鬱ログ

10日から14日までの黒井【長いよ】

まいど。

前回のノートが4月10日なので、実に4日ぶりの更新だね。

この4日間はなかなか立て込んでいてノートを更新することができなかった、というのは言い訳で、文章を書く気力がなかったというのが本音だ。

未完成のまま投げてしまったノートの下書きが、いくつかある。書くぞとキーボードを叩き始めるのだけど、フタを開けたままのサイダーのようにしゅわしゅわと気が抜けてしまうのだった。

4月10日。この日は午前9時と午後6時にノートを更新している。どちらも「鬱ログ」だ。

この日、彼女から「あした遊びに行ってもいい?」という連絡があり、急遽彼女と会う約束をした。

するとその夜、母の元に訃報が。母方の祖父(母からしたら父親)が亡くなったとのことだ。

教師だった祖父は、社会に出ていこうとせずにおびえてばかりいるぼくを心配していた。いつだったか「ゲームが好きならゲームをつくる会社を目指してみてはどうだ」というアドバイスをくれたこともあった。

しかし、ぼくはニートのまま。

ぼくがニートのまま、祖父は他界してしまった。

親戚といえどひとが恐ろしいので葬式にも出席することができない。いや、できないということはないのだろうけど、やはり、恐ろしいのだ。

ひとがいるのに静かな空間、というのは、葬式しかり、病院の待合室しかり、どうしてか苦手だった。ぞっとするような恐怖を感じる。考えてみると、その環境が「学校」に似ていることに気がついた。ひょっとすると、ひとがいるのに静かな空間は、ぼくの潜在意識に学校をイメージさせるのかもしれない。

何にせよ、不孝者であることに違いはない。

葬式に出れば恐怖との戦いに、葬式に出なければ申し訳ない気持ちと罪悪感でいっぱいに満たされる。

ぼくは葬式に出ないことを選んだ。

母は自分の父親が亡くなったばかりだというのに「あしたはふつうに彼女をつれてきていいからね」と言ってくれた。

このごろずっと不安感、恐怖感が強く、精神不安定だったので、正直なところ、これ以上の刺激には耐えられそうになかった。

母が許可を出してくれたことで、ぼくは少しだけ救われた。

11日と12日。彼女がやってきた。今回ついに「遊びに来てくれてありがとう」と言うことができた。ちょっと緊張したけどね。

彼女の頭をたくさんなでてあげられたし、ぼくもたくさんなでてもらった。精神的に充実した2日間(彼女と一緒にいた時間は23時間ほど)だった。

また、ふたりでいろんな話をすることができた。ぼくも、彼女も、ふだんからあまりしゃべらない。お互い、何をしゃべっていいのやら、分からないのだ。電話をするときは多少なりとしゃべるのだけど、沈黙も多い。

しかしそれすら心地よいのだから、愛情というのはすばらしい。彼女以外の誰かが相手であったなら、沈黙をつくるまいと頭がフル回転しているところだ。

実際に会ってみると、よりいっそうしゃべらない。はじめて彼女と会ったときなんかは、ふたりで数十分すわっているだけ、なんていうこともあった。

そんなふたりが、たくさんの言葉を交わしたのだ。

何か特別なことをしたような気分になった。

そしてその時が来る。

考えないようにしていたが、やはり彼女が帰ってしまうとひどく気持ちが落ち込んだ。

彼女をバス停まで送ると、自分の体の一部がぽろっと取れてなくなってしまったかのようなあっけない喪失感がこみ上げてきた。バスの窓から小さく手を振る彼女を見て、涙が出そうになり、足早に帰った。

ここへ来たときはふたり一緒だったのに、帰るときは自分ひとり。そう思うと悲しくてたまらなかった。

13日。ぼくは決心した。東京都は府中市にある母の実家に行き、部屋の掃除を手伝うことにしたのだ。

数年前までは、月に一度、母が実家を訪ねるときにはぼくも同行していた。しかし、少しずつ気分のふさぎ込むことが増え、体力がなくなり、いつしかぼくは母の実家へ行くのをやめてしまったのだ。

それから2、3年経っただろうか。

年末年始に彼女が遊びに来ることもあり、ぼくは完全に祖父と顔を合わせる機会を失っていた。ひょっとすると2、3年、会っていなかったのかもしれない。

ぼくの住んでいる神奈川県から母の実家へは、バスと電車を乗り継いでいく。片道で一時間半ほどかかる道のりは、ぼくにはけして近いとは言えない。

さらに今回は、その実家で「掃除」を手伝うのだ。

50年以上ものあいだ、祖父はその家に住んでいたらしい。

半世紀分の生活の名残りがあり、半世紀分の歴史があるその家を片付けるというのだから、相当な覚悟が必要だった。

その家には大きな桐箪笥がいくつもあった。幼い頃、子ども心に「立派だなあ」と思った桐の箪笥は、そのときのままの姿でそこに鎮座していた。ほんとうに、そこへ腰を下ろしたまま動かないというような印象だった。

