見出し画像

【オーストラリアワーホリ】2カ月で帰国するゾ

ワーホリと聞いて、皆さんいろいろな意見をお持ちかと思います。
初めに、僕はオーストラリアへのワーホリに関しては肯定的であり、国自体もとてもいい国だと思っています。
しかしながら、なぜ僕がそんな国を2カ月で去ることにしたのかを綴っていこうと思います。

まずはざっくりと経歴を述べさせていただきます。
年齢:26歳
性別:男
学歴:高専機械工学科卒業後、某国立大学工学部デザインコース卒業
職歴:バイク用品メーカーにて商品企画を2年半ほど経験
スキル:Adobe(Ps, Ai, Pr, Ae), 3Dモデリング(Rhinoceros, Blender), IELTS 5.0, TOEIC640

【計画編】

語学面においては、仕事では常に中国もしくはパキスタンの提携工場との折衝を英語でおこない、出張も2度ほどさせてもらっていたので英語に対する苦手意識のようなものは特にないと感じていました。
デザイナーとしてのスキルも実務的なものとなってきたことも併せて、漠然と海外で働けるのではという根拠のない自信が自分の中で芽生えていました。
それこそ海外で名をはせているバイク用品メーカーなんかに転職ができないか、などとも考えるようになっていました。
しかしながら、自分の英語力を客観的評価できていないことに気付いた僕は2024年5月、IELTSの試験を受けてみることにしました。
約23000円の、決して安くはない試験費用を頭にちらつかせながら、それでもあまり本腰を入れられない中で試験勉強のようななにかを不定期におこなっていました。
そして試験を受けてみると以下の結果に。

Listening:4.5
Speaking:5.0
Reading:5.0
Writing:5.5
Overall:5.0

Writingがちょっと高かったのは決まり文句を重ねた英語のビジネスメールを何度も書いていたからなのだろうか、などと思ったりしました。
とはいえ決して高くないスコアに自分の英語スキルに対する疑念が生まれてしまい、いきなしの海外転職は厳しいのだろうな、と怖気づくこととなりました。
そこでオーストラリアワーホリという選択肢を目論み始めました。

そこで描いたキャリアプランは
退職

オーストラリアワーホリで接客業を通し英語力を向上+貯金(一年)

ドイツワーホリでドイツ語を学ぶ+大学院選び(一年)

どこかの大学院でデザインエンジニアリングを専攻

ドイツ周辺のデザイン会社、もしくはインハウスデザイナーとしてメーカーに就職
まあたいそうなビッグドリームかと思います。見栄えがいい。
再現性というところに目をつむれば完ぺきといえるキャリアだと今でも思います(僕目線)

【退職編】

まずはファーストステップ、退職です。
ここは簡単ですね。8月の末に辞表をプリントアウト、即提出。
9月末をもって退職させていただきました。いろいろあったけど楽しいチームだったなと思い、グループLINEにて感謝を伝える長文メッセージを送ってちゃんとフィナーレできました。

【メルボルン編】

最初に住んだ都市はメルボルンです。
理由としては、前職の顧客が店舗を構えていたのがメルボルンだったからです。オーストラリア全土でみても最大のツテともいえるのが、このかすかなつながりでした。
ホステルで一週間ほど滞在した後、CBDより南東方向に20kmほど離れたシェアハウスに入居。ここまでは順調かと思っていました。
フラットメイトはみんないい子たちでした。韓国人、インド人、イラン人、イングランド人のラインナップでした。

仕事探し

当初はオートバイの用品店でのセールススタッフとして働こうと考えていました。もちろん用品に対する知識には自信がありましたし、タイでお遊びでバイク用品店で接客したこともあったのでいけるかなー、とたかを括っていました。
まず、先述した唯一のツテである用品店に行きました。
スコットランド出身のスタッフにレジュメを渡し、軽く雑談をしていましたが、残念ながら仕事につながる話は得られずにその場を後にします。
次に現地のバイク用品店に行ったのですが、そこでオーストラリアの現実を目の当たりにします。
あたりまえですが店員全員純オージー。トークのスピードに愕然とします。ほんとに何言ってんのかさっぱりわからない。
あろうことかレジュメすら渡せませんでした。別にお店が忙しいとか店員さんがぶっきらぼうとかそういうわけじゃないんです。ただただビビってしまい、渡せませんでした。そこでも押してやっていくだけのパッションは、待ち受ける敗北の存在の前には塵同然のようなものとなってしまいました。

