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世界に投げキス


主語デカは注意が必要である。にも関わらずキムミンギュという人は「世界」やら「地球」やらデカいのがよく似合う。それはもちろん彼自身が物理でデカいだけではこと足りない明確な何かがある。
去年の今頃、光に形を与えたらミンギュさんになったんだ と残したのを覚えている。光が満ちているのに、影を押しやることのない光。

植物は光の場所をよくわかっている。太陽であろうと蛍光灯であろうとそこに向かってぐんぐん育つ。それゆえに傾いてしまうこともあるし、他の葉が邪魔をして全体に、平等に、行き渡らないこともある。光を十分に浴びても水が足りなければくたびれてしまう。置かれた場所で咲きなさいという言葉は好きじゃない。私はキムミンギュという光を全身全霊受け取ることができるように、呼吸をして、「好き」の水分補給をして、踊るように歩き回るのだ。



スペシャル

特別な日が苦手だ。特別な日は期待をする。占いで一位になったらいいことがあるかもしれないと思うけれど実際はいつもより嫌なことがあったりする。期待をしているから嫌なことが目につく。特別な日に期待して日常を疎かにしているのではないかと怒っていた時期もある。でも特別な日は、この特別な気持ちが存在を許されるような気がするから、いつもは少し言うのを躊躇う気持ちも記してしまおう。特別なきみのこと。

私の好きな「スペシャル」という曲は「普通が普通であるために努力している人がいる」から始まる。


メルヘン上等

多くの人がそうかもしれないが、私は「現実」とうまく手を繋いでいられない。"私"は神聖なのだ。
最近買った詩集の中に、「私というものを忘れるためにうつくしいものを見つめてみる」という一文があった。他者に自分は美しいと胸を張って言えるような人生を歩んではこなかったし、自己嫌悪は酷い方だったが、それでも私はずっと神聖だった。

からかいの対象になることが多いきみの仕草が好きだ。車から降りて1分もない間に筋肉を見せつけるように伸びをするとか、空港写真なんかはあまり拡散はしたくないけれどあっぱれだ。切り取られた写真をまず一番に見る私は、物語から出てきたのかと錯覚を受けるくらいに、一瞬一瞬が美しくて、人に見られているということを十分に理解していて、どんな瞬間も"魅せる"人だ。どんな瞬間も軽視しないのだ。隙などない。いつだって最高の自分でいること、自分の世界の創造に全力。
たまらなく好きだ。私は神聖で美しいきみのことを馬鹿にできるはずもないし、きみは神聖な私を馬鹿にしたりしない。第三者に馬鹿にされようとこの世界は揺らがない。

GOING PINK

小学生の頃、「ピンクを選ぶやつって…(笑)」というような全体としての制止があった。ピンクはかわいいのだ。憧れではなく規範としての"女の子らしさ"を孕むからかもしれない。

反骨精神が強かったのもあるが、関わりをあまり持たなかったからダイレクトにその空気感が伝わってくることがなかったのもあり、私は濃いピンクのパーカーを毎日のように着たし、誰にも何も言わせなかったし、だんだんピンクを使う子が増えたのを覚えている。私は誰にも近寄らせないかわいいを夢見た。誰のためでもない私のためだけの"かわいい"。

かわいいは弱さだった。「ぶりっ子」認定されたら居場所を失うような恐ろしさが蔓延っていた。どうして誰も素直になれないんだろう。どうしてお互いに足を引っ張り合うんだろう。子供は素直でいいねってなんのことなんだろう。
「大人」になることが自分の心に素直になれることだとすれば私は大人になれたし、大人が好きだ。

だからキムミンギュが好きだ。その愛らしさを持て余すことなく放出している。躊躇がない。キムミンギュはかわいい。形容詞に特定の年齢や性別などなくていい。私が彼を想うときの言葉にも、彼が私たちに向けてくれる言葉にも。

第一印象は"ピュアなまま大人になれた稀有な人"。この文脈で使われる「大人」はきっと先に述べたそれではなかったんだと思う。きみが私の言葉の定義を変えた。辞書をピンクで上塗りする。


彼のメンバーカラーなるものは青であることが多いし、私も青や黒を思い浮かべるが、エネルギーの正体はピンクだ。かわいいは強さである。
きみのことを強い人だ、と言いたいわけではない。きみは強さを知っているし、教えてくれる。

「나는 PINK다❗️」


異なるもの

キムミンギュの男性性について少し話をしたい。
私は女性でキムミンギュは男性であるということが時折ものすごく邪魔に感じるときがあった。ピンクやハートがわかりやすく可愛いように、キムミンギュはわかりやすく男らしくてかっこいい。私ときみは「異性」だ。必要のないものがくっついてくる。

私は自分のことを女性だと思っているし、そこに違和感もないし、そう思われることに抵抗もないが、一番しっくりくるのは「無性」である。
理想の人物像は性別で表すのであれば男性であることが多かったけれど、男の人になりたいと思ったことも、ボーイッシュな女の子になりたいと思ったこともない。かっこいいと言われることが多かったが私の判断基準はかわいいか否かだ。かっこいいと思われることを自覚しながら私は私(だけ)のかわいいを追求する。
何にも形容されたくない。だからこそ異性の存在が嫌だったように思う。「モテ」やら「男ウケ」やら、選択が世の括りに入れられ私のためのものでなくなるとき、私はそこから逃げ出す他なくなるのだ。

