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くらしのための料理学を読んで

読んだ本の「はっ」として付箋つけたくなるところ。Tumblerに引用したりしてきたけど、ちょっとnoteでやってみようと。

タイトルがザ!読書感想文、って感じだけど、これもまたよし。


家庭料理は民藝だ、と思っている。土井善晴さんも同じようなことをおっしゃっていて。あぁ、だから土井さんの視点と考え方が好きなんだなぁ、と思う。


今日読んだのはNHK出版からでている土井さんの「くらしのための料理学」。ソフトカバーのすぐ読める本。

付箋ポイントを抜粋メモしてみる。

心の中に沈んだ和食の慎ましい観念の上に、理論的で美味しさを強調したわかりやすい西洋料理の観念が覆いかぶさり、私たちと同化してしまったのです。- 第一章 料理の進化の変遷を知る 20頁

「くらしのための料理学」

芸術になりたかったフランス料理は、シェフたちのクリエーションによって、初めて「アール・ド・クイジーヌ」(芸術的な料理)にふさわしい料理になっていきました。- 第一章 料理の進化の変遷を知る 22頁

「くらしのための料理学」

フランス料理の文化を伝えることを使命とした会社にいたことがあったので「芸術になりたかったフランス料理」というのには、はぁー!と思った。

北欧のシェフたちは、子供達が森で遊ぶように、見過ごされていた自然を地球的価値と捉え、親しみ、恐る恐る口にして、美しいもの、食べられるものを発見し、伝統を排除した人間中心の世界観を皿の上に表現するのです- 第一章 料理の進化の変遷を知る 25頁

「くらしのための料理学」

もともと食文化は伝統とともにあるものでした。その土地に根ざした伝統的な食文化は、自然と人々の暮らしを守ってきたのです。しかし伝統を守るだけでは経済的な発展を止めてしまいます。

料理界の進化は経済とともにあって実現できるものです。だからこそ、芸術的な料理の世界は、伝統を否定してでも、進化し続けることを使命とするのです。経済は、進化を人間存在の意義とする西洋的な哲学や科学と一致します。そこから、伝統に縛られない芸術的な料理という枠組みを造ることで、若い才能を巻き込んで、新ムーブメントを起こし、さらなる発展を期待するのです。しかし、それは一方で伝統を否定し、伝統が消えてしまうことにもつながります。- 第一章 料理の進化の変遷を知る 25頁

「くらしのための料理学」

旅先で、ミシュラン星付きのレストラン、よりは地元のお母さんの料理を食べたい、と思うようになっている。こういう説明は、なるほどなぁと思った。

本来、伝統と新しさは別々に評価すべきものです。たとえば音楽においては、クラシック音楽とポップ音楽、電子音楽など、新古に敬意を払い、様々なジャンルを立てて区別しています。料理も同様に、クラシックなフランス料理とポップアートのような芸術的な料理は区別しなくてはならないのです。- 第一章 料理の進化の変遷を知る (26P)

「くらしのための料理学」

音楽のジャンルって、自分にはとても難しいというか、わからないところがあって、「音楽のジャンル分けっている?」と思っていた。(実際、山下達郎氏はラジオで質問に答えて、「いわゆる”ジャンル”はビジネスのマーケティング的につくられたものなのであまり気にしなくていいです」、と言っていた)

でも、この土井さんの言葉を読むと、なるほど。きちんと分けることで、伝統と新しさがごっちゃにされず、それぞれの評価ができる、というところもあるんだ、と思えた。

大地とつながる料理は、レストランでなくとも、家庭(特に地方の伝統的に暮らす家庭)にもあって、素朴な食事のスタイルが暮らしの中に維持されています。- 第一章 料理の進化の変遷を知る - 第一章 料理の進化の変遷を知る(27P)

「くらしのための料理学」

うちは、まさに「地方の伝統的に暮らす家庭」、だなぁ、と思い、ちょっと誇らしくなった部分。つつましく、それを続けていくことをしていきたい。

自然の恵みや伝統を守り、地元の農産物や畜産物を積極的に楽しむ豊かな暮らしは、古くから「アール・ド・ヴィ(人生の芸術)」と呼ばれて、尊ばれています。実際そういった暮らしを体験すると、これで十分と感じられる豊かさがあるのが、伝統(クラシック)です。- 第一章 料理の進化の変遷を知る(29頁)

「くらしのための料理学」

「これで十分」は、まさに消費資本主義と対極にある「ちょどよさ」。それは私が田舎で暮らしていてまさに感じる心地よさだと思う(私の場合はそれを求めて戻ってきたところがある)

和食の調理ではそのような変化の中で「美しさ」を見つけることを基準にすればいいと考えています。- 第二章 和食を考える 63頁 

「くらしのための料理学」

「美しさ」。小沢健二さんも昔からよく言っている「美しさ」。ここにもでてきた。

お肉には、和食文化には引き受けられないほどの快楽的な美味があるからです。禁じなければ、食材にあまり手を加えずに調理するという繊細な感受性を持つ和食文化は持続できなかったのでしょう - 第二章 和食を考える 65頁 

「くらしのための料理学」

快楽的な美味。わかりやすい美味。和食のおいしさはこちらから迎えに行かないといけないけど、西洋の美味しさはあっちからドーンとやってくる、みたいなことを前にどこかで読んで、ほんとそうだなと思った。

大学時代からの、最近はあまり会えていないのだけれどとても大事な友達と思っている友人が、「日本人は無味のものを美味しいと思える特殊な味覚を持っている」と言っていて、その言葉も思い出した。蕎麦も豆腐もこんにゃくも山菜もほぼ無味。プレーンな味わい。でも美味しい。ないと困る。

この国の人々は、自然の中に「八百万の神」をみて、人間が作った道具でさえ「つくも神」としました。
( 略 )
つまり、目に見えない、人間にはどうにもならないものを神様だとしたのです。
(略)
目に見えないものの存在や働きを感じることで、人間の過剰な欲に歯止めをかけて、いましめる。そうすることで、暮らしを美しく、清潔に整えることが、循環するのだと思います。自然に寄り添うことで過剰なものが抑えられるのです。第四章 料理が暮らしをつくる 80頁

「くらしのための料理学」

むかしよくじいちゃんばあちゃんに、「そんなことをするとばちがあたる」って言われたことを思い出した。そういう考え方を大人から子供に受け継いていくことで、欲に歯止めをかけていきてきた。で、現代はそういう歯止めがなくなって欲がとめどなくなってしまった。

そしてここにも「美しさ」。


と、読んだすぐ後に、心に残った部分をこうしてnoteにしてみる試み。どうだろうか。仕事以外でパチパチ仕事をあまりしたくないのが、難しいところなのだけれど。



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