そこで当初の計画が頓挫することとなりました。
ここで方針転換として業種を変更してみることにしました。
選択肢は以下の通り。
・ジャパレス
・倉庫
・イタリアンレストラン

ジャパレス
一件ほどレジュメ配り、トライアルに行きました。
Googleのレビューには日本人オーナーとの記載がありましたが、喋りを聞いていると韓国人のような日本語を喋っていました。
トライアルは無給と言われ、その時点でまともな場所ではないと察し、まあ人生経験として行ってみるか、と思いトライアル1時間をこなしました。
なんとしょっぱなWash your handを聞き取れず、キレられました。これはシンプルに誤解が生じていました。なんせ食洗器無いから手で皿洗えって言われてるのかと思っちゃいましたよ。
その後も不機嫌なオーナー。結果はもちろん不合格。

倉庫
Seekを中心に30社ほどアプライ。
経験なんてもちろんないです。当然一社からも返事は帰ってこなかったです。

イタリアンレストラン
16歳の頃から20歳までは日本のイタリアンレストランでバイトしてたので、これは活かせるかと思いました。思っただけです。アプライも何もしてません。なんせ住んでいた場所はAlmost Asian City でイタリアンレストランなんてないです。 シティまでいけばかなり選択肢はありますが億劫でした。

アプライしている間にRSAの資格を取りました。(下記リンク)
オンラインでできるやつなのですがなんとVIC stateは何か追加の手続きが必要とのこと。めんどくさいのでそっから先はやってないです。
心配な人はオフラインで受ければいいんじゃないかと思います。まあみんな取ってると思うのでそちらを参考にすりゃ大丈夫です。

Seekを見ている限りやはり倉庫のポジションは豊富にあるので、そこでフォークリフトの資格を取ろうと決めました。
なるだけ最短で取得したかったので、ネットでもトップのほうに出てくる、"Start training"というところでフォークリフトの資格取得の申し込みをしました。(下記リンク)
フォークリフトにも2種類あるらしいです。

LF Forklift
オペレーターは地上にステイ、フォーク部分が上下に動き、
パレットを移動させることができるやつ。
LO Forklift
オペレーターはフォーク部分とともに上下に動き、高所での作業ができるやつ。

僕は両方の資格を取ろうと思い、総額950AUDを振り込みました。
そしてフォークリフトの勉強をいざ始めようとしたとき、whatsappで見知らぬ番号から電話がかかってきます。

ブリスベンのバイク用品ブランドから電話

電話の主はまさかの用品ブランドからでした。(以下D社とする)
D社のマネージャーという彼はゆっくりと、わかりやすくかみ砕いた話し方でした。
「君の履歴書を拝見させてもらった。君は以前AMX superstoreという会社に応募したよね?そこはうちの姉妹会社にあたるんだけど、君の経歴を加味した結果うちで働いてみるほうがいいかと思って電話したんだ。パッケージデザインなどを担当してもらいたいと思ってる。今うちはかなり忙しいから人手が必要なんだ。
もし興味があればブリスベンまで来てほしい。」
みたいな内容(自分の理解できる範囲)でした。
正直かなり震えるほどうれしかったです。ようやくオーストラリアでまともな職にありつける!と。
すぐに家主に2週間後退去する旨を伝え、先ほど支払ったフォークリフトライセンスの払い戻しを要求しました。(後日ちゃんと戻ってきました。感謝!)

