見出し画像

手塚治虫が亡くなる前年に語った「当事者」としての【昭和漫画史】

手塚治虫(1929-1989)と呉 智英(1946-/くれ・ともふさ)の1988年の対談。手塚氏は翌年(1989年)の2月に亡くなられるので、↓やはり?やつれて見える

対談は、↓の「救急搬送(3月15日)」と「再入院(10月)」の間だと思われる。

《1988年3月15日に、突然腹部の激痛にみまわれ、救急搬送される。検査の結果進行性のスキルス胃癌と判明し半蔵門病院に入院、胃の4分の3を切除する。5月に退院し、以前と全く変わらない多作振りを見せたものの、入院前に比べ次第に身体は痩せ細り、時折休憩を挟まないと描き続けられないほど体力が低下していった。同年10月に再入院。》 ※手塚のWikipediaを引用


ファッション化した漫画

 手塚さんの最初のストーリー漫画ともいえる『新宝島』は、昭和何年ごろに出たんでしたっけ。

手塚 昭和二十二年(※1947年)です。漫画のきちんとした形での単行本では、恐らくこれが戦後で初めてのものでしょう。

 数々の伝説が残ってますが、実際にはどれぐらい売れたんですか。

手塚 四十万部ぐらいだときいています。原稿料も印税ではなく買い取りで、たしか三千円でした。定価は三十円だったかな。

~~

 あのころで四十万部といったら、恐ろしい数字ですよ。しかも貸本屋には流れなかったんでしょう。

手塚 そうなんです。当時の子供漫画は、まともな本屋は勿論、書物の仲間にさえ入れてもらえませんでした。終戦(※昭和20年=1945年)直後の漫画なんて、おもちゃ屋の軒下につるしてあったり、みやげ物屋に平積みで並べられるなど、全く本として扱ってもらえませんでした。卸しで五掛けぐらいでしたから、メンコやスゴロクと変わりありませんよ。本屋やデパートでは絶対に置いてくれなかったんです。貸本屋に流れるようになるのは、昭和三十年(※1955年)ごろになってからです。

 そのころの漫画出版は、全体としてはどういう状況だったんですか。

手塚 東京、大阪の雑誌社を中心に、泡沫出版社も含めて第一次漫画ブームというものが、昭和二十七、八年(※1952、1953年)をピークとしてあったんです。ところが、大量に出回り過ぎたために、無責任な内容のものが増えてしまい、昭和三十年(※1955年)ごろから悪書追放運動が起きたのです。この時に、我々漫画家は自主規制して大人しい内容にしたため、漫画出版がガタッと落ち込みました。ところが、そのスキを狙って、少し読者層の高い漫画をミニコミ誌のような形式(貸本劇画?)で出す出版社が現われた。その一つが大阪の日の丸文庫で、ここの本が、当時の貸本屋の代表格であるネオ書房を通じてブルーカラー(※製造業などの肉体労働従事者)層にものすごく読まれたんです。当時のブルーカラーというのは今とは違って、義務教育しか受けてなく、活字だけの本だとどうもついていけないところがありました。彼らは仕事を終えると、一日の疲れを癒すために貸本屋へ行って漫画を一冊借りて読み翌日に返すという、今でいえばレンタル・ビデオみたいな楽しみ方をしていたんです。彼らに受け入れられたのは、幼稚な子供漫画でもなく、大人が読むような内容でもなく、日活のアクション映画に似たものか、残酷さや暴力を売り物にした講談ネタだったのです。日教組(※日本教職員組合)や保護者団体の目に怯(※おび)えながら大人しくかいていた僕らにとっては、全くの盲点をつかれたわけです。

 そんなに手ひどくやられたんですか。

手塚 それはもう凄まじかった。一頁(※いちページ)のうちにピストルが何丁出てくるとか、何回殴られるとか細かくチェックされたり、この言葉は俗悪過ぎるなど、馬場のぼるさんや、福井英一さんら、当時の人気漫画家はすべてヤリ玉にあげられましたね。僕もあの時は、漫画家なんかやめて医者に戻ろうと思ったぐらいでした。

 その後はどうなりましたか。

手塚 自主規制した漫画より好き勝手にかいた漫画の方が読まれるのは当たり前です。子供たちも親に内緒で貸本屋からそういうミニコミ型の漫画を借りて読み、すぐに貸本屋へ返してしまう。困ったのは親たちです。どうもこっそり子供たちが漫画を読んでいるようだけど、何を読んでいるのか分らないのです。それで、そこまでして子供たちが漫画を読みたいのなら、もう
規制してもしようがないということになり、皆が目をつむってしまいました。昭和三十四年(※1959年)ごろですね。

 ちょうどそのあたりから少年週刊誌が登場してくるんです。

手塚 ええ。漫画雑誌が大型化し、さらに週刊になったということは、このころから活字文化から映像文化に転換し始めたとも考えられます。児童文学誌が次々と廃刊される一方で、テレビが急速に普及し始めました。そして一世を風靡した貸本屋もある時期を過ぎると重なり合うようにつぶれていくんです。

