それぞれの「わたし」の物語
今年は小沢健二So kakkoii 宇宙 Showsがある。
楽しみすぎる。
それで、このあいだの湾岸ライブの時の動画とか、ひふみよのライブ音源を聞いてたりする。これがまぁとにかくアガる。何度聞いても。
新しい曲はもちろんだけど、やっぱり当時の曲がかかるときの会場の盛り上がりっぷり。うぉー!うわー!って感じがなんともいえず。よい。
これなんでかなぁ。ただ「懐かしいから」じゃないんだよなぁ。なんて思いながら散歩をしていた。
そしてふと、それはあの曲たちが、みんながそれぞれの思い出に、つまり「物語」になっているんじゃないか。と思ったので書き留めている。
若い頃はそんな深く考えずに(私の場合)そのメロディーや詩に、また小沢健二というその存在に惹かれて聞いていた。そんな日がずっとずっと続くと思っていた。が、突然彼は私たちの前からいなくなった。
彼と彼の音楽が不在のなか(もちろん存在はしているがその存在を感じられる瞬間がとても少ない時間)、それぞれなりに悩んだり喜んだり悲しんだりしながら毎日を重ねてくる中で、その曲たちに元気付けられたり、涙したりして、支えられてきた。それぞれの「わたし」の物語に寄り添ってきた曲たちはつまりその人それぞれの「物語」になっているんじゃないかなと。
音楽は、たくさんの「わたしたち」に向かって放たれるけれども、それをそれぞれが「わたし」の音楽として抱きしめて歩いていくことで「わたし」の物語になっている。
だからあの曲たちを聞くとあんなにアガるというか、特別な気持ちになるんだろうなぁと。それがあの「うぉー!」であり「うわー!」だなと。
と考えていたら、村上春樹さんも同じことを言っていたなと思い出した。
春樹氏が言っていたのは「読んだ人が自分の物語と感じてもらえる作品を書きたいと思っている」というようなことだった。
音楽や小説に限らず私たちが惹かれるものはそういうことなのかもしれない。「自分の物語」として心に響くかどうか。
小沢健二さんの曲を、それぞれの「わたし」がそれぞれの物語として持っていて。そんな「わたし」たちがあつまって一つの曲を、それぞれ「わたしの物語」を重ね合わせながら聴く。というのはなんともいえないとても素敵な時間で。
とか考えていたら夫婦や家族もそのそれぞれの「物語」を共有する間柄だな、と思った。もちろん物語はそれぞれの「わたし」にとってだけのもので、他の人が同じ物語を生きることはないけれど、夫婦や家族は物語がかなり重なり合って共有されて記憶となっていく。だから時間がたつほど響きあうものが、思い出すシーンがある。そういう仲間がいるっていいなぁ。と思ったりした「物語」の話。わかりづいかもなぁと思いながらもnote。
はやくこいこいツアーシーズン。