一ノ瀬志希は何故偶像であり続けるのか
■おことわり
この文章では「一ノ瀬志希は何故偶像であり続けるのか」の個人的考察を書いていきますが、当然のごとく個人的解釈や超理論が出てきます。肌に合わないと感じたら見なかったことにしてください。
※はてなブログに先日記述した内容をほぼそのまま持ってきたのですが、脚注のリンクの付け方がイマイチ良く分からないので付けておりません。どうしたら付けられるのかよろしければ教えてください…
以下常体。*1
アイドルという言葉の語源を遡ると、ラテン語のidola(イドラ)に辿り着く。この語は英語のidolと同様「偶像」や「幻影」と訳す事が出来るが、哲学的には人間の先入的謬見(偏見、先入観、誤りなど)を帰納法を用いて説いたものを指す。
私はアイドルというものは偏見*2を操る者という一面を持っていると考えている。本人の性格や気質を問わず、ステージ上*3で定められたキャラクターを演じて利益を出す職業であるからだ。*4
逆に、不祥事を起こした際はものすごい勢いで悪評が広まる事となる。ステージ上の幻影が消え去り、不祥事を起こした人間となってしまうのだ。アイドルはどこまでもイドラからは逃げられない、故に、アイドルという単語がイドラから来ているのは自分の中では心底納得のいくものである。
アイドルがステージ上で能動的に偏見を作り出す者だとしたら、天才は受動的に、生きているだけで偏見を受けてしまうものだ。
例えば、誰もが知る天才発明家のトーマス・エジソンは、少年時代には異常なまでの知りたがりであった。小学校に入学した後、授業の内容を鵜呑みにすることが出来ず、最終的に担任から「頭が腐っている」と吐き捨てられ、退学した。現在の彼の功績を見て「頭が腐っている」と評する人間はほぼいないだろうが、何故当時の担任は彼の頭が腐っていると評したのか。これも偏見の所為であると思う。
洞窟のイドラという物がある。これは、各個人の経験や習慣などからくる偏見の事を指す。エジソンの担任は、他の生徒や過去の自分と重ね合わせて、そこから明らかに逸脱したエジソンの事を理解できず「頭が腐っている」と評したのだろう。
エジソンは不当に低く評価されてしまったが、現在では天才故に高く評価されすぎてしまい、偏見に晒されてしまう子供も少なくないらしい。そういった子供はいじめの加害・被害に晒されたり、授業がつまらないせいで不登校になったりすることもあるという。そういうのを教育用語で「浮きこぼれ」という。
さて、一ノ瀬志希の話に入る。彼女は上述の「浮きこぼれ」であったのではないか。更に失踪(要は突然ふらっと居なくなる)だとか、そもそも明らかに行動が偏見を受けやすい。そんな一ノ瀬志希が何故人々の偏見の塊である偶像であり続けるのだろうか?
一ノ瀬志希は自らのアイドル活動において、明らかにステージ上での「偶像」としての活動に重きを置いている。
レッスンは途中でいなくなったり、そもそも最初から来ないことが非常に多い。だが、ステージ上の活動は絶対にドタキャンしない(その点はPや同僚にも信頼されているようだ。)。ステージ上での活動が満足にいかない可能性があるとみると普段の彼女らしからぬ努力を見せる事もある(つぼみの特訓コミュ)。極めつけはデレステのライブでAを取った時のリザルト時のセリフ「ファンが良ければそれでいい」だ。そもそも彼女がアイドルになった理由は「なんか面白そうだったから」なのだが、このセリフは自分の面白さよりもファンが満足したかを優先しているものと取れる。これは何故だろうか。*5
アイドルコミュの4を見てみよう。初仕事の深夜帯の歌番組の仕事でトラブルが発生するも機転を利かせて自らに注目を集めるというのが大筋だ。このコミュ内でこんな発言がある。
「そう!トラブルも悪い事じゃなかったんだ!
思ってもなかった、いい反応もあってさ!
みんながあたしに注目して!」
何故いい反応を思っても無かったかというと、これまで行動を否定的偏見を通して見られることが非常に多かったからだろう。機転を利かせた行動もこれまでは不気味に思われることが多かったのではないか。それが、ステージ上では非常に肯定的な偏見を通して見られる。アイドルについて解き明かしたいと直後に発言しているが、これについて言っているのだと思う。
このコミュの最後で、志希は「いつか絶対、全部をあたしのモノにする」と発言している。彼女は自らに向けられる偏見の本質を変える為に偶像でありつづけるのだ。
だが、純白の花嫁の思い出エピソードにはこう書いてある。「あたし、昔から変な子だったんだよね。王子様よりも博士の方がドキドキしたし、リボンよりも試験管の方がワクワクした!フツーの女の子らしくない毎日だったけど、あたしはそれでよかったよ。」
人と異なる事を受け入れているように見える。つまり、人からの偏見をあまり気にしていなかったのではないだろうか?
それについては私はこう考える。彼女は確かに一度否定的偏見を(半ば諦めで)受け入れたが、アイドルを続ける事でそれとよりよい形で共存出来ると考えたのではないかと。
皆に認められたいが自分も否定したくない、ギフテッドであるという自負が自己の否定の選択肢を無意識に消したのかもしれない。(そう考えると、志希自らも偏見に囚われていたのかもしれない。)しかし、アイドルを続けることで、自己の否定をせずに皆に認めてもらえる。
一ノ瀬志希が偶像であり続ける理由、それは人間ならば誰でも抱くであろう「皆に好かれたい」「自分らしくありたい」時に反発するこの二つのジレンマを乗り越える為であると私は結論付ける。
*1:ポケモンの構築記事でよく出てくるやつ。一回言ってみたかった。
*2:ここでは肯定的偏見を指す。この文章内では肯定的偏見と否定的偏見を特に区別せず使用するので文脈で判断していただきたい。
*3:本文においては人前に出る活動全般を指すこととする。レッスンではないアイドル活動全般とかだと長いし。
*4:もっとも、一ノ瀬志希の属するシンデレラガールズではあまりにも本来の自分とかけ離れたキャラクターを演じるアイドルはそんなに見受けられるわけではないのだが。私の知る限りでは。
*5:なお、評価がB以下だとつまらないと言ったり、テンションダウンしたりする。流石に限度はあるのだろうか。