気がつけば
気がつけば今年も誕生日がやってきた。ので一応節目的にnote。
恐れていた40歳を過ぎてみれば、なんか年齢に無頓着になったというか、自分の年齢を思い出そうとすると「今いくつだっけ?41?42?」みたいに、迷う感じになってきた。
それはそれで、なんかいいことではないだろうか。
ということで、42になった。
9.11生まれ。アメリカ同時多発テロから20年。
20年前。22歳だった2001年9月11日のことは今も覚えている。
アメリカに留学してみたい。留学するなら料理の勉強をしてみたい、という娘の思いを受け入れてくれた両親のおかげで、2000年4月から2001年3月まで、アメリカはロードアイランド州のJohonson & Wales Universityという大学のCulinary Art(料理学)という学科に1年間の留学をさせてもらっていた。
(東京の大学は2年を終えて1年間休学する形にしていた。それでも授業料はあまり変わらないくらいかかったようだ。そんなに余裕のある家ではないのに、本当に家族には感謝しかない)
その1年の留学を終えて、2001年4月から大学3年生に復学。「英語が使えるお店で働きたい」(大して話せないからこそゼロに戻りたくなかった)と、の思いで広尾をぶらついていて見つけた、日赤病院向かいのカフェレストランでアルバイトをしていた。
オーナーはジャズ好きのアーティスト(自称)。夜になるとギターやドラムの演奏がはじまる元ミュージシャンが店長で、バイト仲間には俳優を目指す30代男性やモデルを目指す20代女性、音楽で食べて行こうとしている20代大学生などなど。そんなメンバーとの職場は本当に楽しかった。クローズ後に、大きなミックスナッツ缶からナッツを取り出しては食べながら、カウンターでお疲れビールを飲んだあの時間を今でも時々思いだす。
2001年の9月11日は、アルバイト終わり、とても仲良くしてくれていた先輩アルバイトのRさんが「誕生日でしょう?」と誘ってくれ、Rさん行きつけの白金の「きえんきえら」に連れて行ってもらっていた。(懐かしすぎる)
二人で呑んだくれて酔っ払っている時に、お店の人がテレビを見て「やばい。やばい」と言っていたことを今も覚えている。
酔っ払いで「ヤバさ」がわからず、明け方自転車に乗って帰って、寝た。起きてからようやく大変なことが起きたことを知った。
それから20年。感覚としてはあっという間だった気もするし、でも「考えて」みれば20年って結構な時間だなぁと思う自分もいる。
東京にいた時代はただただ忙しい世の中に巻き取られ、それに疑いも抱かず、せっせと働いて消費して、を繰り返して生きていたので、2000年なんてつい最近、みたいな気がしていた。でも、ふと立ち止まって考えてみると2000年はもう20年以上も前。2000年に生まれた子どもたちはもう21になっているわけで。
20年って結構なもんだな。と、改めて自分の20年を振り返ってみた。
なかなか思うようにはいかないし、自分なりに辛いことや苦しいこともそれなりにあったけど、なんとか沈まず泳いできたし、「楽しんだなぁ」というのがふっと出て来た感覚だった。
案外、わるくない。
燃え殻さんの「これはただの夏」を読んだ。
中目黒や目黒が主な舞台で、主人公は40代独身(向こうは男性だけど)。私自身大学時代から去年まで中目黒や目黒が生活圏だったことも重なって、あぁ、と共鳴する瞬間がいくつもあった。
主人公のボクの母親の口癖は「普通でいい」「普通がいちばん」「普通になりなさい」。
彼女の言う普通とは、ちゃんとした大学に行って、大きな会社に就職するか公務員になって、結婚して、子どもをつくって、健康で幸せに暮らすこと。
”ボク”はその母親のいう「普通」を何一つ実現していない。
ままならないことで埋め尽くされた日常を生きている。
そんな主人公の”ボク”がひょんなことで、同じく、ままならない人生を生きている優香(おそらく20代)と、”ボク”と同じマンションに住む母子家庭の女の子明菜10歳と会う夏のおはなし。
数日間明菜の面倒をみることになった"ボク"が、目黒の区民プールで遊ぶ明菜を迎えに行き、ごった返すプールの中に彼女を見つけて、「明菜!」と呼ぶ。明菜もボクに気づき、視線と頷きで確認し合う。
「飛び込まないでください!」
拡声器の音声がハウリングする。水着とタオルを抱えていない右手を二度、三度と大きく振った。明菜の口角がすこしあがり、声を出さないではなしかけてくる。明菜の口元は何かを発しているが、読み取れない。ボクはその場に立ち尽くす。火照りのような、熱いものが込み上げてきた。その瞬間、自分が手に入れられなかったものと、手にしたかったものが、目の前を駆け抜けて行ったような気がした。
”自分が手に入れられなかったものと、手にしたかったものが、目の前を駆け抜けて行ったような気がした”
心のどこかが反応した感じがした。
私も今のところ「結婚して、子供を持つ」という「普通」の線路には乗れていない。でもその「普通」は、知らず知らずのうちに自分でかけていた呪いだったことに気づけて、今は楽チンになれている。
けれど。
「手にしたいもの」、は知らないうちに世の中からインストールされた呪いとはまた別の話で。
「こうだったらいいなぁ、生きやすそうだなぁ」と思うもの=手にしたいもの、はやっぱり、ある。
『これはただの夏』は物語だから、「自分が手に入れられなかったものと、手にしたかったものが、目の前を駆け抜けて行ったような気がした」のは燃え殻さん自身のことではなくて小説の中の主人公、なのかもしれないけれど、勝手に燃え殻さんに重ねて、「燃え殻さんはそんなこと思ってなさそうだけど、そうなんだなぁ。みんなそうなんだなぁ」と、勝手に思ってしまった。
自分の首をじわじわとしめていた「普通」からは解放された。それは「ありのままの自分を認める」、というよりは、「ままならないこと、仕方のないことはある。それにうまいこと折り合いをつけて生活していく。そして毎日は続いていく」という感じが近いかもしれない。
きっとみんな、それぞれのままならなさを抱えていて、それになんとか折り合いをつけて毎日を続けている。
ネガティブな感情ではなくて、ただふっと、そんなふうに思った。
思うままに書いたらよくわからなくなった。2021年9月11日。雨のち晴れ。