友人がいなければ、友人は死なない。
母の友人が死んだ。
彼女は母の看護学生時代からの古い友人だった。母とその友人と、もう一人の友人の三人でサイパンへ旅行にいった話なんかは、これまで何度も聞かされた。よほど楽しかったのだろう。
仲良し三人組のひとりが亡くなったのだから、悲しいに決まっている。
それぞれ大人になって、結婚して、子供を産んで――と人生を歩んでいれば、なかなか連絡できず疎遠になってしまうものだ。母とその友人たちも例外ではなく、年賀状のやり取りと、まれに送られてくるメッセージに返事をするくらいの関係に落ち着いていたようだった。
そんなところへ訃報が入ってきたのだから、悲しいに決まっている。
葬儀は家族だけで行われるそうだが、その前に数日、彼女に会える日を設けるとのことだった。母はちょうどシフトの休みの日があったので、その日に最後のお別れをしに行くらしい。
悲しいに決まっている、よなぁ。
なんだか焦っているような、落ち着かないような様子でこれらのことを話した母を見て、私は羨ましいなと思った。
友人がいるから、友人は死ぬのだ。
友人がいるから楽しい思い出ができたように、友人がいるから友人は死ぬ。私には友人がいない。ただの一人もいない。誰の連絡先も知らない。だから同窓会には呼ばれないし、サイパンへ旅行にいくことだってできない。
その代わりに、友人は死なないのだ。
近しい人が亡くなるのは悲しいことなんだろうけど、それもまた人生の醍醐味のひとつのように思える。誰かが死んで、その誰かとの思い出を振り返ったりするのも、ある種の人生の楽しみなのだ。亡くなった人にとってみても、自分との思い出を振り返ってくれる人がいることは幸せなことだろう。
私が死んでも、私との思い出を振り返ってくれる人はいない。
学生時代のクラスメートが死んでも、私は彼(または彼女)との思い出を振り返ることはできない。
友人がいるから、友人は死ぬ。
友人がいなければ、友人は死なない。
たしかに、友人がいなければ、友人は死なないが、そのような環境にある人は、もはや生きているのか死んでいるのかさえ分からないよなぁ。
今、この文章を書き終えてすぐに死んでも、私のことを思い出す人はいない。私が生きていたことなんて誰も知らない。
鏡に反射させて初めて自分の姿が分かるように、周りの人との人間関係においてのみ、自分の生きた証明ができるのかもしれない。そう思うと、底しれない虚しさに襲われた。
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