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#暴力モテ を否定する空虚さ。

もうご存知の方も多いだろう『アカデミー賞の授賞式で司会者から妻の脱毛症を揶揄された事に対し平手打ちをする』と言うウィル・スミスの行動が物議を醸しだしている。
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妻への侮辱に対しての暴力と言う対立軸でアメリカ世論は割れているとの事だ。アメリカはトランプ反トランプの頃に両陣営の支持者刈りをしていたくらいなのでこうしたセンシティブな話題において『暴力を支持する』側の回答は後々糾弾される恐れを感じていてもおかしくはない、今回はそうでなかったが人種問題まで絡んだら暴動くらいは起こっていた。

記事では触れて居ないが、銃社会だと言うのもあるだろう。双方銃を取り出してもおかしくはない社会においては、何にしてもあくまで言葉に対して、手を上げた時点でアウトとするのが一つの基準と見ていい。

一方、日本ではそうした法律等の明確な線引きよりどちらが悪いとする事よりも、双方痛み分けの様な上役の裁量や、司法判断にしても情状が加味される傾向にあるのがポイントである。

特に今回の事例では知名度の問題もあるだろうが、記事にもある通り日本ではウィル・スミスに共感する人が多く、批判どころか賞賛するような声が多かったと言えるし、私も共感を覚えた人間の一人ではある。

ただ、これに関して日頃から『暴力は良くない』や『家父長制に反対』などと叫んでいる人達が『賞賛するような言動をしている』のを見ると、前々から私が主張している #暴力モテ の裏付けと言っても良い物だと思えるし、未だに暴力モテを否定や批判している一部の人を見ると何とも言えない気持ちになってしまうのだ。

ちなみに、私が言っている #暴力モテ とは暴力性の様な範囲の広い物よりももっとシンプルに『制御能力が十分ある武力』などと違い『単純な膂力とそれを行動に移す粗暴さに対して、でさえ異性にとっての魅力は発生してしまう。』と言う現象を示しています。

そう、本質であり単純な話でしょう?

そして同時に口ではその暴力モテを求めたり駆使する人たちも男女ともに『暴力はよくない』と当然言う事だろう。

そりゃあ「相手の言い分にも理あるが、暴力により力尽くで解決した!」等と言い切るのは論理的正当性を下げるだけでデメリットしかありませんからね。

女性にしてもそうした理屈を口にする事はなく、むしろ理解を拒んで記憶を改変してでも『暴力やパートナーの迂闊さ、もしくは相手の落ち度など批判の矛先を探しつつ上手く立ち回る』のが最善であって、パートナーを褒めこそすれどストレートに暴力を褒める事はほぼあり得ない訳です。

安全産業に従事する身として、人一倍荒事にも長けつつ、同時に話合いの大切さを身を持って知っている自負があるが、私はそうしたバランスにも心掛けて生きてゆきたいと思う。

しばらくモテ関連の記事を書こうと思っていますので次の記事をどうぞ。

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