きみへの好きが私の中でうっすらと、でも確実に広がっていくのを感じたとき私は怖かった。筋骨隆々で日に焼けた健康的な肌を輝かせて、大きな体で全てを包み込むように笑う男を好きになることが。

しかし全くの杞憂だった。私は私が脅かされることなく彼を好きだということができて、むしろもっと自分らしくあるための力強い後押しをくれる存在だ。

私にとってキムミンギュの男性性は彼自身を含め人を型に押し込むものではなかった。男らしさの象徴とも言える筋肉は努力の結晶でしかなく、私が日々化粧を頑張って自分を好きになったみたいなことと同じようなもので、それが誰にでもわかる形としてしっかり現れているに過ぎなかった。もちろん他の人に対して言えることでもあるが、彼のこれまでの小さな言動の積み重ねがこの思いを強固にしている。

例えば、私たちのことをかわいいと言ってくれること。そのあとにかっこいいが続くこと。綺麗で、美しくて、キラキラな存在であることを表現するためのひとつでしかないこと。私は女性でキムミンギュは男性であるという事実を見ないことにする必要はないまま、私たちの間に性別の枠組みはない。自分の仕草を見て「今お姫様みたいだった」という彼を前に、私は何かを持たされる必要があるだろうか。


彼の「セクシー」はただそのまま「セクシー」だ。肌を出すのはあまり好きではなく、記憶の記録への柔らかい執着のあるきみの表現のひとつ。自分の体を愛すことで生まれる矢印は自分自身に向かう。だからこそ他者に見られている意識、他者に与える影響を誰よりも自覚できるのだと思う。世界との関わり方としてあまりに美しくて羨ましくて、唇を噛んでしまう。
初めてのパリファッションウィークに参加した彼の姿を見て「生き方が世界を巻き込んだ芸術」と残したことを何度か思い出すが、彼が放つものがそれほど美しかったのであって私は受け取っただけに過ぎないことにまた私は体を震わせる。


感じ方は受け取り手次第であり幾千も存在していいものだが、彼は受け渡すのが上手だと思う。

「自分がなりたいものを示すよりも、望むものを与える人になります」と言うキムミンギュが与える愛は人それぞれに合わせたものというよりは彼にしかないハッキリとした形をしている気がするけれど、誰にとっても優しくて柔らかくてよく馴染む。


私はきっとずっと女の子、少女のままでいたかったのだ。簡単にそうはさせてくれない世の中で「無性」に居場所を見つけた。キムミンギュだけが私をただの少女にさせてくれて、くしゃくしゃになった心を平たく伸ばす。


愛のプロ


キムミンギュ。アイドル、天職。

"CARATのためならなんでもできます"、途方もない言葉に現在進行形で中身を持たせる。
いつかのゴセでもSEVENTEENの中で唯一利他的な人間だと字幕をつけられていたけれど、そこに自己犠牲はない。「結果的に利他的な行動が必要だと思うけど、他人に良くするために自分を疎かにすることはありません」と言っていた。
可愛がられるのが好きで愛するのも愛されることも好きな人。「この愛おしい人をどうしたらいいの」というCARATの投稿に「愛して」と返した。

愛すって難しい。好きなんて利己的で醜いものだと思っていた過去の自分にそんなことなかったよって伝えてあげたいけれど、具体例や理論がなければ納得できない私に伝える手段はキムミンギュに出会うことしかないから、「ふん、数年後に幸せになるぜ」と腕組み仕草をかましている。

キムミンギュが好きだ。きみのことを愛しているのか私のことを愛しているのかわからなくなるときがある。そこにあるのはひとりよがりなことへの恐れであったが、ロマンチストでありながらリアリストであるきみだから私も地に足つけて、私ときみを同時に目一杯愛すことができている。きみが与えてくれるのは幻想ではなく確信。
境目がわからなくなるほど人を愛せることでしか浮かび上がらない心の形があることを私は信じたい。

ただ愛しているという事実がそこにあるだけでは足りないくらい愛している。どうしようもなくなって、はち切れそうになって、全部嫌になっても、きみを愛すよ。無条件に、ではなく、誠心誠意。

文字をひとつずつなぞって読むように。
花を束ねるように。
星を数えるように。


拝啓


出逢えたこと、同じ時代に生まれてきたことが奇跡だと思ってしまいたいほど私はきみに出逢えて本当に嬉しい。時代が違えばきみではない誰かに光を感じていたのかもしれないけれど、1997年4月6日生まれの김 민규が私の光であること、きみのそのエネルギーをまっすぐ受け取れる道を歩んできたこと、誇りに思う。

おかげさまで私は幸せです。そちらはどう?
いつも「してあげる」と言ってくれるきみがいちばんに幸せでありますように。
どんな祈りも足りないような気がする。優しい夜みたいな人の言葉に嫉妬する。どんなに好きかをこの手で表したくて仕方がない。毎日きみのことがたまらなく好きであてもなく文字を連ねてみる。足りなくて本を読む。運動をする。まだまだ足りない。この世の美しいものかき集めても足りないから、仕方ないから全部あげる。

世界を真っ直ぐ見つめてみる。きみがいるから愛おしく思えるものが随分と増えた。
私の全部をきみに宛てる。

お誕生日おめでとう。愛しています。





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