
好きよ 好きよ 好きよ
数年ぶりに好きな人が出来たとき、先輩や友人に話したら告白はどうするのかとか、この行動は脈アリなのかどうなのかとか、いわゆる"恋バナ"になって、それはそうなんだろうけどなんとなく違和感を覚えていたことがある。私は女で、好きな人は男だったので、男女が一緒にいるのはやはり名前が必要で、特別な好きには相手や周りの許可がいるのかもしれないなと思った。
そもそも"特別な好き"とはなんなのか。例えばご飯をあまり食べてなければ心配で、健康でいてほしくてちょっと世話を焼いてしまうとか、おせっかいになってしまうことだろうか。この人なら自分の話を聞いてくれる、この人に知っていてほしい、と思うことだろうか。他者の人生に関与するという覚悟だろうか。
「言わなくてもいいことを言うよね」と言われることが何度かあった。デリカシーや配慮がないというよりは自己開示が多いという類いのものだろう。
自己開示が多すぎる人は弱い人で、誰かに認めて欲しいんだというポストを見かけた。何を言っているんだ、認めて欲しいに決まっているだろう。私はこんな人間だけど、それでも私がここに存在していいんだって誰かに言って欲しい。
言って欲しかった、になったような、なっていないような。別にずっと未熟者でいたい。必ずしもどちらか(どこか)に分類する必要もない。
そんなことを考える日々の中に、好きな人に会いに行く機会があるのはとてもありがたいことだ。"オタク"以外からすれば身近な人とアイドルに、ひとつの文章の中で同じ「好きな人」という言葉を用いるのは理解ができないのかもしれない。私の好きな人はSEVENTEENのキムミンギュである。
例に漏れずコンサートの席は注釈か見切れのみの当選だったが、サウンドチェックという、ちょっとリハーサル見れますよイベントにまたいけることになった。
今回は何を伝えようかな、お願い事をしてみてもいいかしれないな、投げキスしてほしいな、と思って、投げキスを私にしてほしいというよりはそのまま世界に向けてしてほしいな、となり、ああ私は結局世界を愛すキムミンギュが大好きで、キムミンギュを愛する"大勢"の中の一人であることが心底嬉しい、それがいちばんの幸せだ、と心から想った。私だけの何かをいつも探して尖ってきたのに、不思議なものだ。
だから「ここにいるよ」と言ってくれる彼らに、私もここにいるよとだけ、お返事を書いた。
私がいるブロックの隣に花道が通っていて、その花道の、座席の向き基準で後ろ側にいたのがミンギュさんだけだったときに、ミンギュペンだけが後ろを向いてるあの瞬間、めちゃくちゃ気持ちよかった。きみのこと大大大好きな人がここにいるんだよって伝えられることほど嬉しいことってない。私は大きい声を出すのが苦手だから声で気付いてもらうのが難しくて悔しいけど、きっといろんな方法があるはずだ。
満開の笑顔でデコったうちわと手を振ったら、そこにもいるんだねって体の向きを変えてくれた。目線を、体を相手の方に向けるって優しい。誠心誠意だ。私ってメガネかマスクをしなきゃ外に出たくないのに、何にもつけずに、何も気にせずに笑ってる。嬉しい。
ミンギュさん、あんなに感情が豊かで出力に迷いがないのにファンからもらう幸せには、ちょっとずつちょっとずつ、最後のひとくちを味わうみたいに、噛みしめるみたいに小さく微笑むんだよな。
ずっとなくならないの、あげるね。なくなってもまた渡すね。もし消費期限があるなら、新しいの作るね。新しいけどさ、長年継ぎ足された秘伝のタレみたいなとこもあるよ。
大好きだ、幸せだ、SEVENTEENとCARATに会いにいった時にしかない感情が確かにある。優しいんだよな、自分のままでいていいんだよな、無邪気に笑っていいんだよな。
これが"特別な好き"であることは一目瞭然だが、この関係性にどんな名前をつけたらいいのだろう。
私はミンギュさんに手を振っているときも、SEVENTEENみんなの名前を叫んでいるときも、CARATと話しているときも、認めてほしいだなんて感情はない。そんなことを確認する必要がないからだ。"私"も感情も、他者の許可の下に成り立つのではない。当たり前のことだ。
なのにそれが夢のように感じるこの世界が憎い。社会に問題提起するには私は言葉をうまく操れないし、この大きなものが変わることを願うほどの体力もなさそうだ。だから私の周りにいてくれる人には、同じとまではいかなくても似たようなぬくもりを届けられたらいいな、そんな人になりたいな。ずっとそう思ってきたけどひとりでは難しかった。もうひとりで頑張らなくてもいいんだって。SEVENTEENとCARATに会った時にしかない感情ってこういうのが含まれているのだろうな。
私もあなたの力になれますように。