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分析はやめました
大学卒業して早1年近く、過去記事に続く近況というか最近の頭の中の概要をサラリと綴っておく
いろんな枠組みを使って「分析」することは大事なことである
自分の素朴な視点とは異なる視点から、「この現象はなぜ起きているのか」「なぜ自分(又はアイツ)はこう思う/感じるのか」「自分(又はアイツ)は何者なのか」などと言った疑問への回答を与えてくれるからこそ、心理的に安心できたり、そこを足がかりに「じゃあ、どうするか」と考えることができたりする
ただ、「分析」とは言葉より前にある未決定なものを、形が似ていてハマりそうな型に押し込めることでもある
それに、「分析」はたしかに「現在と過去」について何か教えてくれるかもしれないけれど、「分析」そのものは「これから」については何も教えてはくれない
「分析」が与えてくれる方法論に固執したり、「分析」をもとに自分や誰かのことを決めてかかったり、いろんな視点から「分析」ばかり繰り返していたり、「分析」を通さないと何かをできないというのは、堅実なようであまり意味のないことであると思う
なぜなら「分析」をベースに生きることは、下手したら問題解決に向かっているようで同じ場所で空転する上、「偶然の出会い」や「思わぬ解決」のような素敵なハプニングを遠ざけるからである
「分析」はほどほどに、大小問わず自分が振ったことのないサイコロをどんどん振っていく方が余程意味のあることだろうと思うし、どんなに権威があり専門性に基づいたものであっても、言葉なんてものはそんなに重要じゃないしアテにはならないと思う
なんらかの問題を「頭では理解している」のではなく、はっきりと認めて深い納得のもと理解できるのは、最早ある問題から抜け出している状況においてのことだというのはしばしば
「言葉によって理解する」というのはすごく限定的な知識の方法で、「理解のあとに言葉がついてくる」という方が本質的な知識であろうと思う
体験を欠いた理解は論理パズルに過ぎないと思う
それに「言葉より前のもの」は言葉で表現しなければならないわけではないし、他人に伝えないといけないものでもない
みんな言葉をアテにしすぎているし、言葉なんてぞんざいに扱えば良いし、自分の理解の仕方はテキトーでいいのである
足元を知識によって固めていくことと、偶然を呼び込むことはせめて半々くらいにしないといけない
3 : 7くらいでもいいと思う
自分で書いててよくわからない内容になっちゃったけれど、身体(自己)は思考(言葉)に先立つはずが、なにか逆転現象が起きているようでならない、自分も当たり前のようにそれに巻き込まれているということでした
あと「やってみる」ことなしに「知る」ことはできません そこはスキップできません