第1話 脚本
音が鳴った。
エレベーターの到着を知らせる頭上のランプが黄土色に点滅し、それとともに扉が開く。2畳ほどの面積しかないかごには誰も乗っていなかった。それを彼女――SZは確認すると乗り込んだ。
築25年のマンションは外装も内装も陰湿で薄汚れていた。もちろんこのエレベーターも例外ではない。それを物語るかのように数多の住民に押された事で掠れて消えかかっている閉ボタンを押すと、自らが住む3階のボタンを押した。
重い音を立てながら扉が閉まり、かごが上昇を始める。ワイヤーを引っ張るモーター音がシャフト全体を包み込むが、外の喧騒に比べれば遥かにマシであった。自動車の排ガスにアスファルトの照り返し、室外機からの熱風にとどめは蝉の大合唱だ。おまけに遠くを見ようとすれば陽炎で存在する物すべてが揺らいでいる。
音、嗅覚、視覚で疲弊させられるのは毎年の事だが、特にこの数年は度合いが違った。というのも、2年前の大震災による電力不足の影響で、今年も節電キャンペーンが全国的に行われていた。暑さが増す6月頃からテレビのワイドショーでは節電実施の協力を呼びかける論調が増え、電力会社もCMで呼びかけを行う具合であった。
SZは右を向いた。そこには掲示期間が2年前の10月31日迄の印が押された、黄色の下地に薄暗く彩られた白熱球が描かれた節電啓発ポスターが貼られていた。落ちないように四隅に張られたセロハンテープは劣化で茶色く変色し、ポスター自体も色褪せてしまっていた。
しばらく見つめたままのSZだったが、階に到着したことを告げる音が鳴ると、再び前を向いた。自転車が段差に乗り上げた時にも似た小さな揺れとともにかごが止まる。両側の戸袋に扉が納まると左右に伸びる廊下が目の前に現れた。しかしSZはすぐには降りなかった。
一般人なら何の迷いも無く降りるだろうが、今の彼女は他人が居る事を嫌っていた。天井の照明が点いていれば、影で廊下にいる人の存在を確認できたかもしれない。だが肝心の照明はすべて消されていた。こうなっているのもすべて節電のせいであった。影による判断ができないのであれば、あとは音しかなかった。かごの中で息を殺し、廊下を歩く足音の有無に集中する。降りることを催促するかのように、階数ボタンの「3」がせわしなく点滅していた。しかしSZはそのことを気にも留めなかった。
だが、ふと思い返す。1階の共同玄関に設けられた戸別の郵便受けのうち、3階に住居者名が貼られているのは彼女を含め4戸。そして彼女を除く全員が働いていた。左手首につけた腕時計を見やった。針は午前9時半を示していた。今日は平日だ。会社勤めであれば既に出勤している時間だった。
視線を時計から廊下に移すと、SZはようやくエレベーターから降りた。
しかしそれでも警戒を緩める事はなった。エレベーター内に居た時間が多かった為、彼女が降りるとほぼ同時に扉が閉まろうとした。背中で閉まる音を受け止めながら、SZは胸ポケットから自室の鍵を取り出した。
玄関ドアを開けると、そこには共用廊下よりさらに暗い空間が広がっていた。出掛ける前にカーテンを閉めていたため暗いのは当然であった。本来であれば蒸し暑さも一緒に挨拶してくるはずであるが、出迎えたのは冷たい風だった。その答えであろう突き当りの部屋で小さく灯り続ける緑色の明かりをSZは見逃さなかった。エアコンがつけっぱなしのままだった。数分前に見たエレベーターのポスターを彼女は思い出した。あれに描かれたことと真逆のことをしていた。壁に取り付けられた廊下の照明スイッチに伸びていた右手が方向を変え、何もないただの壁をつかんだ。