しかしながら、このD社のような案件はそうそう降ってくるものではないと思いました。なぜならオーストラリアでは商品企画のような職種は少なく、日本ほどの選択肢は無いからです。決してオーストラリア全土で一つしかないわけではありませんが、面接の度に飛び回るのは金銭的にも厳しいところがあります。
それに加え自分の英語力に対する自信の喪失具合はすさまじく、これ以上英語で就職活動したくない、と思ったからです。
ただでさえ経験が採用の基準としてもっとも強い要因となるオーストラリアで、前職とほぼ同じことができる職種での面接に落ちたら、もうオーストラリアでの勝機は見込めないなと当時は考えてしまうほどに追い詰められていました。
また、担当が当時海外出張中とのことで面接は11月の半ば頃行うとのことでした。当時からするとほぼ一カ月後です。
喜びとそこから生まれた苦悩に苛まれた僕はなぜか日本での転職活動を開始します。

Doda

変えるなら、きっと今だ。
キャッチコピーであるこの文字通り変わるしかない現状を打破するべくDodaで転職活動を始めました。
短い間に培ったアプライ連射作戦を存分に発揮し15社ほど大手企業のデザイナー職に応募しました。
ここで放たれた履歴書および職務経歴書たちが先方の厳しいチェックによりばったばったと成仏していきました。
そんな中、某スポーツ用品大手メーカーのデザイナー職の書類選考が通過し、面接の案内が来ましたが、その直後採用担当の方から悲しいニュースが入りました。
「ご丁寧にご返信いただいた中で大変恐縮なのですが、xxx様の滞在状況の場合には当サービスにて企業様へのご紹介が不可になります。※職安法の観点より
そのため、当サービスでの転職をご希望の場合には日本の就労復帰後にご応募をいただきたく存じます。
〇〇〇株式会社様についても企業様へご事情を説明の上でご辞退とさせていただければと思いますがご了承いただけますでしょうか。」

この時、D社の面接すら受けずにとっとと帰国しようかと本気で思いました。
しかし、さすがにこんな機会はまたとないかと思い、ブリスベンへと旅立つ決意を固めました。

メルボルンのバリスタの子たちと旅行

韓国人フラットメート(以下J)から急にインスタでメッセージが。何やらバリスタコミュニティの複数人でレンタカー借りてGreat Ocean Roadをドライブしようや、とのことでした。
見ず知らずのやつらと旅行しなければならないめんどくささと、せっかくお誘いもらっているから行かなきゃ失礼だという気持ちで揺れていましたが、5秒後には「行く!!」と返事していました。

結果的にめっちゃ楽しかった。ワーホリ中唯一のちゃんとした旅行。

そんなこんなでメルボルン編終了です。一カ月の滞在でした。

【ブリスベン編】

メルボルンにいたときはずっと鼻水垂れてました。思ったより寒かったです。10月のメルボルン。
さてやってきたブリスベン。まずあったかい。凍えずに眠れる幸せをかみしめていました。
ホステルには3泊ほど滞在。D社の近辺で無事家も見つかりかなりスムーズに入居をスタートできました。
ブリスベンでも郊外のほうなので、正直歩きで行ける範囲に娯楽施設のようなものはありません。車が前提の立地なので駅もめっちゃ遠いです。シティまではバスで行きますが本数がめちゃめちゃ少なく、節約生活にはスーパーマーケットWoolworthsだけで十分でした。
今度の家のフラットメートは全員南米の方々でした。コロンビア、チリ、ペルー。
正直就活以外は飯食って寝るだけの生活です。特に書くことはありませんがVPNを契約したのでU-NEXTでめっちゃ日本の映画見れるのは幸せでした。

日本就活は順調に進む

自分で言うのもなんですが、勤務年数の割にはそれなりに日本では頑張って成果を上げてこれたほうかと思っています。中小企業ならではのスピード感のある成果物たちでそれなりに見栄えのするポートフォリオの内容を埋めることができたのは大きかったです。
ただ、やはり書類選考を通過できたのは2社/18社ほど。前職の業務内容からはどこも遠かったので仕方ない結果であったと思います。
しかしデザイナーはポートフォリオを使って選考を申し込むので、書類さえパスできればかなり選考通過率は高いように感じます。
おかげさまで応募したうちの一社の選考はうまいこと進みました。

ここで疑問となることが、以前海外在住者ということで自動的に辞退されてしまった案件のことです。
Dodaはサービスの特性上、一つ一つの案件で異なる担当がつくようです。つまり頭ごなしに海外在住者の転職アシストはしないと考える人もいればそうでない人もいるということです。
今回話が進んだ案件に関しては、途中でPersolのオーストラリア法人の方がアシストに入る形で無事に選考が進みました。
もし同様の形で日本の転職活動ができないという方は一度現地法人の紹介を打診することをお勧めします。

