辛いのにそれを正当化させてくる嫌なやつにしか見えない。

つまり「日常」だから「非日常」が際立つわけで、「非常事態」に「非日常」は全くもって刺さらない。


今自分が4年間の集大成としてやろうとしているのは、コロナで疲弊した人々に対して「もっと自分で考えて自分で動けよ」と言い、逆鱗に触れるだけでは足らずにその逆鱗をちぎり取ってしまうくらい腹が立たせてしまうことだ(と思っている)。

そんな状態で防災教育は成り立つのか。一緒に災害から身を守るためにどうしたらいいだろうと考えることができるのか。知らない奴から「災害について一緒に考えてみませんか」とメッセージが来て「いいですよ!」と快く卒論に協力してくれる人がいるのか。考え出したら止まらなくなっている。

だから今心は限りなくブルーに近い。どうしたらいいんだ。

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理想の社会

みんなが生活の中で無意識に友人の一人くらいを助けてる「共助社会」を作りたい。誰も見捨てられない社会にしたい。これが自分の理想であり、卒業論文でのキーワードになると思っている。

そのためにはやっぱり
・事なかれ主義
・同調圧力
・思考停止状態
・揚げ足取り
・成功者への嫉妬

などなど日本社会特有の悪い部分は無くしていかないといけない。だから薄々感じていたその人自身が思う嫌な所を突いてしまうこともあるだろう。

防災教育の良い所として「命を守ること」が最優先にあることだ。なぜなら命以上に大切なものって人生において存在しないし、防災という観点以外でも十二分に役立つからだ。

防災教育をすることで最優先にすべきことに対してどのアプローチが最速最善なのかを考える訓練にもなる。

「津波が来る」とわかった時点でAとBの道がある。Aはきれいに整備されて人がいっぱいいる道で、Bは狭いが高台まで最速で上がれる道だ。ここでAを選ぶ人はかなり少ないはずだ。なぜなら「命を守るためには早く高台に上がった方がいいから」だ。つまり目的に対して最短ルートで行くにはどうすべきかを考えられるようになる。

だからこそ多くの人を巻き込んで防災教育をやりたい。

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勇気がないだけだってわかってる

題名には「全部コロナのせいだ」と書いた。でもそんなことない。環境が変わったことに気が動転してしまっている。オフラインでのコミュニケーションや教育という面では、サークルで度々作成したワークショップの経験や個別指導塾での講師経験が役立つ。しかしオンラインでの教育、ワークショップ経験は全くない。みんな経験ないんだからやってみればいいじゃん。そんな心の声は嫌程聞いた。でもすごく不安なんだ。

先日インスタライブを試験的にやってみた。視聴者は事前に質問をくれた後輩一人だった。元々人望がないのはわかっていたから人数は構わないんだけど、がっかりしたのは自分のしゃべれなさだ。事前にもらった質問に答えて元々話す予定だったことについて話した。手が震えて、足も震えてまともにスマホの画面を見ることができなかった。対面だとしたら最悪のケースだ。話し相手が緊張して震えているし、全然見てくれないなんて不快でしかない。ダメな部分を上げたらキリがないのでこれくらいにして、つまりは「防災教育をするぞ!」と意気込んでいた人物にオンラインでのトークスキルが備わっていなかった。その現実に絶望したのだ。

自分のコミュニケーションが成り立っていたのは「相手を観察していた」からだったと改めて思い知り、一人喋りの難しさを実感した。毎日のようにYouTubeでいろんな人のライブ配信を見ていて自分もできると錯覚していたのかもしれない。情けない話だ。

どうしたら理想のために大切なことが大切な人達に届くのかな。

もっともっと知らない人とオンラインで話す練習はするべきだと思うがどんな場がふさわしいんだろうか。あまり自己開示をしてこなかったから需要がないんだろうなとも思う。

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結局お前は何が不安なんだ

防災教育の結果、嫌な奴だと思われるのは、別にいい。自分が相手にどう見られているかより、相手が自分の行動によってどのように変わったのかが一番気になってしまう。

最高のパターン
自分:災害が来たときは「自分で考えて自分で動く」。これが鉄則ですよ。
相手:なるほど!確かにコロナの時確かに○○があって、その時に同じこと思った!また災害は来るからきちんと対策考えておかないとね!
最悪のパターン
自分:災害が来たときは「自分で考えて自分で動く」。これが鉄則ですよ。
相手:確かにそうですね!(なんだ結局そんなことか。)
→その後何の行動もしないで終わり

最高のパターンのように、防災教育は目新しいことを教えるわけじゃないけど受けてくれた人には自身の体験に紐づけて、自分事にしてもらいたい。それがその人の命を守ってくれるかもしれないし、それが最善だと自分は思うから。

最悪のパターンはわざわざ時間をお互い使ったのに何にも変わらず危険な日常を続ける可能性だ。

もちろんこの防災教育を体験した全ての人がどんな災害にも100%勝てるわけじゃない。でも最初から命を落としてしまう人が出ると思ってやりたくないんだ。所詮大学生の陳腐なわがままだから、少し時間が経てば青い気持ちを隅に追いやって防災教育を始めてしまうと思う。

だからこの記事は自分を戒める決意。

妥協しない。諦めない。全力でやる。下を向くなら靴紐を結び直して歩き出せ。上ばかり見ずに目の前の人を見ろ。やってやる。

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最後までこの記事を読んでくれた方へ。

ただいま自分は迷える子羊です。こんなご時世でも、こうやったらいいんじゃない?全然防災教育いいと思う!といった意見や励ましの言葉を頂けるととっても心が安定します。今自分が持っている知識でよければどんどんnoteに随時書いていく予定なので身を守るための参考にしてもらえれば嬉しいです。

最後に自分の理想の社会をもう一度書いておきたいと思います。

みんなが生活の中で無意識に友人の一人くらい助けてる「共助社会」を作りたい。誰も見捨てられない社会にしたい。

執筆活動のモチベーションになります!あと僕のご飯にもなります🍚