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映画評論家・南 俊子によるアメリカ映画『ナタリーの朝』(69)評
◆『ナタリーの朝』(1969/米/Me, Natalie) 1970年日本公開 ■未DVD化■
↓VHSビデオの後ろ側のジャケ写に掲載の作品解説
_女の子にとって美人に生まれつかなかった事って悲劇だろうか?そう、正にナタリーの悩みはそれ!しかし、ナタリーは激動の60年代の中で、恋をし、愛に生きた。そして人の美しさは内面的な輝きであることを悟り、自立した女性として新しい人生へと出発(たびだつ)…。_グリニッヂ・ビレッジの住人たち、ミニ・スカートにサイケデリックが流行(はや)った60年代文化と、新しい価値観に移行していた時代が実に興味深く描かれている秀作。_ナタリーを演じるのは『奇跡の人』で当時アカデミー最年少助演女優賞を獲得したパティ・デューク。他に、まだ無名のアル・パチーノ、デボラ・ウインタース、ボブ・バラバンと有名スターが端役で出演している。
最近も【 #カワイイに正解なんてない 】というキャンペーンが物議を醸した!?
新鮮な眼でとらえた美しい青春像 南 俊子
_最近とくにアメリカ映画は、大きく変貌して、急激におもしろさを増してきた。いわゆる作りものの“お話”ではない、生活の実感に根ざし、日常生活の中に“真実”をさぐる、アップ・ツー・デートな作品で、私たちの共感を呼ぶ。これも、そうしたひとつだ。_まずいいのは、主人公のナタリーを決して“特別な女の子”として描いてはいないことだ。なるほどナタリーは、美しく生まれついてはいない。むかしのアメリカ映画なら、そういうヒロインが整形手術をして、とたんに輝く美人に生まれかわって、だがおかげで数奇な運命をたどる――といったメロドラマに仕上げていただろう。_ところが、このナタリーを演じるパティ・デュークは、はじめから終りまでメーク・アップを変えない。変えないで、彼女の環境と心の持ちかたで、いつか生き生きと魅力的になっていく。_女の子なら、だれだって美しくありたい、と願う。願えばこそ劣等感にとりつかれる。たとえばバルドーだって、オードリイだって、ソフィア・ローレンだって、少女時代はそうしたコンプレックスのカタマリだった、という。もしかしたら、あのリズ・テイラーだって、自分の容貌に満足はしていなかったかもしれない。つまり感じやすくて、誇り高くて、自己愛が強くて、自意識過剰な女の子ほど、美しさにあこがれる。_もし女の子で、ついぞ劣等感というものを知らずにきたひとがいるなら、それはたいへん幸福なひとか、さもなければ鈍感なおかただ。だから私たちは、ナタリーの悩みを笑うことはできない。ナタリーは、だれの中にも住んでいる。彼女は決して“特別な”娘ではないのである。_それにしても“美”とは、いったいなんだろう。ハロルド叔父さんが「美は虚像にすぎない」と、やさしくさとすくだりが印象的だ。人間は外観より中身だ、というわけだけれど、その外観にせよ“美”の概念は時代とともに移り変る。むかしの美女が、必ずしも現代の美人ではない。その意味でも、美ははかない幻影であり、錯覚にすぎないのだろう。_そして、いまや個性尊重の時代だ。ナタリーという個性的な女の子が、芸術と青春と自由と反逆の町グリニッチ・ビレッジにとびこんで、はじめてのびのびと個性を発揮していく姿も、微笑ましく描かれている。_足首に犬の首輪をはめ、ヨガに熱中し、ホンダをとばし、トップレス・クラブでゴム風船みたいなブラをつけてウロウロするナタリーは、まことに愛すべき当世ふうの女の子だ。新聞で金持男の死亡広告をみつけて、しおらしい喪服姿で葬式に乗りこみ、遺族から手切金をせしめる茶目っ気、芝居っ気もおかしい。_ワイルド・パーティで前後不覚に酔っぱらい、一夜あけてデビッドのベッドでめざめてびっくり、処女喪失かとさめざめと泣き、実は一指も触れられなかったと聞いて、こんどは怒りだす――という娘ごころの機微もユーモラスにとらえている。_かつてニキビ青年のモリスをからかったように、いっぱしの非行少女気どりの虚勢を、デビッドに軽く見破られて、二人の心がぐっと接近するあたりも、ほのぼのとしていい。_劣等感と自尊心とは、つまり裏表だ。この映画が、多感な年ごろの娘の、ときにデスペレート(※自暴自棄、やけくそ)な心情にもふれながら、終始、明るさにあふれているのは、つねに純粋なまでの自尊心がナタリーを支えているからだろう。_たぶんユダヤ系と思われる、平凡だが愛と良識にみちた、彼女の両親の家庭描写もうまい。ナタリーが恋の痛手を受けながら、その痛みが傷痕とならず、歓びの思い出と成長のかてとなるのも、この両親のおかげかもしれない。_ナタリーは、どこにでもいるふつうの女の子だけれど、自分を発見し、自己をみつめ、“私はナタリー”だ、と堂々といいきれる女の子は、混沌の現代にはすくないかもしれない。新鮮な、楽しい青春映画である。 (映画評論家)
↑でも言及されている「ハロルド叔父さん」、こいつがとんでもない食わせ者で、容姿に自信が無くて悩む姪のナタリーに対して『人間は外見じゃないよ』みたいなキレイゴトを語る「賢者」のような役として登場するが、その後で、長年連れ添った妻と死別?した後に「美人でセクシー」なストリッパーと再婚していたことがバレる。ナタリーは『言うてることと、やってることが、全然ちゃうやんけ!』とキレたりはしないけど、大きなショックを受ける愉快な?場面が中盤にある。「真面目」だがシリアスな映画ではない。
私は【1970年前後のアメリカを舞台にしたボンクラ主人公の成長物語】として、本作と、コッポラ監督の『大人になれば…』(1966/米)が共に好きだ。
ダスティン・ホフマン主演の『卒業』(1967/米)、時代背景は「1962年」の『アメリカン・グラフィティ』(1973/米)、ラスト以外は「ノンポリ学生の学園紛争ごっこ」な『いちご白書』(1970/米)も、この系統に入るだろう。
『ラスト・ショー』(1971/米)は悪くはないけど、ちとマジメ過ぎるかな。
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https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/b459871057
米国の映画評論家ロジャー・イーバート(1942-2013)の『ナタリーの朝』評
「メイク・アップ」と「特殊効果」はディック・スミスが担当しています。
Makeup Department
William A. Farley ... hair stylist (as Bill Farley)
Dick Smith ... makeup artist
Special Effects by
Dick Smith ... special effects
映画のチラシの裏側に掲載。おそらく劇場公開時の「1970年=昭和45年」。
![](https://assets.st-note.com/img/1728021117-X9se3WIzSHCTYkNA42xwKtb0.png)
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