祖父より先に祖母が亡くなったのだが、祖父の意向で、祖母のものにはあまり手を付けていなかったようだ。

着物の先生をやっていた祖母の遺したいくつもの桐箪笥には、丁寧にたたまれた着物がたくさん入っていた。母とその兄弟たちは着物には明るくないようなので、その着物は、どこかへ売ってしまうことになるのだろう。

亡くなったひとの遺したもののことを「遺品」というが、人間がほんとうの意味で遺すことのできるものなんて、ないのだ。

一日で部屋中のものを片付けることはできなかった。

それなのに、祖父と同居していた伯父夫婦が、ぼくに「お手伝いありがとう」ということで、お金をくれた。家に帰ってから開けてみると、一万円札が入っていた。

働いていないぼくに、気を使ってくれたのだろう。

ありがたいことなのだけど、何だか申し訳ないような、切ないような気持ちになった。

なんとかなる。

祖父の家からの帰り道、ぼくはそう感じていた。

片道一時間半の長旅。半日にわたる掃除。自宅まで無事に帰り着くことができるだろうか、などと思っていたのだけど、なんとかなるものだ。

なんとかなると思えたことにより、精神的にも安定してきた結果、帰りの電車やバスでたくさんのひとを見ても、割合に落ち着いていられた。

しかし、疲労は確実に積み重なっていたのだろう。

バスを降り、ぼくと母は、コンビニで夕ご飯を買って帰ることにした。コンビニに入ると、ふいに声をかけられた。

振り返ると、同級生の姿があった。

彼は小学校、中学校が同じで、クラス全員からイジメに遭っていたぼくと、唯一仲良く接してくれたひとだった。

中学二年生のころ、ぼくが学校へ行けなくなってしまってからも、ぼくの家に遊びにきてくれた。一緒にモンスターハンターのゲームをプレイした。

ほんとうに唯一の友人だった。

しかし、彼に気付いた瞬間、ぼくの体はガチガチに硬直してしまった。彼はいまの仕事のことや、まだゲームセンターに通っていること、来年には埼玉へ行ってしまうことなどを、気さくに話してくれた。

ぼくは自分の履いているボロボロのスニーカーを見つめるばかりで、気の利いたことはおろか「ひさしぶり」のひと言も発することができなかった。

ぼくのパニック状態を察したのか、彼の話に、母が相槌を打っていた。ふたりはしばし会話をした。

彼は帰り際、「じゃあな」とぼくに言った。

ぼくはほんの少し、たぶん彼が気づかないくらい、ほんの少し、うなずいて見せた。

コンビニを出ると、体中のちからが抜けてしまい、その場にひざまずく格好になってしまった。唯一仲良くしてくれていた友人に対し、ひと言も発することができない不甲斐なさ、申し訳ない気持ち、罪悪感、それから、彼とも会話ができないとなると、赤の他人と仲良くなることなど到底できやしないという絶望感が、一気に膨らんできたのだ。

膨らみ、そして、音を立てて破裂した。

ひざまずき、その場で30分くらい泣き叫んだ。

コンビニの前だからすぐに人だかりができた。歩き去るひとは皆ぼくを横目に見ていただろう。そう思うと、よりいっそう悲しい気持ちになった。感情をまったくもってコントロールすることのできない自分が、惨めだった。

少しずつ落ち着いてきて、立ち上がり、家路に就く。それでも感情の整理がつかず、どっと涙が溢れたり、落ち着いたりを繰り返しながら、なんとか足を動かした。

家に帰ってからも二時間くらい泣きじゃくっていただろうか。両親の前で涙を見せるのは恥ずかしいし、申し訳ないので嫌なのだけど、自分ではどうすることもできなかった。

14日。きょうだ。

「きょうだ」と書いて時計を見ると12時を回っていた。もう「きょう」は「きのう」になってしまった。

母はきょうも実家へ行き、掃除の手伝いや、葬式のことや相続のことなど、むずかしい話をしていたのに違いない。51歳の母は、26歳のぼくよりずっとパワフルで、たくましくて、あの小さな小さな体に、どれだけのエネルギーを持っているのだろうと、羨ましく、ときに悲しく思う。

ぼくはといえば、一日中ぼーっとしていた。大好きな動画を見るでもなく、ゲームをするでもなく、読書をするでもなく、ただぼーっとしていた。

気づけば正午だったし、気づけば真っ暗だった。

涙が出そうで出ない状態が、つづいている。

律儀に最後まで読んでくれた方。ひょっとしたらそんなひとはひとりもいないかもしれないけど、お疲れ様です。ありがとうございました。

ああ。眠い。

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