ブリスベンの会社、連絡つかず

なんとなく嫌な予感はしていました。
面接の予定日が近づく中、フォローのメッセージが何もない。
さすがに何度もメッセージを送ると印象悪いだろうと思い、前日の昼に送ることにしました。

面接予定日前日、相変わらず連絡はありません。
ここでついに日程確認のメールを送りました。
日本の常識にはなってしまいますが、
・やはりやるならやるでいつやるか
・やらないのであれば延期の日程の提示
・だめならだめでその旨の連絡
いずれかを伝えることはマナーであり、無言で済ますことはありません。

ですがわかっています。ここはオーストラリア。郷に入っては郷に従え。
ですが追いメールを送る気にもなれませんでした。

帰国決意

日本での転職活動も最終フェーズに入ってきたところで、ここが決断のタイミングだと思いました。
D社にもうんざりしてしまった自分にはもう選択肢は二つだけでした。

  • 入社時期を遅らせてもう少しオーストラリアで仕事探し

  • 可能な限り早めに帰国、日本でのキャリア復帰

ワーホリに来たのだから可能な限り英語環境に身を置く必要があると、頭ではわかっていますが、気持ちとしてそこにかける気合いは既にありませんでした。

日本の会社との最終面接の前日、僕は帰国便の航空券を取りました。

日本企業最終面接、合格

二次面接が最終面接でした。
やはり自分の経歴を活かせるのは日本なんだな、と安心することができました。学歴はいい意味でも悪い意味でも人に自分を認識させる上ではわかりやすい肩書だなと思います。
面接終了後まもなく合格ですとの連絡をいただきました。
1カ月半ほどのキャリア迷走期間が終了したと、今はただ安堵しています。

【2カ月ワーホリ総括】

この一カ月半の間、そこそこワーホリ、もしくは留学生と会い、気付いたことがいくつかあります。
ワーホリに向いている人、向いていない人という文言をよく見ます。
大体が性格に関する話です。(参照:以下リンク)

しかしながら僕が感じたものは少し違うと思っています。
向ている・向いていないはキャリアの面でも言えるかと思います。

オーストラリアワーホリビザでは同じ場所で6カ月以上働いてはいけないというルールが基本的にはあります。(地域や職種によっては例外もあり)
自分が日本で担っていた商品企画のような役割をやろうとすると半年という在籍期間はあまりに短いものと思います。

雇い主側の気持ちになって、ビザの条件が雇うことに対して不利に働くか働かないかが、キャリアの面でワーホリに向いているか向いていないかともいえるかなと思いました。

もちろんキャリアダウンさせてもいいとの覚悟は決めてきましたが、そのキャリアダウンという認識が間違っていたのだと今は思います。
当初モノづくりの下流に位置する販売接客は上流で企画を行っていた自分にもできるものと思っていました。もしかしたら日本ではこれでも通じるかもしれませんが。
実際にはモノの流通経路において、レイヤー内での横移動となる転職は可能ですが、レイヤー越しでの転職は本当に厳しいなと実感できました。

とはいえシンプルに忍耐力も英語力も足りないからこういった形になってしまった、ということもあるとは思います。
ただ今は、日本に戻り自分は自分が果たすべき仕事をするべきだという気持ちです。

長くなりましたが、他人の言うことに耳を傾けていたら多分金銭的にも時間的にも損失は無かったと思います。後悔もなかったと思います。
僕はこのワーホリにあたり車もオートバイも、大量の工具やモノを手放しました。その売り上げ金はオーストラリアのアホみたいな物価高の渦中に吸い込まれていきました。
今は後悔が無いなんて口が裂けても言えませんが、同時に世の中の厳しさを肌身で感じれたことはいい経験になりました。

最後ですが、こんな記事に共感してるやつがもしいたらワーホリ向いてないからやめときましょう。就労ビザ取ったほうがいいです。
それでは。

六四


いいなと思ったら応援しよう!