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『生きづらさ』とはなんぞや

「相当の生きづらさ抱えてますからね、私!」
 まだ若い彼女はそう言ったが、その声は溌剌としていて、まるでそれが彼女のアイデンティティであり誇り高き某かのように聞こえた。その子はことあるごとに、「普通じゃない私」といった表現や、「逸脱した者として」といった枕詞を多用した。

 普通ってなんだろう。
『生きづらさ』って誰が定義するんだろう。

 たとえば俺が、つまり私が、自分の抱える精神疾患について記事を書いた時、ひとりの読者が、まるで張り合うかのようにこう発言したことがあった。

「この人は手帳持ってるの? 何級? 私は二級だけど」

 正直に白状すると、少々呆れてしまった。
 この時点で私は障害者手帳を所持しておらず、その後メインの問題である解離性障害では手帳が取れないことが分かり、併発している鬱病で精神障害者手帳を入手した。階級は三だ。

 上記発言をした方は、この結果を聞けば勝った気になるのだろうか。政府が定めた『生きづらさ判定』で、私は数字上、そして書類上、彼女より「軽度」ということになったわけだし。

 くだらねぇ。

『生きづらさ』は、俺が知る限り、「邪魔なもの」だという認識だった。もし俺に『生きづらさ』呼べるものがあるとすればそれは精神疾患を筆頭に身体的な細々した疾患を指すと思っていた。

 事実、俺は、つまり私は、『生きづらい』と感じている。今、この瞬間も。

 だが俺はそこにアイデンティファイしないし、自慢げに『生きづらさ』エピソードを吹聴したり、それでマウントを取ったりはしない。多分。
 まあ、病歴は長いと思う。自傷行為を辞めてから10年以上絶つ今でも左腕に傷跡があるからうっかりフォーマルな場所に半袖では行けない。それくらいの弊害だ。

 もう少し正確に言うのなら、ネタ的に病歴を話して笑い飛ばしたり、薬の調整が上手く行かずパーソナリティが歪められるような感覚がある時は外に出ないようにしている。

 私は自分が精神障害者であるという事実を隠さないし、「解離性健忘」という症状については、誰と話す時でも最初に伝えておく。そうしないと何でも忘れてしまうからだ。そして忘れるということは時に失礼にあたるからだ。つまりこれは処世術であり、マナーでもある。

 それでも私も人の子なので、冒頭で言及した子やその他大勢の同類人種について、時には怒りを覚えることもないわけではない。
 でもそれを『ディス』という形で発露させても面白くない(もうなってるか?)。
 ただ、

「なんで彼女はそう思うの?」
「なんでこの人は手帳の階級を気にするの?」
「なんで普通から逸脱することがかっこいいの?」

 と、純粋に疑問に思うのだ。

 20年以上になる病歴の中で、今ほど「普通になりたい」と切実に希求したことはない。
 もし私が「普通」(いわゆる普通)であれば、ちゃんと働いて収入を得られただろう。そうすればこの年になってまで親やら国やらのすねかじりにならずに済んだだろう。

 私は自分の『生きづらさ』とやらを憎悪している。

 が、どうやら世の中には自らの『生きづらさ』を自慢の種にする人も存在するようだ。


……というわけで、また何かしら投稿するかもしれない。
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八壁ゆかり
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