プロデューサーとしてのKUROMAKU仕事論

自身も含めて、数多のプロデューサーがこの世にはいる。数の分だけそれぞれやり方も姿勢も異なるであろうが、今回はKUROMAKUなりのやり方と姿勢を紹介したい。

ラッパーやシンガーと仕事をする際、KUROMAKUの関わるプロジェクトに於いては基本コンセプトは一切ない。おそらく、「カッコいい」と思える許容範囲がかなり広い(これは音楽を聴く上でのインプット部分がガバガバであるからに過ぎない)のと、理想型が明確でないからこそ生まれる、粗方の予想を裏切られる気持ちよさを感じたいからであろう。よって、基本的に相手の要求を受け入れて、噛み砕き、そのまま要求通りに動くか、より良いアイデアを自分の引き出しから提示するかといった自由度の高い制作を心がけている。

しかし、感覚的な部分での「カッコいい」はかなり理想が高く、細かい点に於いてはとことんめんどくさい気はする。やれこの部分の音程がどうだ、発音がどうだ、全体像をみた時にこのフロウはどうだなど、うるさい。我を通しすぎることは無いにしろ、自分のリスナーとしての感覚を提示するようにはしている。恐らく、自身の制作者としての聞き方と、1リスナーとしての聞き方のバランス感覚が、作品における一定のクオリティを保つ中枢器官なのだろうと推測している。

自身がビートを作る際、「乗れるもんなら乗ってみろ!」と言わんばかりの、ある種ラッパーやシンガーに対して喧嘩腰の姿勢を持つことを大事にしている。これは、相手に対してのプレッシャーを与える為でもあるし、自身に対してのプレッシャーにもなる。こちらは良い試合を用意するから、大いに暴れてくださいと言ったようなもんだ。その為、多少のエゴイズムをKUROMAKUビートには感じるかもしれない。音数も多く、展開の作りこそ単純なものの、少し極端な変化を持たせたりするなどしつこい要素があることは自負している。

しかしエゴイズムのあるKUROMAKUビートにおいてヘンテコなのが、プロデューサータグが無いことである。自身においては、プロデューサータグと言うのはある種一つの免罪符であり、それに頼ることによってオリジナリティが担保される保険のように感じてならない。自分が作ったサウンドでそれを表現したいというのが、ビートを作り始めてからの理想である。

「ものづくりというのは、人に優しくすることである。」とファッションデザイナーの山本耀司も述べたように、対人間に物を作るのであれば、そこに関わる人間全員が気持ち良くならなければいけないと思う。アーティストという、感覚を誇示する立場であるからこそ、様々な立場の人間を受け入れ、許容し、その感覚の範囲を広げた方がいい。プロデューサーとしての仕事における正解はそれぞれ存在するが、今回はKUROMAKUなりのやり方を紹介した。これを良いと思うかどうかも、それぞれに任せたいが。


弟子やったらパンパンやな

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