この母にして、名優ローラ・ダーンあり アカデミー映画博物館で母娘トークイベント
俳優ローラ・ダーンが次にどんな役を演じるのか。私は目が離せません。
ローラは現在、54歳。
2020年、ネットフリックスの「マリッジ・ストーリー」でアカデミー賞やゴールデングローブ賞といった主要な賞の助演女優賞を総なめしました。
ローラが演じたのは、すれ違いの末に離婚を決断した役者夫婦の妻(スカーレット・ヨハンソン)側の弁護士役でした。妻側に有利な情報を集めて時に都合よく分析し、和解よりも全面的な親権の獲得を目指して戦略を練るやり手の女性です。ローラは、実にうまく、嫌味ったらしく、でもチャーミングさも含めて演じていました。
他にも、エミー賞などで高く評価されたHBOのドラマシリーズ「ビッグ・リトル・ライズ」では高級住宅地で暮らす金持ちの妻(これも嫌みな女です)と思えば、グレタ・ガーウィグ監督版の「若草物語」では4人姉妹を優しく見守る母親役を演じています。
今、脂が乗っている役者の1人です。
そのローラ・ダーンのトークイベントが10月16日、アカデミー映画博物館で開かれました。
ローラの父親は、俳優のブルース・ダーン(1936〜)。「帰郷」や「栄光の季節」、「ネブラスカ ふたりの心をつなぐ旅」などの出演作があり、カンヌやベルリン国際映画祭で主演男優賞を得ています。
母親のダイアン・ラッド(1935〜)も俳優です。出演作には「アリスの恋」「ワイルド・アット・ハート」「ランプリング・ローズ」など。
トークイベントでは、御年85になるダイアンが娘のローラと共に登壇しました。
とにかく母ダイアンがお元気でした。
ダイアンは喋り出したら止まらず、話が脱線しまくる(それがとても面白い!。娘ローラが打ち合わせ通りに進めようと、四苦八苦していました(笑)
ダイアンは自己紹介からジョークを飛ばしていました。
「私は、ハリウッドで元夫(ブルース)が出た映画を監督した、唯一の女性でしょう」
調べてみると、ダイアンは自分が主演した映画「Mrs.Munck」(1995年)で監督をしていました。主演もした理由は「自分で自分を雇うと、ギャラが安く済む」とも言っていました(笑)
ちなみにその映画で撮影監督をしたはジェームズ・グレノン。父親がジョン・フォードの映画などでの撮影で有名で、父子2代で撮影監督です。ダイアン曰く、「映画の現場では、両親の働く姿を見て、同じ道を志す子供たちがたくさんいる。映画はファミリービジネスだ」そうです。
まさに、娘のローラも両親の背中奥見て同じ道を歩んだわけですね。
ダイアンは、ミシシッピ州の中規模都市で生まれ。多忙な母親は、幼いダイアンの絶好の預け先として、映画館をよく利用していたそうです。「子供ながらに心が震える映画があった」と振り返るダイアン。「将来は映画俳優になりたい」と志すようになりました。13歳で初めて学校演劇に出て、演技に開眼。ますますその思いを強くし、並いるライバルを押しのけてオーディションで主役を勝ち取っていくようになります(本人談)
ダイアンは「両親に『女優になりたい』と何度も何度も繰り返し言い、神にも祈り続けた」と言い続けました。両親の反対や心配、嘆きをよそに、「大丈夫、私は女優として必ず成功するから」と自信があったそうです。
「女優になりたい」と神に祈りながら眠りについた翌朝、教会の礼拝で牧師が「もし才能があるならば、突き進め」と説教したそうです。それを自分への天啓だと受け取ったダイアンは、25ドルの現金と衣服が入ったトランクを持って、ニューヨークに向かいます。18歳のことでした。
娘の強い決意に根負けした両親は「金がなくなったら戻ってこい』と渋々送り出しましたが、当のダイアンは「絶対にうまくいく」と確信していたようです。
私が思うに、ダイアンは自分の周りで起きるあらゆることを、いい方向に解釈するスーパーポジティブ思考の人間。いい運を自分に引き寄せる力があるのも、才能の一つですね。
ニューヨークにいったダイアンは、オフ・ブロードウェイの舞台で役を得ることができました。
とはいえ、極貧生活が続きます。オフ・ブロードウェイの芝居に出ている時にニューヨークタイムズ紙にレビューを描いて欲しいと売り込んだり、タイミングよく代役として出演できたりと徐々にキャリアを積んでいきます。
「最初の仕事で得た成果は、あなた(ローラ)のお父さん」と茶目っ気たっぷりに微笑むダイアン(ブルースは最初の夫で、3度結婚しています)
ダイアンの話ぶりからは、元夫への怨嗟は全く感じられませんでした。
ダイアンとブルース夫妻の間には、悲しい出来事が起きました。