 昭和四十年(※1965年)ごろでしょうか。

手塚 そうですね。面白いことにこのあとに「週刊少年ジャンプ」が創刊され、部数を伸ばしていくんです。テレビにも漫画が盛んに登場(※テレビアニメ化?)するようになり、連動する形で漫画全体が人気を獲得していきます。こうした流れを経て、僕は漫画がファッション化したとみています。それまでの漫画というのはロングセラーのものが多かった。例えば白土三平さんの『忍者武芸帳』や僕の『鉄腕アトム』がそうです。ところがこのころから、初版で大量に売ることが出版社の課題となり、雑誌も単行本も読み捨ての時代になりました。同時に女性漫画家を中心に、時流に乗って一、二点かいてはやめてしまう風潮が出てきて、漫画のファッション化はさらに強まったのです。

 女性漫画家の世界は芸能界と同じだなんていわれましたよね。

手塚 そんな時期ですから、貸本屋におけるようなロングセラーの本も少なくなり、都会では、貸本屋が目に見えて減っていったのです。

漫画が市民権を得るまで

 私が大学に入ったのは昭和四十年(※1965年)ですが、近くの貸本屋にはボロボロになった『忍者武芸帳』がまだありましたよ。あのころで大学生で漫画を読んでいるというのは、少数派でしたね。三年生(※1967年?)になるあたりから急に多数派に転じるんです。

手塚 大学生が読み始めるのは、学生運動(※全共闘⁉)が盛んになるころからでしょう。

 そうです。あのころ貸本屋にあったのはほとんどがエンタテインメントで、大学生が読んでも楽しめるのは、白土三平、水木しげる、平田弘史ぐらいでした。

手塚 劇画というスタイルが出てくるのも、たしか大学紛争のあたりからです。その後に来たのが谷岡ヤスジに始まるハチャメチャ漫画時代。この時もひどい作家がずい分いましたね。今(※昭和63年=1988年)でも十分読むに堪えられるのは、谷岡ヤスジ、山上たつひこ、永井豪の三人だけですね。僕は、現代社会をきっちりと把握している漫画はハチャメチャものに尽きると思っています。管理社会のやり切れなさみたいなものが実によく出ていて、日本人の心情にマッチしているのです。劇画ブームをつくった『男一匹ガキ大将』(※本宮ひろ志)や『巨人の星』(※原作:梶原一騎/作画:川崎のぼる)はたしかに面白いけれど、どんどん時代から遠ざかっているような気がします。

 昭和四十一、二年(※1966、1967年)ごろから新書判の漫画がたくさん出版されましたね。あのあたりから本棚に漫画を置いてもおかしくない時代になってきたと思うんですが。

手塚 要するに、戦後漫画の洗礼を受けた小学一、二年の子が成長して、あのころには自分の小遣いで自由に漫画が買えるようになったからですよ。

 その通り。私自身がまさにそうでした。大学生になって、親に干渉されずに小遣いが使えるようになったから、本棚にも並べられたんです。

手塚 それと、あのころから漫画擁護論者が増えてきたのも、理由の一つに入るかもしれません。それまで教育的、社会的見地でしか論じられなかった漫画論が、劇画世代の大学生からも登場してくるのです。「漫画主義」の連中を中心に、非常に学生っぽい理屈で主義主張をしていました。

 晦渋(かいじゅう)な内容が多かったですね。

手塚 何というか、かいてる僕らが考えもしないようなすごい深読みをするんです(笑)。そんな深読みができるような作品をかける漫画家はまだ日本にはいないですよ。有名なつげ義春さんの『ねじ式』に出てくる「メメクラゲ」にしてもそうでしょ。

 「××クラゲ」の誤植にすぎないのに(笑)、解釈だけがどんどん先走りしました。

手塚 かき手からすれば、おかしくてしようがないんだけれど、そういう人たちが出てきたから、漫画評論がジャンルとして確立したのだし、ジャーナリズムも擁護してくれたと思うのです。こうして漫画が市民権を得て、子供たちも堂々と本棚に漫画を並べられるようになりました。

~~~以下続く

」は「省略」の意味。「」は引用者による加筆


「漫画の神様」が語っているから「客観的で間違いのない漫画史」とは限らないので、私は気付かないが、手塚氏なりのバイアス(誤認識)があるかも。


劇画(昭和32年=1957年から使用?)」は映画だとノワール」だと思う。


掲載された『』(新潮社)1988年8月号の書影と目次。定価70円の小冊子。

https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/c1115530284
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/c1115530284


ヘッダー画像(アイキャッチと呼ぶ?らしい)は↓公式サイトから借りました


関連投稿


#手塚治虫 #呉智英 #漫画史 #漫画論 #昭和の漫画 #対談 #新潮社 #黒手塚 #手塚ノワール




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?