13夜の話
タイトル 夢を売る男
朝、ピアノの蓋に薄っすらと埃が積もっているのに気づいたのはピアニストになる訓練に耐えられなくなり放棄した2週間後のことだった。
背後で電話がなる。恋人からで三十才の誕生日のお祝いをねだられた。彼女とは婚約を考えていたが、売れない音楽家には金がなく金策にはいつも手を焼いている。
「ねえ、町外れの洋館に変な人がいるの」彼女は電話の向こうで楽しそうに言った。
「あの豪邸の主は見たことがないな」
「珍しいものなら、なんでも買い取ってくれるのよ」
「……へえ」
机を挟んで正面に座った女の瞼は極彩色の大きな蝶のようで、甘ったるい言葉を囁く声はオーボエのように低く、上下する喉仏からどうやら彼女は女装癖のある男性であることが分かった。秘書にこんな男を雇うなんて、この屋敷の主は少し変に違いない。
秘書は帳簿に書かれた名前を読み上げている。じきに僕の名前が呼ばれた。秘書は僕にMr.ドリームがお待ちですよといって、主の眠っている真っ暗な部屋に案内し、背後の扉を静かに閉めてしまう。僕は暗闇にヒカリゴケのように浮かび上がるMr.ドリームの頭を見た。
「いい品物をもってきたんだろうねえ」
Mr.ドリームはかすれた声でいう。
「僕はピアノを弾きます。あなたは屋敷から出たことがないから、知らないでしょうが、僕の演奏は町でもちょっとした評判ですよ。でも始めたのが少しばかり遅かったので、演奏家になる夢を売りに来たんです」
彼は満足そうな笑みを浮かべる。真ん丸な顔の中の小さなくちは食肉植物な歯を思わせる。Mr.ドリーム葉ベッドのうえでピアノを弾く指の動きを真似て、「そこまで上達するのにどれだけの訓練を積んだのかな?」と訊ねた。
「8年間毎日、広告代理店の事務の仕事が終わると、ピアノを5時間弾きました。あのう、僕の夢は売れるでしょうか?」僕は言った。
「いいとも、いいとも。ここに来るということは大金が必要なことだろうし、君の夢を買い取らせてもらうよ」
Mr.ドリームが僕をベッドに招き入れる。僕は考える力を失い彼のされるがままにされる。夢のなかで十本の指から魂が抜けていくかのような感覚を味わう。よく動く自慢の指が緑色のイモムシに変わる……。
日が暮れはじめていた。目が覚めたとき、僕はアタッシュケースを持って公園のベンチに座っていた。あの不気味な光景はなんだったのだろう。アタッシュケースを開けると、札束がぎっしり敷き詰められていた。これで結婚式をあげられるぞ。でも、僕はビアノの腕を売ったのだ。もう2度とピアノを弾くことはなくなった。
そのことを話すと彼女は顔をくしゃくしゃにして泣いた。なんて馬鹿なことをしたの、私はあなたのビアノが好きだったのよ?
「僕だって売りたくて売ったわけじゃない」
「あなたが私の誕生日に引いてくれた、カノンをもう1度聞かせてよ」
「それは無理だよ」
「Mr.ドリームに謝ってお金を返せばビアノの腕を返してもらえるんじゃないかしら」といった。
僕は彼女が演奏のプレゼントを覚えていたことに驚き、Mr.ドリームと話をしてみようと言った。
2人は手を繋いで町のメインストリートを歩き、館の呼び鈴を押した。ジーという音が聞こえて向こうから見られてることがわかると、「僕の腕を返してください、ピアニストの夢を叶えたいんです」と交渉した。
ややあって男の声がした。
「それはできません。いちど売ったものは契約書に基づいて返却することはいたしません」
お金は返すし、謝っているだからそれなりの対応をしてほしいと彼女が言うと、
「夢はMr.ドリームがお使いになられたのですから、この世には存在いたしません。何しろ彼は夢を食べて生きながらえるのです」
からかっているのか?そんな馬鹿な話があるか、と大声でドアを叩いていると中から秘書が顔を出した。
「警察を呼びますよ、説明は以上です。これ以降は裁判で解決するしかありませんね」
秘書は女装をしていなかった。瞼に塗っていた虹色も見る影もない。黄色く濁った目が2人を睨みつけている。
「さあ、てめえら出ていけ!」
教会のほうからカノンが聴こえてくる。僕は彼女に謝ってもう二度とビアノを演奏できないことを受け容れようとしていた。すると、これからの生き方がわからなくなる気がした。僕はまだ夢を諦めてなどいなかったのだ。
彼女は僕の手をとった。
「大丈夫。ビアノはまた練習すれば弾けるようになるわ。あなたには十本の指がついているから」
それからは部屋からピアノの音が途切れることがなくなった。
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