最初の子供であるエリザベスが、1歳半のときプールでの事故で死亡したのです。ダイアンはショックで体調を崩し、次の子供ローラが生まれるのは、それから7年の歳月が必要でした。始終明るく冗談まじりに話していたダイアンでしたが、この時は涙ぐんでいました。「ローラは私にとって奇跡の子供だ」とも。
下記の写真は、ダイアンが娘ローラを妊娠中に参加した映画「The Rebel Rousers」(1970年公開)です
「ジャック・ニコルソンら出演者たちは、妊娠していた私をどう扱っていいのか分からず、と〜っても親切だった」とダイアンは振り返りました。
母ダイアンと娘ローラが影響を受けた女優や映画も紹介されました。
母ダイアンは、影響を受けた女優として、バーバラ・スタンウィック の名前を挙げました。とある西部劇の映画の撮影に、妊娠中であることを周りに隠して出演したダイアンは、アクションシーンで何度も撮り直しをさせらたそうです。すでに揺るぎない地位にいた共演者のバーバラが、「もういいでしょう!」と現場で一喝し、撮影がすぐに終わったそうです。ダイアンはバーバラの楽屋にお礼を言いにいき、そこから数十年にわたり友情が続いたそうです。
母娘は、バーバラが主演した悲恋の映画「ステラ・ダラス」(1938年)や、ヘンリー・フォンダと共演した「レディ・イヴ」(1941年)の素晴らしさについて熱く語り、「未見の人はすぐにみてほしい」とも強く勧めていました。
好きな映画として、「オズの魔法使い」「サウンド・オブ・ミュージック」「ウエスト・サイド・ストーリー」「時計じかけのオレンジ」などが挙げられ、シドニー・ポワチエの演技と人柄がいかによかったかという話もでました。
「素晴らしき哉、人生」はクリスマスに必ずみるそうです。2人がいかに映画を愛しているかが、その話ぶりから伝わってきました。
ローラは、幼い頃に見たコメディドラマ「アイ・ラブ・ルーシー」(1951〜)に強く影響を受けたと言います。「女性であることを誇りにもつ。ただ男を待っていたり男に縋るような女性にはなりたくないと思った」と。
ダイアンはローラを産んだ後、ブルース・ダーンと別れますが、周りにはよき女友達がいたとそうです。その筆頭が、シェリー・ウィンタース 。ローラのゴッドマザーでもありました。他にも、モーリン・ステイプルトン、ジェナ・ローランズといったハリウッドの歴史に名を残す女性映画人が集まったそうです。
と書いておいて、私はこれらの女優についてほぼ何も知らないことを告白します。このトークで名前を知り、業績を調べてとても興味を持ちました。
ローラは「我が家では、よく女性の脚本家や役者が仕事や人生、芸術について話をしていた。お金を稼いで家や車を買うのも重要だけど、もっと大事なことがあると、大人たちから教わった」と言います。今よりももっと女性にとって厳しかった時代、ダイアンは「シスターフッド」でハリウッドの荒波を乗り切ったのでしょう。
ダイアンは、1974年に公開された「アリスの恋」(マーティン・スコセッシ監督)に出演。ローラも撮影現場を見学し、エキストラ出演もしたそうです。
下の左端の写真は「アリスの恋」で英アカデミー賞の助演女優賞を受賞したときの写真です。
当時小学生だったローラも参加していますが、今の洗練された都会的な雰囲気とは全く違い、メガネ姿にダボっとした服装なのがとても驚きで、逆に交換が持てます…。「とてもひどい格好している」とローラは苦笑いしていましたが。
中央の写真は役者として本格的な道を歩み始めた頃の若きローラとダイアン、右端の写真はそして「ランプリング・ローズ」(1991年)で母娘でアカデミー賞にノミネートされて、2人で授賞式に参加した時の様子です。
ローラは17歳の時に、デビッド・リンチ監督の「ブルー・ベルベット」(1986年)に出演しました。その後、母娘はリンチの「ワイルド・アット・ハート」ではに出演。2人は「デビッドは怒りと恐怖、暴力に満ちた映画を作るのに、本人はとても穏やかな性格。声を上げたことや下品な言葉を使ったことがなく、いつも冷静さを失わない」と口をそろえて褒め称えていました。
ダイアンの最新出演作はトッド・ロビンソン監督の「ラスト・フル・メジャー 知られざる英雄の真実」だそうです。「Huluなどで見ることができます」と宣伝を忘れないダイアンとローラ。
とにかく、客席の笑いが絶えない時間でした。
ダイアンは「決して夢をあきらめないで」「周りと自分を愛そう、ハグをして」と繰り返し、繰り返し語っていました。
この母にして、この娘あり。2人が今後、どんな役を演じるか。
奇跡のコラボレーションの一夜を体験できた観客の1人として、その活躍を見続けていきたいと思いました。