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銀杏のアレゴリー

 モノレール沿いの坂道を登っていく途中に、小さな公園がある。遊具の類は何もない。あるものといえば木製のベンチが2つばかしならべてあり、大きな銀杏の木ばかりだけれど、しばらくはその木が銀杏だということは知らなかった。何度もその道は通ったというのに、秋が深まって、一面が美しい黄金色の落葉で埋め尽くされるまでは、それと気づかなかったのだ。気づいたとて、家から少し離れたところとはいえ大した距離もない、時間にして20分程度で着くであろうその公園のベンチにわざわざ出向いて腰掛けることも、歩き疲れて休息を取ることもない。道路の反対側にあるその銀杏の公園は、ほんの少し視界の端にうつるだけで、すぐに通り過ぎていった。

 そのころ、病的な人間だった。東京オリンピックが翌々年の開催に迫る2018年の秋のことだ。議会では民主主義の根本を揺るがす大問題が噴出していながら、それで何が変わるわけでもなく問題は問題ではないとされ、人々は間近に迫った祝祭の雰囲気に少しづつ飲み込まれていっていた。大学でも、学生がボランティアに参加しやすいようにと、翌年から授業時間とコマ数を、7月中旬ごろから夏休みに入るように調整していた。5年近く付き合っていた女の子からこっ酷く振られたばかりで、今思い返せばばかばかしいほどに狂っていて、ずっと死のことばかり考えていた、それは本当にずっとで、ありきたりではあるかもしれないが、駅のプラットフォームで新宿行きの特急を待っていて、いざ電車が来るというアナウンスが来ると、黄色い点字ブロックから線路へと身を投げ出してしまうんじゃないかと、人間の意志の力というものはそれほど確かなものじゃない、いまそんな事を少しも考えていなくても、その瞬間何を考えているかは誰にもわからないなどと考えていた。
 そんなころだ、暗澹たる気分で黒いロングコートのポケットに両手を突っ込んで歩いていた、イヤホンからはベルリオーズの<断頭台への行進>が流れていた、まさしくそんな気分。マジックアワーで、坂の上の空はオレンジからラベンダーへのグラデーションをなして輝いていた。このまま進めば何もかもが破滅だ。しかしそれを止める手立てはない。ならばますます徹底的に、取り返しがつかないほど壊れてしまえ、瓦礫の上からはじめよう。
 そのときだ。例の如く視界の端には、残照に輝く銀杏が入ってきた。しかし常ならぬ感覚を覚えて、そちらを見やると。右からのびた太い枝に真っ黒な首吊り屍躰がぶら下がって、風に揺られていた。ぎょっとして、思わずじっくりと見つめる。横断歩道を渡って初めてその小さな公園に足を踏み入れた。ベンチに腰掛けて銀杏の木を見つめた。その幹はとても太く、よく見ると細い注連縄が回してあった。地面には力強くうねる根が、ところどころ隆起している。幹からはいくつも太い枝が四方にのび、そこからさらに細い枝をのばして、たくさんの葉を付けている。しかしその枝から屍躰や、それと見違えるようなものは何一つぶら下がってはいなかった。なんだか可笑しくなって、声を出して笑った。ひと通り笑いおわると元の道に戻って行った。


 東京の街を歩いていると時々、銀杏の並木道に出会う。銀杏は別に街路樹として珍しいものではないけれど、やはり東京には多い気がする。事実、と言っていいのかわからないが、銀杏は東京の「都の木」らしい。街路樹として利用されるのは、火災の際に延焼を防ぎやすいからだという。江戸時代から火除け地には銀杏の木が植えられたそうで、火事と喧嘩は江戸の華とか言うぐらいだから、火事が多かった江戸=東京には銀杏が多いのだろうか。関東大震災の時には実際延焼を防いだという事例が数多くあったそうで、震災を生き抜いた大手町の銀杏は「震災イチョウ」と呼称され「帝都復興のシンボル」として今なお残っているのだそう。


 また銀杏は「生きた化石」と呼ばれるほど古い樹だ。世界最古の原生樹種の一つであり、2億年以上前から存在しているらしい。そのためか花言葉として「長寿」「鎮魂」「荘厳」がある。

 鎌倉の鶴岡八幡宮には平安時代からあり続けた大銀杏があった。その樹の影に隠れた頼家の子、公暁は、右大臣実朝が石段を下りてきたところを殺した。その後、公暁は三浦義村に討たれ、頼朝の血統は絶えた。北条家が執権として権力を握った。2010年、その大銀杏は大風のために倒れた。その折れた幹からは、新たな芽が生え出している。

 銀杏の葉は、その美しさで死を装っている。多くの人が、紅葉の季節になると紅葉などと一緒に銀杏を見る。足元にはグジュグジュになった種が不快な匂いを漂わせている。枝から離れた葉はバラバラになって落ちる。それはとても美しい。人々は見上げる。心ある人は地面に落ちた葉を拾い上げて、大切にポケットにしまい込む。

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