靴を脱ぎ、洗面台で手を洗い終えるとキッチンに置かれた冷蔵庫へ向かう。棚の中から牛乳パックとシリアル袋を取り出すと、それらを片手に壁際の椅子に座った。一人暮らしは他人に配慮しなくていい分、変化がないことをSZは習慣的に知っていた。その変化を求め、例によって机上に置かれたテレビのリモコンを握ると、電源ボタンを押した。役目を得たテレビが最初に映し出したのはNHKのニュース番組であった。青と白の壁紙を背景にスーツ姿の男性アナウンサーが軽く頭を下げる。左上に表示された時刻を見ると、正午を示していた。
別の局に変えようとチャンネルボタンに指が動きかけた時、男性アナウンサーが原稿を読み始めた。
「下北沢市の路上でスマートフォンや鞄が落ちているのを近所に住む男性が発見し――」
画面を見る。右上に表示されたテロップには「下北沢市大学生3人 帰宅途中に行方不明」と書かれていた。
次いで映像は行方不明となっている男性3人の写真に切り替わった。リモコンを置き、シリアル袋の口を開け、中身を皿へ出す。
「警察によりますと、いずれも学生3人の持ち物で――」
原稿を読み上げる声を後ろに目の前の袋から吐き出される穀物を眺める。
一呼吸置いたくらいで袋からは何も出なくなった。だが中はまだ残っているらしく、現に袋を軽く揺らすと中を転がる音が聞こえた。
「3人とも連絡が取れていないということです――」
漫画などで描かれる山盛りになった白米の如きシリアルの上に、人間の小指が乗っかった。それをシリアルと共にスプーンで掬い、口へ運ぶ。
指を付けたままにすると指紋から身元が割り出される。しかし、指がなくてもDNA鑑定で身元が割れるのは時間の問題であった。こうして処理するのは余り意味のないことを彼女自身、誰よりも承知していた。
皿の横、乱雑に置かれた週刊誌やティッシュ箱とともに、2枚のA4紙に目が移った。1枚は1階の共同玄関郵便受けに入れられていた市役所からのお知らせで、賞味期限間近の災害備蓄食料を戸別に配布するという内容だった。ビスケット袋と保存水が袋に一緒に入れられてされていたが、置いていても場所を取るだけだったため届いたその日うちに食べて処理してしまった。しかし、彼女の関心はもう1枚の紙にあった。下北沢警察署と記されたそれは、市内における防犯パトロールを強化することを伝えていた。
「警察では失踪事件として、捜査しています」
後ろを振り返り、本棚の上にほっぽり置いた彼らの服を見た。身体の処理を済ませても、服の処理はまだだった。
後始末を考えるSZを尻目に、皿に盛ったシリアルの一部が音を立て白濁の海に沈んだ。
翌日、SZが起床したのは午前9時過ぎであった。帽子を被り、身支度を整えるとゴミ袋を持って玄関から共用廊下へ出た。
左手に持ったゴミ袋を一旦床に置き、ポケットから鍵を取り出した。ドアを閉めるためそのまま鍵穴に差し込もうとしたものの、上下逆さまで入らなかった。鍵を握り直して再び差し込むと今度は上手く入った。施錠の音を確認し、置いていたゴミ袋に手を伸ばした時、右から扉の開く音がした。
SZは音がした方向へ顔を動かした。隣の部屋に住む子供が扉を開け、出かけようとしていた。
「あっ」
子供が発したその言葉にSZは固まった。いけないものを見てしまった、そういう風に聞こえた。
この子供の親は、小学校時代に同じ学年だった。警察に通報するとは思えないとしても、親に言ったらどうだろうか。
反射的に床に置いたゴミ袋を子供から見えないように下半身で遮った。だが子供の視線がSZの顔を向いていたことを含め、それまでの考えが全て早とちりあることに気付くのには数秒、時間を要した。
「こんにちは、SZお姉ちゃん」
静寂を破ったのは子供であった。その顔は笑顔に満ち溢れていた。
気づかれていなかった。そうと分かると自然と力が抜けた。そして思わず右手で子供の頭を撫でた。
「あぁ、こんにちは」
その行動とは裏腹に、帽子の下から覗く彼女の目に笑みはなかった。